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所属チーム

90-96 ASモナコ 96-01 パルマAC 01-06ユベントス 06-08 バルセロナ

獲得タイトル

90-91 フランスカップ 98 ワールド杯 98-99 UEFAカップ コッパ・イタリア
99-00 イタリア・スーパーカップ - 優勝 00 欧州選手権 01 コンフェデレーションズカップ
01-02 スクデット 02-03 スクデット 03 コンフェデレーションズカップ 
03-04 イタリア・スーパーカップ 04-05 スクデット 05-06スクデット 
06-07 スペインスーパーカップ

抜群の身体能力で1対1の強さやスピードで相手を封じ、身体能力のみに頼ることなく冷静な判断力とポジショニングの妙やコンビネーションで強固な守備を形成し、機を見たオーバーラップで攻撃に厚みを持たせることのできる優秀なSBかつCBであったリリアン・テュラム。

90-91シーズン、ASモナコでプロとしてのキャリアをスタートし、フランスカップを勝ち取る。
95-96シーズンまでの間モナコでプレーし、96年夏に当時パルマの監督であったカルロ・アンチェロッティからのオファーを受け00-01シーズンまでテュラムはパルマでプレーする。
テュラム、カンナバロ、トリージ、ブッフォンの守備ブロックはセリエAを代表する堅固な守備ユニットであった。

98-99シーズンはテュラムにとって最高の年となった。シーズン前にW杯でフランス代表として優勝し、アルベルト・マレザーニを監督が指揮するパルマはコッパ・イタリアを獲得し、さらにマルセイユを決勝で下してUEFA杯を勝ち取った。

EURO2000で優勝を勝ち取り、代表の2大タイトルを制する。00-01シーズン終了後…復権を目指すユベントスはテュラムとブッフォンを獲得し、テュラムは遂にスクデットを獲得することになる。
ユベントスでは主に右SBを担当し、CBも務めた。04-05シーズンにはパルマ時代の僚友カンナバロが加入し、ブッフォン、カンナバロと共に再び強固な守備ユニットを形成。
ユベントスでスクデットを4回(そのうち2回はカルチョ・スキャンダルのため剥奪)とイタリアスーパーカップを1回勝ち取った。

スクデットそしてクラブ最高峰のタイトルであるビッグイヤー獲得を夢見たテュラムだが…0203CLではPK戦にて破れ悲願は達成できず…カルチョ・スキャンダルの影響にてCL出場は断たれ…2部降格が考えられる中、テュラム本人の願いであるビッグイヤー獲得のためバルセロナに移籍する。
(高額の年俸と降格による収入減少による財政悪化を改善させる移籍といった話もある)

06-07シーズンFIFAクラブワールドカップでは準優勝に甘んじ…バルサの不調も相まって在籍2年間でスペインスーパーカップのみに留まる。

代表では先述の通り98W杯、EURO2000での優勝。01年と03年のコンフェデレーションズカップ優勝の経歴がある。最終的に142試合出場というフランス代表史上最多出場プレーヤーとなる鉄人ぶりを発揮。

08年夏…移籍先のパリ・サンジェルマンのメディカルチェックにて心臓奇形が発覚。
『家族の希望を尊重するために、現役を引退することを決定した。PSGのパオロ・マルディーニになりたかったけど、不可能になってしまった。こういった形で現役を退くのは悲しい』とコメントしテュラム本人も不本意な形で現役生活を終えた。

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所属チーム

87-94 カールスルーエSC 94-08 FCバイエルン・ミュンヘン

獲得タイトル

94ドイツ最優秀GK 95-96UEFAカップ杯 95-96EURO96 96-97マイスターシャーレ 97ドイツ最優秀GK 
97-98DFB杯 97-98ドイツリーグカップ 98-99マイスターシャーレ 98-99ドイツリーグカップ 
99世界最優秀GK 98-99DFB杯 99欧州最優秀GK 99ドイツ最優秀GK
99-00マイスターシャーレ 99-00DFB杯 99-00ドイツリーグカップ 00欧州最優秀GK 
00ドイツ最優秀GK 00-01マイスターシャーレ 00-01UEFACL 00-01ドイツリーグカップ 
01世界最優秀GK 01欧州最優秀GK 01ドイツ最優秀選手 01インターコンチネンタルカップ 
01ドイツ最優秀GK 01 FIFAフェアプレー賞 02W杯最優秀選手 02W杯最優秀GK 02世界最優秀GK 
02欧州最優秀GK 02ドイツ最優秀選手 02ドイツ最優秀GK 02-03マイスターシャーレ 02-03 DFB杯 
04-05マイスターシャーレ 04-05DFB杯 04-05ドイツリーグカップ 05-06マイスターシャーレ 
05-06DFB杯 07-08マイスターシャーレ 07-08DFB杯 07-08ドイツリーグカップ

