拉致事件・政治等

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犯罪防止のために

{{{広島市安芸区の小学1年の女児が下校中に殺害された事件で、広島県警捜査本部は現場近くに住む容疑者を殺人、死体遺棄容疑で、三重県鈴鹿市の知人宅で逮捕した。女児が段ボール箱に詰められて住宅地に放置される異常な事件は、発生から1週間で解決した。}}}
1年前、私の家の近くでもある奈良に住む、同じく小1の女児が殺害された。その時も犯人に強い憤りを感じると同時に、こんな住宅街でも物騒になったものだ、というショックを受けた。今や監視カメラを使わずして街を安全に保つことは難しくなった。場所は当然わからないが、私の街でも1年前の事件からカメラの設置が増えたらしい。

歴史的にテロが多いことも影響しているからか、ロンドン市内には無数に監視カメラがあるとのこと。犯罪を監視カメラで防止・または証拠を残すのは、日本に限らないようである。冷戦後、東西問わず人が交流するようになり、ヒト・モノなどの交流が増えたとは結構なことのように聞こえるが、同時に犯罪者・大麻などの流通がしやすくなっていることも意味する。特にEU内では国境線があいまいになっていることもあり、なおさら犯罪の被害というのは深刻だろう。

監視カメラにはプライバシーの問題などで様々な批判があがるが、政府は出来るだけ犯罪防止・抑止につとめなければいけないのであって、それを非難する訳にはいかないように思う。むしろ私たちから犯罪防止作業を施し、監視カメラのいらない地域をつくることがまず先であろう。
このような犯罪が比較的おきにくいのは、やはりコミュニケーションのとれた地域である。
隣の住人がどんな人であるかを把握できていない状態の地域では、不審者が誰であるか見極めをつけにくい。そのコミュニケーションはどのような場面で育まれるかを考えると、月一回の地域全体で行うゴミ掃除や、地域での祭りや、何らかの催し、列挙すれば多々ある。またそういった行事は相互理解のきっかけにもなるのではないか。一見面倒くさいように思う上記のような取り組みを再興させない手はないように考える。

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「〇〇社長」
「〇〇長官」
「〇〇議員」
「〇〇おじちゃん」
「〇〇先生」
「〇〇大統領」
親しい人が、他所で何かの役柄をあらわす敬称をつけられていた時、一風違った目で相手を見つめなおした経験があるのは私だけではないだろう。28日、西村眞悟衆議院議員が逮捕された。今日の新聞に飛び込んできた文字は、「西村‘容疑者’」。今までしばしばあったことだが、テレビなどでよくみる芸能人、議員などが「容疑者」となったときには殊更に違和感を覚える。
私は西村議員がテレビの場などでブルーリボンをつけているのを見るたびに彼をかっこいい、頼れる存在だと思っていたので、今回の出来事はまことに残念でならない。
西村議員はそのお金で、政治資金の足しにしていたという見方がある。
以前、ある議員(名前、忘れました)が資金がすっからかんなのをテレビで取り上げられ、「汚い金を使っていなかったらこうなるんだ」という感じの事を言っていて苦笑したが、政治資金とは本当に金がかかるものらしい。国民からの助成金ができても、今回のようなことは叩けばいくらでもでてきそうだ。歳出削減など現在金銭面関係の問題が多々ある日本だが、金のかからない政治活動はどうやって実現できるのか。この機会に頭を捻ってみようかと思う。

日本国憲法改正にあたって自民党、民主党をはじめ、他の党からも草案がでてきている。最終的に改正は国民投票の過半数によって決められるので、私も勉強しとかなくては・・・と思い、勉強に励んでおります。

憲法改正にあたり、まずおさえておかなければならないのは明治憲法だと思う。小学校の教科書では明治憲法はプロシアを真似た憲法、若しくは現在の日本国憲法と比較され、現憲法に比べて自由がなかった・・・的な事くらいしか習わなかったが、よくよく勉強してみると、そのような考え方だけで明治憲法を片付けてしまうのは、いささか短絡的(恣意的が含むかも)なことがわかる。

憲法は明治になるまで日本には無く、従ってそれをつくる際には海外から学ばなければいけないことが多々あったことは事実。憲法作成に尽力した伊藤博文らは、直接ヨーロッパにも行き、海外の憲法に様々な『ヒント』を得た。しかしそれを日本に直輸入、つまりただ単に真似した訳ではなく、日本の歴史や伝統に基づかなければならないと考え、また日本の伝統的な政治理念と近代国家の統治理念とを何とか融合させようと苦慮したことが伺える。そしてシュタインやグナイストが国家の精神的基礎として宗教を位置づけていることを受けて、国家には「機軸」すなわち精神的基礎が必要であるが、日本においてはそれは宗教ではなく、皇室であるということ、すなわち明治日本は主教国家ではなく、世俗国家であるということを宣言したのである。

