ここから本文です
一緒に勉強しましょう

親鸞 7


イメージ 1

このブログは、ここで閉めさせていただきます
以降は、フェイスブックに場所を移して、聖なる皆様と勉強を続けます。
 
 浄土和讃の巻頭の2首を記して、失礼します。
 

 弥陀の名号となえつつ
 信心まことにうるひとは
 憶念の心つねにして
 仏恩報ずるおもいあり

誓願不思議をうたがいて
 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳
  むなしくすぐとぞときたまう
 
 
 この和讃の心を繰り返し、学びたいと思います。
 
 生きとしいけるものが しあわせでありますように
 
 ありがとうございました
 


親鸞 6




 親鸞 6
 五木寛之の「親鸞」は一応終了させていただき、親鸞の和讃を勉強したいと思います。
 六角堂参籠以降の親鸞の生涯を紹介しておきます。
 聖人の弟子となられてからさらに聞法(もんぼう)と研学に励まれた親鸞聖人は、法然聖人の主著である『選択集(せんじゃくしゅう)』と真影(しんねい)を写すことを許され、綽空(しゃっくう)の名を善信(ぜんしん)と改められた。そのころ法然聖人の開かれた浄土教に対して、旧仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元(じょうげん)元年(1207)専修(せんじゅ)念仏が停止(ちょうじ)された。法然聖人や親鸞聖人などの師弟が罪科に処せられ、親鸞聖人は越後(えちご新潟県)に流罪。これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗(ひそうひぞく)の立場に立たれた。
 このころ三善為教(みよしためのり)の娘・恵信尼(えしんに)さまと結婚、男女6人の子女をもうけられ、在俗のままで念仏の生活を営まれた。建保(けんぽう)2年(1214)42歳の時、妻子とともに越後から関東に赴かれ、常陸(ひたち茨城県)の小島(おじま)や稲田(いなだ)の草庵を中心として、自ら信じる本願念仏の喜びを伝え、多くの念仏者を育てられた。元仁(げんにん)元年(1224)ごろ、浄土真宗の教えを体系的に述べられた畢生(ひっせい)の大著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著された。
 嘉禎(かてい)元年(1235)、親鸞聖人63歳のころ、関東20年の教化(きょうけ)を終えられて、妻子を伴って京都に帰られた。『教行信証』の完成のためともいわれ、主に五条西洞院(にしのとういん)に住まわれた。京都では晩年まで『教行信証』を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝えられたり、書簡で他力念仏の質問に答えられた。
 弘長(こうちょう)2年11月28日(新暦1263年1月16日)、親鸞聖人は三条富小路(とみのこうじ)にある弟尋有の善法坊(ぜんぽうぼう)で往生の素懐(そかい)を遂げられた。90歳であった。
 
 三帖和讃(さんじょうわさん)は、親鸞の著作である『浄土和讃』、『高僧和讃』、『正像末和讃』の総称である。南北朝時代には、この総称が用いられるようになる
 高田派では、『皇太子聖徳奉讃』75首を加えて「四帖和讃」と総称することも。三帖和讃は1953年昭和28年)11月14日、国宝に指定された。
 
本日は、浄土和讃より、巻頭の一首です。
  弥陀の名号となえつつ
 信心まことにうるひとは
 憶念の心つねにして
 仏恩報ずるおもいあり
 
  この一首だけで、念仏の意味を伝えている、深い和讃です。
 くわしくは、次回で;
 
 ありがとうございます


五木寛之 親鸞 5


イメージ 1



五木寛之  親鸞 5
 
 六角堂での夢告(むこく)
修業者だけでなく、誰でもが救われる道はないものかと苦しみ悩まれた「範宴(得度時の親鸞聖人の名)」さんは遂に比叡の山を下り、京都の六角堂に籠もられました。
六角堂は慈悲の象徴である観音さまをまつってあるお寺で、その化身である聖徳太子が建てたといわれています。ここで100日間、日夜命をかけて、ただひたすらに誰でもが救われる道を求め続けたのでした。ところが100日間の参籠(さんろう)の終わり頃の95日目に、疲れ果ててうとうとと意識のもうろうとしていたときに、枕元に不思議なことに観音さまが聖徳太子となって現れたのです。