ゲルマン魂を体現する熱き闘魂を持ったスーパーゴーリー。サッカー選手のロルフ・カーンを父に持ち、幼少の頃から同国GKゼップ・マイヤーに憧れ、GKを目指す。
(後にマイヤーはカーンのバイエルン移籍と同時期にバイエルンのGKコーチに就任。ドイツ代表GKコーチでもありカーンと師弟関係を築いていく)

キャッチング、パンチング、ディフレクティングにおいてハイレベルでこなし特にパンチングは防御性、飛距離共に世界屈指である。

またカーンの持ち味として、1対1の局面で両手を下に突き出して相手の前へ飛び出し、胸で壁を作り
相手のシュート範囲を狭め胸でブロックすることもあった。

判断力良くためらうことなくセーフティに守備を実行し、1対1の場面で待つのか、飛び出してスライディングで防ぐのか、身体でブロックするのか状況に適した対処法を選択していた。

PKセービングにも強く『カンプノウの悲劇』から2シーズン後のCL決勝ではPK戦でペジェグリーノのキックをストップしキャリアのハイライトのひとつとなった。

またカーン程コーチングの声を出すGKはそういないであろう。クラブ・代表問わずゴールマウスから怒りとも激励とも取れるコーチングで守備連携を整えると共にキャプテンシーを放っていた。

また圧倒的な威圧感や性格からピッチで問題を起こすこともあり99年4月のドルトムント戦では相手のシャブイサに、空中戦での競り合いの際に飛び蹴りをし、理由を問われると『チームを深い眠りから覚まさせたかった』と述べ、同試合中にはラフプレーをした選手に今にも噛みつかんばかりに顔を近づけ抗議する姿もあった。
また02-03シーズンのレバークーゼン戦にはオフサイド判定にもかかわらずシュートを打ったブルダリッチの首根っこをつかみ引き倒そうとし、試合後ブルダリッチは『殺されるかと思った』とのコメント。
他にもクローゼの鼻に指を突っ込もうとするなど、この手の話が多くある。

代表ではイルクナー、ケプケといった偉大な先人達がいたことで長くベンチを温めることになるが、正GKの座を掴んで初めて挑んだ02W杯ではクラブ以上のパフォーマンスを披露しチームを高みへと導いた。

今後はTVでの解説者を行う予定であり…解説者として選手を叱咤激励するカーンの姿が見れるであろう。

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所属チーム

91-94 ディナモ・チェスケ・ブデヨビッツェ 94-95 ビクトリア・シジコフ 95-96 スラビア・プラハ 
96-97 マンチェスター・ユナイテッド 97-01 ベンフィカ 01-02 ラツィオ 02-05 スパルタ・プラハ 
05-06 ディナモ・チェスケ・ブデヨヴィツェ  

獲得タイトル

95-96チェコリーグ,96チェコ最優秀選手,96-97プレミアリーグ,02-03チェコリーグ,
03-04チェコカップ, 04-05チェコリーグ,

スピードに乗ったドリブルとサイドからのクロスボールでチェコの右サイドからのチャンスを演出した
チェコ屈指のサイドアタッカー。

デビューしてからはチェコ国内でプレーをし、EURO96にダークホースとしてのし上がったチェコ代表の中でパベル・ネドヴェド、パトリック・ベルガ−と共にチェコの躍進に貢献し、準々決勝のポルトガル戦では華麗なループシュートを決めた。

EURO96の活躍がファーガソンの慧眼にとまり、マンチェスター・ユナイテッドへの移籍に成功するが、
ファギー・ベイブスの申し子であるデビット・ベッカムの壁は厚く1年で退団しベンフィカに移籍する。

