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「競輪文化」という本が出版された。
著者は大阪大学などで講師をされている古川岳志氏。
副題に「働く者のスポーツ」の社会史とある。
著者は執筆にあたり本書の視点を以下のように述べられている。

「そもそも競輪は、どのようにして誕生して、社会のなかでどのようなものとしてみられてきたのだろう。競輪場は、どのような場所として存在してきたのだろう。西宮競輪場に初めて足を運んで以来、社会学の研究者の視点から、ときにはファンの立場から、競輪に関して抱いた疑問点について調べたり考えたりしてきた。」



本書の構成は以下のようになっている。

序章 
文化としての競輪

第1章
自転車競技が公営ギャンブルになるまで

第2章
競輪の高度成長期

第3章
都市空間の中の競輪場

第4章
競輪のスポーツ化

第5章
ギャンブルとスポーツの境界線上で

終章
競輪の「未来」

章立てをみても分かるように、単なる競輪ファンによる競輪賛歌ではない。
また競技史でもない。
競輪がたどってきた社会的な意味や意義を精査した労作である。
私自身も著者のインタビューを受け、第5章「ギャンブルとスポーツの境界線上で」において記述されている。
是非読んでいただきたい一書である。



私自身は競輪選手になったことはないが、競輪学校を受験し、合格発表前日に辞退している。
年齢制限のあった競輪学校とアマチュアに限定されていたオリンピックの二者択一の結論としてオリンピックを選んだのだ。
その決断はけっして容易なものではなかった。
以来、ギャンブルの対象としての競輪とスポーツの関係、あるいはオリンピックを含むスポーツの商品化ついて私は当事者として色々な視点から考えてきた。
それはややロマンチックな表現をすると、未完に終わった自身の自転車人生を心の中で紡ぎなおし一定の形を与えたいという思いからだ。





著者は競輪との出会いについて本書のなかで以下のように述べられている。長いが引用する。

「高校進学以来、通学に利用してきた阪急の駅で競輪開催のポスターや看板もよく目にしていたし、なんとなく気になっていたのだ。〜中略〜 ふと思い立って一人で出かけてみたのである。
観客は中高年の男性ばかりで若者や女性はほんの数えるほどしか見かけなかった。締め切り間際の車検売り場は殺気立った雰囲気で、初心者の私が買い方に戸惑ってもたもたしていると他の客ににらみつけられたりした。
レースが始まると今度は選手たちに容赦のないヤジが浴びせられた。感情をむき出しにする大人たちの姿がそこかしこにあった。 〜 中略〜
身近な場所に広がっていた異世界に、私はカルチャーショックを受けた。
同時に、他にはない独特の雰囲気に引き付けられて頻繁に足を運ぶようになった。最初は恐怖さえ感じた競輪ファンたちの飾らない姿にも次第に慣れていった。
競輪場の中から見ると、外の世界が公共空間のマナーにどれだけ縛られているかがよくわかった。私にとって競輪場は他にはない解放感を味わえる居心地がいい場所になっていった。」

次に今度は私長義和の競輪初体験。
初めて実際に競輪場に出かけ競輪競走をみたのは1974年、二度目のオリンピック出場を目指していたころ。
当時茨城県取手市郊外にアパートを借りて住んでいた。
日曜日の午後、練習後の空いた時間にふと気が向いて出かけてみた。
歩いて10分ほどのところに競輪場はあった。
印象は著者の古川岳志氏と半分は同じであと半分は正反対なものだった。
つまり、競輪場が鉄火場的な空気が充満している「場」という印象は同じであるが、そのような「場」をどのように受け止めるかという点では真逆だった。
私は競輪場や競輪を自分にはとうてい受け入れられないもの、あってはならないもの、拒絶すべきものと感じた。

私と著者の競輪との出会いや受け止めかたの違いを記したのは、ここに競輪を含むギャンブルの本質が垣間見えるからだ。




話はやや飛躍するようだが、お付き合いください。



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ヘルマン・ヘッセ(ドイツ生まれの詩人、作家 ノーベル文学賞受賞)の小説で
「デミアン」がある。
1919年の作だから、もう100年も前に書かれたものだ。
ヨーロッパのプロテスタントのよき家庭に育った少年デミアンの青年期にかけての内的葛藤を描いた作品だ。以下「デミアン」より引用。

「片方の世界は、ぼくの生まれた家だった。〜 この世界は、大部分、ぼくにとってはなじみのふかいものだった。その名を父母と言った。その名を愛情と厳格、模範と訓練と言った。この世界には、なごやかなかがやき、あきらかさ、そしてきよらかさが、所属していた。
ここには、おだやかな、やさしい言葉、洗いきよめた手、清潔な衣服、よき風習が、住みついていた。」

「ところが、もう一つの世界は、すでにぼくら自身の家のまんなかで、はじまっていた。 そしてまったく様子もちがえば、においもちがうし、ことばもちがうし、別のことを約束したり要求したりした。
そこには、途方もない、心をそそるような、おそろしい、なぞめいた事物の、雑然とした流れがあり、屠殺場だの、刑務所だの、よっぱらいだの、がなりたてる女だの、子を生みかけた牝牛だの、たおれた馬だのといったようなものがあり、強盗や殺人や自殺などの話があった。」

