|
10数年前(もう約20年前といった方がむしろ正確)、私がメキシコでやんちゃしていた頃、
友人のメキシコ人が彼の恋人に向かって言ったことがあります。
「お前は俺の恋人であって、女房でもお袋でもねえんだ。
だから俺がどこの女と遊ぼうとお前の知ったこっちゃねえ!」
ヒドイ話ですねえ、一体どういう理屈で、コイツは逆切れできるんだろう。
しかし私は、そのとき面白いなあとも思いました。
そんな極悪非道なセリフを面白いと思う私の感性こそ酷い! と怒らないでねw
私が面白いと思ったのは、日本人の考える「恋人」という概念とメキシコ人の考える「恋人」という概念が、必ずしもequivalent(等価なもの)ではないかもしれないという疑問がわいてきたからです。
つまり日本人にとっての恋人とは通常、「恋愛関係にある特定の相手(1人)」と理解されるはずですが、もしかしたら他の国では、「恋人」の格付けがもっと軽くて、なおかつ複数いてもおかしくない感覚なのかなと疑ったのです。
相思の間柄にある相手方が必ずしも1人であるとは限らないわけです。
アラブの国では一夫多妻制ですし、ラテンの国では女の子に片っ端から声かけますからね。
ちなみに私がメキシコで必ず聞かれた3つの質問は「空手やっているか?」「メキシコ人のガールフレンドはいるか?」「恋人は何人いるのか?」というものでした。
私はその時チェリーボーイでしたよ。(20歳までね)
愛のないセクースはしない主義でしたので。(嘘w
概念ってinvisible(目に見えないもの)ですから、そこに共通の前提条件があるか、詳細について定義されなければ理解されません。
なにせ形のないものですから、考え方としてその国に存在しなければ、それを表現する言葉も必要ないのです。
たとえば自分をへりくだって表現する言葉使いとして「謙譲語」という形式がありますが、「そんなややこしい動詞活用なんてどうして存在するんだ、面倒だね」と日本語専攻の外人さんは嘆きます。
相手によって「言う」という動詞が「おっしゃる」とか「申し上げる」とかに変わるんだからそりゃ大変です。まあ正確にいうと謙譲語は動詞活用じゃないけどねw
形として存在しても必要性がなければ言葉も生まれてこないことだってあります。
つまり国によっては「粉雪」とか「牡丹雪」といった分類をしない言語も当然あるということですね。
話が長くなると読みづらくなるので今日は、前置きだけにしておきますが、ポイントは「日本人が考えている恋人という概念が、必ずしも外国人の考える恋人と一致するわけではない」ということです。
えっ何、そんなくだらねえこと!?
とか思わないで下さい。
日本で当たり前だと思っていたことが、日本の外では受けとめられ方が全く異なる場合もあるということを体感することがとても大事なんです。
ましてや同じ概念を意味する言葉と言葉の間に微妙なズレとか異なる解釈が存在するということを発見することは、日本を再認識することでもあります。
常識が通用しないという経験をすることによってパラダイム・シフトが促され、それは新たな発想や理解を生み出していく原動力となるのです。(=自分が当たり前だと信じていたことが通用せず、理解されないのですから、それは強烈なカルチャーショックになり得るわけですし、視野が広がることにつながるのですが、日本にとどまっているとそうした経験を積む機会はなかなかありません。) 説明がクドくてすみません。
異文化・外国人と接することで、日本に対する理解が深まることがあります。
外国との相違点を比較・考察することで、それまで意識しなかった日本を実感するからです。
日教組の功績により「日本人ほど自国に対する意識と認識が低い民族はいない」とよく言われますが、国歌国旗に尊崇の念を持たせず、自国の歴史も正しく教育しない戦後教育の現場にあっては無理もありません。
どんなに語学が堪能であったとしても、日本のことを知らなければ、日本人が真の国際人として活躍できることはないでしょう。
話が通じても話すべきコンテンツがなければ、意味をなさないし、人間としての深みを感じることは決してないからです。
この点を踏まえ、次回のブログ記事で日本人の交渉下手という観点から「通用しない日本人の価値観」の続編を論じていきたいと思います。
|