ベンフィカではタイトルこそなかったものの出番を確保していた。そしてその後ラツィオに引き抜かれることになりイタリアの地を踏む。

そして加入した01-02シーズン最終節のインテル戦、この試合インテルが負けるとローマがスクデットを獲る可能性があったため、ラツィオサポーターはインテルを応援。
しかしここでポボルスキーが点を入れるとラツィアーレから大ブーイング。
この日2得点を挙げて勝利に貢献したポボルスキーは試合後に『点を入れた時っていうのは主役になれる時なのになんで悪者にって、もうこんなチームには居たくない』と述べ、即刻クラブと契約を破棄し、
スポーツカーに乗ってエクスプレストレインのように車をかっ飛ばし母国チェコへ帰っていった。
(結局インテルが負け、ローマも躓いたため、01-02シーズンはユーベが逆転優勝を果たす)

母国に帰還後は国内屈指の名門スパルタ・プラハでプレーし、タイトルを獲得。
02W杯はプレーオフにてベルギーに敗退し、ポボルスキー自身が一度は代表引退を口にするが奮起し、
EURO04では予選からオランダとの名勝負を繰り広げ、本大会でもオランダと当たるも勝利し、決勝トーナメントに進出するが、ベスト4にてギリシャに敗退することとなった。

06W杯の出場の掛かったプレーオフを勝利し、前回、後一歩で涙を呑んだW杯出場を手にする。
本大会でGL初戦のアメリカ戦は勝利するものの、2戦目のガーナに破れ、3戦目のイタリアにも破れ1勝2敗で姿を消した。

大会後ポボルスキーは代表引退を表明。出場キャップ数は118で同国最多出場である。

クラブレベルではW杯前の05-06シーズンの冬にヤロスラフ・フレビク監督と対立したため、選手生活を始め、チームの役員でもある当時2部のSKディナモ・チェスケ・ブジェヨビツェへ移籍した。
その後、司令塔としてチームを1部リーグ復帰に導き07年5/28の国内リーグ最終戦スラビア・プラハ戦後
『私は引退することをウインター・ブレイク中に決断していた。モチベーションを維持することが難しくなってしまったんだ。もはやフットボールに満足できなくなってしまった。』との言葉を残し引退。

引退後はチェコサッカー協会の役員として入閣し、カレル・ブリュックナーの補佐をしている。
EURO08後に退任するブリュックナー監督の後任としてチェコ代表を指揮するとの噂がある。

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所属チーム

87-92サウサンプトン 92-96ブラックバーン・ローバーズ 96-06ニューカッスル・ユナイテッド

獲得タイトル

90-91 U-21ツーロン・トーナメント優勝・得点王・MVP 94-95 プレミアリーグ優勝 
94-95 プレミアリーグ得点王 95イングランド年間最優秀選手(PFA選出) 
95-96 プレミアリーグ得点王 EURO96得点王 96-97 プレミアリーグ得点王 
97イングランド年間最優秀選手(PFA選出) 
02プレミアリーグ創設10周年記念国内最優秀選手 02プレミアリーグ創設10周年記念ベスト11
02プレミアリーグ創設10周年記念特別功労賞
決して華麗なプレーではなく、押し込むようなパワーを活かしたゴールが多いストライカーである。
しかし、随所に見せるポストプレーや経験を活かしたポジショニング、なによりダイレクトボレーなどワンタッチでゴールを決める技術に卓越した選手だった。

1988年4月9日…その青年のデビューはあまりにも衝撃的だった。

試合当日、サウサンプトントップチームのレギュラー選手がフィットネステストに失敗し、ユースの練習を終えランチを取っていた青年が急遽召集された。

そしてその青年は試合開始から5分で点を決め、さらに2ゴールを追加。デビュー戦で17歳と240日の
最年少ハットトリック記録を樹立し、かつ相手は当時のイングランド・リーグで屈指の守備力を誇った
アーセナルであった。
そしてイングランド中に名を知らしめた青年アラン・シアラーは数日後にサウサンプトンとのプロ契約を結ぶのであった。

そしてサウサンプトンでレギュラーを獲得した頃、サー・アレックス・ファーガソンからオファーがくるも袖にして昇格したてのブラックバーンへ移籍する。そして3シーズン後、マンチェスター・Utdの3連覇を阻止し、優勝したのは
34ゴールを挙げチームに貢献したシアラーの所属するブラックバーンであった。

EURO96での活躍もあり、移籍話が舞い込んできた。そのクラブの中にはバルセロナやユベントスの国外の強豪に加え、ファギー率いるマンチェスターUtdからも再びオファーが舞い込んできた。
しかし、シアラーが選択したのは故郷のニューカッスルだった。
この選択に国内国外を制覇する最強のチームを作ろうとしたファギーは、2度に渡り袖にされたことで激怒した。