デミアンは二つの世界を生きる葛藤に苦しむ。
前者の世界は一般的に言って 「善」 の世界であり、後者は 「悪」の世界である。
そしてどちらが魅力的かと言うと 「悪」 の方だ。
「善」の世界は平和で安定しているが、どうかすると退屈で硬直的な世界だ。
「悪」の世界は危険に満ちているが謎めいた魅力と活力にあふれている。
デミアンはこの両立しがたい二つの世界を、いかにして一人の人間として統合していくかに苦闘する。

「善」と「悪」、二つの世界を扱った物語にはグリム童話や日本の昔話などにも散見される。
「実意ありフェレナンドと実意なしフェレナンド」。
”山と谷とは出あうきづかいないが、人間というものは、それも善玉と悪玉とはね、こいつ、とかくいっしょになるもんですよ。” という書き出しで始まる「旅あるきの二人の職人」、など。


大抵の子供は家庭や学校、地域社会のひとびとなどから正しく生きることを教えられ、そのように育っていく。
しかし、大人になるまでのある時期に、早ければ小学生で、遅くも十代の後半には、この世界が法律や正しさや倫理だけでできているわけではないことに気づく。
「嘘はいけない、泥棒は悪人のすること」、と教わり、それを信じてきたのに、
大人の世界は嘘やごまかし、犯罪や利己主義などであふれていることを知る。
そして悪は誘惑する。
なぜなら、悪は破壊的であり、それゆえ、創造的なエネルギーに満ちているからだ。


悪とは何か、それを定義することは難しい。
人間の心の最も深い部分に触れているからだ。
人間はまったく不思議な存在であり両義的な存在だ。そもそも人間は自然の一部であるのに、自らの母体である自然を破壊していこうとする反自然的存在であったりする。
悪は破壊的であるから否定されなければならないが、他方、創造するためには破壊しなければならない。
そこに悪の難しさがある。
破壊ための「悪」と創造する「悪」。
悪自身は両者を区別も判別もしない。
悪もまた両義的なのだ。

著者は競輪との出会いにおいてギャンブルのもつ「悪」の魅力にふれ、ひきこまれていき、私は「悪」の恐ろしさにたじろぎ嫌悪したのだ。
もちろん著者は強い自我によって悪に飲み込まれることはなかったのだが。
私はその自信がなかったから近づかないこととした。
それは理性ではなく、まったく直感的な判断だ。





誤解を恐れずに言えば、人間にとってギャンブルは「悪」を具現化したものだ。
しかし、だからと言ってこの世から追放し、なくさなければならないというものではない。
勿論、ギャンブルだけが悪なのではなく、世の中はありとあらゆる悪にみちているのだが。


先に記したように、「悪」は人間の生命にある種の生きるエネルギーを与え、生きていることそのものを実感させてくれるものだからだ。
悪を失った人間は、影を持たない人間のように薄っぺらい存在にさえなってしまうだろう。
あるいは悪の否定はより大きな根源的な悪をこの世に、または個人のなかにうみかねない。
それはギャンブル「必要悪」論などではなく、もっと人間存在の根源的なものの表象にかかわっているのだ。


だが、他方「悪」を手放しで肯定することもできない。
悪が支配する世界は破壊と無秩序が蔓延する世界だ。

大切なことは悪の存在を肯定しつつ善なるものがそれを統合していくことだ。

そうすると、ギャンブルは悪の一つの形態として存在するものだが、それに飲み込まれないよう、あるいは肥大化しないような、しっかりとした仕組みが絶対になくてはならない。
公営ギャンブルというのも一つの方法だろう。
方法ではあるが、公営は往々にして利権を生み、利権のために存在し続け、ともするとすり替えによって拡大しようとさえすることがある。



つまりは、民主主義がおおむね正しく機能している社会であれば、公営ギャンブルは豊かな社会を構成する一つの要素になりえるだろう。



      さて、私たちの暮らしている世界はどうだろうか。



















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古川です。丁寧に読んでいただきありがとうございます。お葉書もありがとうございました。自転車競技のトップで活躍された長さんに評価していただき、書いてよかったなと、しみじみ喜んでおります。自分が「悪」に鈍感でいられたのは、それまでいい加減に生きてきたからに過ぎないと思います。それに、あのギラギラしたまなざしが集まる金網の中で戦うのはどんな気分だろう、という想像はしなくても良かったからだと思います。

義幸さんにもよろしくお伝えください。たまたま見にいった自転車競技西日本大学対抗戦(2009年)で、OBとして来ていた義幸さんに会い、自転車競技を知りたいなら親父に話を聞きに行けば良いよ、と教えてくれたのがインタビューさせてもらおうと思ったきっかけでした。

あらためてインタビューを受けていただいてありがとうございました。

2018/2/24(土) 午前 8:12 [ ext**e111 ] 返信する

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> ext**e111さん
こんにちは。
当初は「こんな本が出ました・・・」ぐらいにしておこかと思いましたが、思い直しました。
先生の研究に対して敬意を表して意見を書いてみました。
研究者でありファンである。ファンであり研究者である。そのことが正確ではあっても、無味乾燥になりがちな研究に生身の人間の姿、思いをも織り込んだ豊かなものになっていると思いました。
形式論理学に、その内包とその外延とは反対の方向に増減する、という法則がありますが、先生の研究はそのような法則をこえていくことを期待させてくれます。
もっとも個性的な存在は、同時にもっとも普遍的な存在である、とも。
さらなる研究の進展を心より期待しています。

2018/2/24(土) 午後 5:05 [ 74daca ] 返信する

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