なぜ学校で上記のようなことを教えなかったのかなぁ。
手持ちの中学校の教科書の一部分を引用すると↓
『憲法制定と国会開設とは、自由民権運動の成果でもありました。この憲法のもとで国民の自由と権利は、法律の許す範囲内で認められることになりました。しかし、その法律(明治憲法)には国民の権利を制限するものが多く、神道の祭典が国や学校の行事に取り入れられ、信教の自由が完全には保障されなかったことなど、いろいろな制約がありました。』
国民の権利を制限するものが多く→とあるが、まず、憲法とは大なり小なり制約があるものでないと意味がないのでは、と思う。
神道の祭典が国や学校の行事に取り入れられ、信教の自由が完全には保障されなかった → これは現在においても争点となっている「日の丸・君が代」のことを指していると思われるが、先ほど述べたように日本人は精神的機軸が皇室であった(もしくは現在でもある)わけで、それを不自由や押し付けと感じた人が多かったかといえば疑問である。また伊藤博文らが皇室に機軸をもとめ、したがって他国家にも珍しく、信教の自由は保障していたことには言及していない。

締めくくりに俳人をお招きして恐縮であるが・・・・・松尾芭蕉の詠んだ歌に『古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ』(古人の遺した外形を追い求めないで、古人の追及した精神を学べ)というものがある。憲法改正にあたって日本が学ぶべきところは、明治憲法に関していえば、伊藤らの「求めたるところ」であるように思う。

参考
PHP新書『明治憲法の思想』八木秀次
第一学習者『国語便覧』
世界週報
大阪書籍『中学社会』 1998
扶桑社『新しい歴史教科書改訂版』

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国家学のすすめ [2]

国民は私たちのなかにあるさまざまなアイデンティティーの一つである。この点を特に強調するのは、国民というと、直ちに「国民」と「個人」のいずれが優先するのかといった二者択一的な形で問題を立てる人が多いからである。しかし、・・・私たちは「国民」であるとともに様々な何者かである。たしかに、後の述べるように国民としてのアイデンティティーが、他の例えば家族としてのアイデンティティーと先鋭に矛盾するようなケースがありうるであろう。その点は「○○会社の社員」であることが、時に「父」であることと矛盾したりする(「休日出勤で子供を遊園地に連れて行けない」)のと同様である。だからといって、「○○会社社員」であることや「父」であること自体を否定する訳にはいけない。それと同様、国民について語ること自体を忌避するのは誤っている。
理想的な個人とは、こうした諸々のアイデンティティーを否定して、単なる「人間」に回帰するのではなく、むしろ、こうした諸々のアイデンティティーのそれぞれが妥当する場や状況を的確に把握し、それを巧みに演じていけるような成熟した人格を指すのではなかろうか。・・・・「良い○○会社社員」であり、「良い友人」であり、「良い市民」であり、さまざまな「良い・・・」であることが、一人の個人の全体としての理想のアイデンティティーを形成するのであろう。むろん、この「良い」が何であるかは、私たちが日々の生活のなかで探求していくべき課題である。そして、そうした様々なアイデンティティーの理想の探求のなかに、「国家」に所属する「良き国民」とは何かというテーマが含まれるのである。


以上は故坂本氏の「国家学のすすめ」より1部抜粋したものです。「国民」という言葉をことさら避け、一時は憲法改正案にも「地球市民」という言葉を扱った草案(確か民主党)もありましたが、そのように過敏に「国民」という言葉を気にするのには、上のようなことが整理できていないからではないかな・・・と感じます。

国家学のすすめ[1]

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『国民か市民か、とか、国家か市場か、といった選択を立てて、前者から後者に移行するのが進歩であり、前者に固執するのは「進歩」への「逆行」だという考え方を突きつけるのである。・・・こうした進歩の考え方は、物事が完全に変質していくのを「進歩」と見ているのである。全地球から、国家という存在が解消してグローバルでボーダーレスな社会が生まれるという具合である。確かに、時間の経過に伴って、完全に消滅していく事物というのはあるであろう。しかし、進歩といわれる事態の多くを実際に観察すれば、それは、既往の事柄が完全に消滅して全く新奇なものがそれに取って代わるというよりは、むしろ、古いものの上に新たなものが積み重なっていく過程ではなかろうか。確かに、新しいものに覆われて古いものは注意を引かなくなる。しかし、依然として存続して、その意義を保持し続けているのである。進歩とは、事柄の完全な変質の過程ではなく、そうした蓄積の過程ではないだろうか。現に個人の成長をとってみても、大人になるということは、子供時代に持っていたすべてを否定して、まったく新しいものを身に着けるということを意味するのであろうか。実際はそうではなく、むしろ、人間の成長は、ひとつの人格の中で、新たな精神の層が古い層の上に蓄積的に形成され、それらを統合していく過程ではなかろうか。真の大人とは、子供時代の率直な驚きや疑いの能力を完全に失うことなく、それを大人として身につけた知恵や分別で適切に統御するような人間ではなかろうか。』


「国家学のすすめ」より抜粋。著者は故、坂本多加雄氏。本を読ませていただいてから、1度でもお会いして講義を訊きたいと思っていたのに、すでにお亡くなりになっておられると知って非常にショックを受けました。いくつかある氏の素晴らしい遺作を読むことにより、少しでも勉強できたら、と思います。

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