だが、シアラーの選択には理由があった。なぜならシアラー自身がニューカッスルの出身であり、ケビン・キーガンに憧れ、幼き頃からニューカッスルのファンだったからである。
また、当時のニューカッスルの監督が憧れのケビン・キーガンその人であったのも大きかった。
そして何より15歳の頃トライアルにて入団できなかった背景があるからであった。
(トライアル時、シアラーに用意されたポジションはFWではなくDFだった)

ニューカッスル移籍初年度の96-97シーズンは31試合25得点を記録。3年連続リーグ得点王になると共に
チームをまたいでの記録となった。ニューカッスルではチームタイトルこそ恵まれなかったが、リーグでは2位に
つけるシーズンもあり、またUEFA杯やCLにも出場しニューカッスルの名を欧州に知らしめた。
また、ニューカッスルでのクラブ通算200ゴール記録を更新し、ジャッキー・ミルバーンの得点記録を塗り替えた。常々シアラーはトップフォームのまま引退をしたいと願っており、04-05シーズン終了後に引退を表明したが、
撤回し05-06シーズン後に引退となった。
最後の公式戦はサンダーランドとのタイン・ウェア・ダービーで負傷により最終節を待たずに引退となってしまった。このシーズンは椎間板ヘルニアの手術もあり、出場数は激減していた。
引退試合はセント・ジェームズ・パークでのセルティック戦。引退試合のチケットは数時間で売り切れ、52,000人の超満員の中、試合は2-2で終了かと思われたロスタイムにニューカッスルがPKを獲得。
副審が選手交替の電光表示板を掲げるまでもなくシアラーが登場し、傷む膝を引きずりながらPKを決めてみせると、満員の大観衆が一斉に立ち上がってシアラーのラスト・ゴールを大いに祝福した。

代表ではU-21ツーロン・トーナメント優勝し、得点王とMVPを獲得。
フル代表ではEURO96,98W杯,EURO2000に出場。
地元開催でのEURO96では優勝こそできなかったものの、5得点を挙げ大会得点王となる。
29歳の若さで代表を引退したが、理由は度重なる怪我、家族との時間を作ること、衰えをみせずにトップフォームのまま去りたいという願いからであった。
代表通算63試合30得点。もし代表を引退しなければ、ボビー・チャールトンの得点記録を塗り替え、02W杯で日本にも来日したかもしれない。

92年,97年,2000年と3度に渡り半年近くも戦列を離れ、7度に渡る手術経験がありながらもゴールをあげ続けたのは、サウサンプトンユース時代に毎朝3マイル走り、練習後は用具係りが止めるまでボールを蹴り続けたシアラーの努力と『鉄の意志』があったからこそに他ならない。

ニューカッスル訛りが未だに抜けずに気性の激しさと人なつっこさ、兄貴肌の同居した、まさにジョーディ(ニューカッスルっ子)である。
また、非常に愛妻家でありレイニャ夫人とは17歳のころからの付き合い20歳で結婚。
妻と1男2女とパパラッチに追われるような生活はせずに、良き夫、良き父親として暮らしている。
ジョーディであり、一家庭人としても良き振る舞いをしているまじめな気質が、プレミアでも熱狂的なサポーターであるトゥーン・アーミー(ニューカッスルのファンの愛称)に好かれる由縁でもある。

現在はBBCで解説をし、いずれはニューカッスルでコーチなどの下積みをしてから、トップチームの監督をすることを目標としている。
先のイングランド監督選考時には、現在の自身の力量を考え、否定的なコメントをしている。
代表やクラブの監督になることには急いでいないようである。

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所属チーム

86-87 レコンキスタ・サンタフェ 87-89 ニューウェルズ・オールドボーイズ
89-90 リーベル・プレート 90-91 ボカ・ジュニアーズ 91-00 フィオレンティーナ 
00-02 ローマ 02-03 ローマ(1月から)インテル 03-05 アル・アラビ 

獲得タイトル

89-90 アルゼンチンリーグ 91 南米選手権・南米選手権得点王
南米年間最優秀選手(エル・ムンド紙) 93 南米選手権 94-95セリエA得点王 95 南米選手権得点王 
95-96 コッパ・イタリア 96 イタリアスーパーカップ優勝 00-01 スクデット 
01 イタリアスーパーカップ 03-04 カタールリーグ得点王 
「バティゴール」のニックネームで破壊的なシュート・打点の高いヘディング・強烈なFKを武器にゴールを量産し、セリエA外国人最多得点記録ならびにアルゼンチン歴代最多得点記録を持つストライカー
金髪で長髪をなびかせる姿から「獅子王」のニックネームもある。

幼少の頃はバスケットが大好きな少年で、将来の夢はバスケットのアルゼンチン代表としてオリンピックに出場することだった。その一方で学業でも優秀な成績を収め医者を志しもしたという話がある。

78年に行われたアルゼンチンでのW杯でマリオ・ケンペスのプレーに触発されるが、本格的にサッカーを始めたのは17歳の頃だった。地元のレコンキスタ・サンタフェからニューウェルズ・オールドボーイズに加入。
その後もリーベル・プレートに移籍していく。リーベルでは2シーズンで9試合5ゴール。
89-90シーズンのリーグ優勝を果たす。

リーベル・プレートでパサレラとの確執の噂もあり移籍をするが、移籍先はリーベル最大のライバルの
ボカ・ジュニアーズであった。ボカに移籍後は29試合13ゴールを挙げる。
この活躍を受け代表に招集され91年の6/27に行われたライバルであるブラジル戦でデビューを果たす。
そしてコパ・アメリカでは7ゴールを挙げて得点王を獲得すると共に南米王者に輝く。

大会終了後にセリエAのフィオレンティーナに移籍。初年度は13得点を挙げ、翌シーズンは16得点を記録するがチームはB降格に。しかしバティはフィオに残留しセリエA復帰へと活躍する。
94-95シーズンには開幕から11試合連続ゴールという記録を樹立しシーズン通算26得点を記録し、セリエA得点王となる。94年からパートナーを組んだルイ・コスタのアシストもあり、フィオレンティーナ在籍期間中は
全てのシーズンで2桁得点を記録した。

しかし、セリエAの覇権を得るべきために経営に無理が祟ったフィオレンティーナは財政難になる。
そのため当時では2番目に高い移籍金でローマに移籍することになりフィレンツェの街を去った。
また、この時にスタジアムのアルテミオ・フランキの前にあったバティの銅像はティフォージが
怒りのあまり壊してしまった。

そしてバティはローマへの移籍初年度に念願であったスクデットを獲得し、自身も20得点を挙げる活躍をする。
このシーズンにはフィオレンティーナ相手にもゴールを決めているが、決して喜びはせず悲しみにくれていた。
しかし、翌シーズンは怪我の影響もあり23試合で6ゴールとイタリアに渡り初めての一桁得点記録だった。
これを境にバティは怪我もありゴールを挙げる数が減少し、02-03シーズンの冬にはインテルへ移籍するが、
たいした活躍はできずにいた。イタリアでは344試合で199ゴールを挙げる活躍をした。

03-04シーズンからカタールのアル・アラビへ移籍。開幕からチームは不振を極めたが、監督が代わるとバティは得点を挙げられるようになり、18試合25得点を挙げ、カタールリーグ得点王となった。
しかし05年3月、怪我によって試合に出ることがままらなくなったため、クラブとの契約を打ち切り現役引退を発表した。
バティはカタール移籍後も常々フィオの動向を気にしており、フィオへの復帰も考えていたが、
フロントのデッラ・ヴァッレ兄弟はバティを必要とせずにいたためフィオに復帰することはできなかった。

アルゼンチン代表では91年だけでなく93年のコパ・アメリカも制覇し95年大会は再び得点王に輝く。
W杯は94年98年02年に出場。
94年はハットトリックを含む4得点を挙げ、98年にもハットトリックを達成し、W杯史上初の2大会連続ハットトリックを成し遂げる。
02年は「死のグループ」に組み込まれ、ナイジェリア戦でコーナーキックからヘッドでゴールを決めるもチームは
GL敗退となり、バティは代表を引退。W杯では通算10得点。代表通産78試合56得点であった。

現在はあくまでも趣味の一つとしてデザインブランド「GB」を立ち上げ、オーストラリアに移住し
AリーグのPerth Gloryにてアドバイザーをしているとのこと。

余談だが、バティは太りやすい体質であり、また甘いものが大好きであった。
そのためニューウェルズに所属時には節制をコーチから言われて実行し、成功した際には箱いっぱいの
チョコレート菓子をご褒美として貰ったという逸話がある。
バティに限らずアルゼンチン人は生活環境の悪さもあってか甘い物好きで若い選手は偏食傾向にいることが多い。また後期シーズン開幕に向けてのキャンプがクリスマス後のため、自己節制できていない選手が多いという。

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