聖徳太子は「あなたの悩むことはよくわかるぞ、その道を解決するには、ここから東の方、数里のところ、東山のふもとの吉水に『法然(ほうねん)』という人がいる。そこに赴いてその法を聞け」という夢のお告げがあり、さっと姿を消されたのでした。
「範宴」さんはその足でそのまま、五条の大橋を渡り吉水に馳せ参じられました。これで完全に比叡のお山と決別しました。それ以後はひたすらに「法然」さまの所に通い続けられたようです。
修業者だけでなく百姓も町人も武士も商人も含めて、あらゆる人のたすかる浄土の教えに、やっと会うことができたのでした。得度以来約20年間のご苦労もようやく実を結び、「法然」さまから「綽空(しゃっくう)」という名も頂き、更なる浄土の教えの研鑚に努められたのです。
 
人生は出遇いです。いつ、どこで、どんなことで、誰に出遇うか。そのことがお互いの生涯を決めていきます。
親鸞聖人は、20年という長い比叡山での修行に行き詰まって、その解決を聖徳太子のご示現に仰ごうと、京都にある太子建立の六角堂に百日の参籠をされたのでした。
そして、太子の夢告に導かれて、東山吉水の草庵に法然上人を訪ねられました。草庵には、上人の教えを聞こうと毎日庶民が群参していました。聖人もその一人となって百日間も聴聞され、ようやく自分の救われる教えを思い出されたのでした。
聖人は、この出遇いを『教行証文類(総序)』に

「遇い難くして、遇うことができました。聞き難くして、真宗の教えを聞くことができました」

と感佩されています。また『浄土高僧和讃(源空讃第4首)』には

「本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし」

もし法然(源空)上人との出遇いがなかったら、せっかくこの世に人間として生まれてきても、救われることなく無駄な人生で終わってしまうところでした。と述懐しておられます。
聖人をして、ここまで表現された師法然上人との出遇の意義を私たちは、どう理解したらよいのでしょうか。それは、我が国(片州濁世)に、阿弥陀如来の他力念仏の教え =真宗= がついに開顕したからなのです
お念仏はみほとけの呼び声
法然上人の教えは、誰にでもわかるお話でした。
ほとけになる道に二種あります。ひとつは、自分の努力でほとけになる道です。学問をして賢くなり、戒律を守って生活を正し、きびしい修行に耐えて精神統一をはかり、日夜に読経をして善根を積みます。このような精進によって、心を清らかにして、この世でほとけになっていく道です。これは、遠い道のりを徒歩で旅するようなものです。非凡な知識と十分な体力と苦難に耐えていく精神力が必要ですから、至難な道、「難行道」といっています。
もうひとつの道は、「南無阿弥陀仏と仏の御名を称える者は、必ず救います」という阿弥陀仏の誓いを心から信ずる道です。これは、老少善悪の人をえらばず、どんな愚かな者でもすくわれるから、行きやすい道、「易行道」といっています。
そして上人は話をつづけました。
お念仏は、私たちの願いをみ仏に届ける言葉ではなく、「わが名を呼ぶものは必ず救います」というみ仏からのよび声なのです。だから私たちは、このみ仏のよび声を素直に聞けるかどうか、ここが一番大事なところです。
この他力救済の核心を聞かれた親鸞聖人は、今までに経験したことのない大きなよろこびがわき出てきたのでありました。

「智慧光のちからより 本師源空あらわれて 浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたもう」 『浄土高僧和讃 (源空讃第2首)』

と、和讃にもあらわされています
 
本文からです;
 
一心に念じていた紫野が、突然、身をふるわせて床につっぷした。あえぐような声がもれている。
(救世観音ーー)
 まるで六角堂の本尊である救世観音が、その場に歩み寄られたかのごとき表情である。
 そのとき、範宴の耳に、懐かしい声がひびいた。 
 そして吉水での、法然との出逢い、法然との語り合いがあるのです。
 
  法然の法話の席でなも知らぬ女が法然に呼びかけます。
 法然上人は微笑してその頭巾すがたの女をながめた。

「ひとつおうかがいしとうございます。わたくしども女は、これまで障り多き身として往生できぬとされておりました。それを善悪男女の区別なくひとしく往生するとお説きになったのは、お上人さまがはじめてでございます。でも、その教えのもとになった阿弥陀仏の第三十五願には、念仏して浄土往生を願う女たちを、男に変えて往生させようとあるそうでございます。なぜ、女は女のままで往生できぬのでございましょうか」

 その女の声には、人の心をしめつけりような悲しみの感情がこもっていた。経典の内容を引いて、法然上人に論争をいどもうという気配はまったくない。





 法然はこの女性に直接答えずに、その場所に席を同じくした綽空(親鸞)に話を振ります。親鸞がこの問いの本質を把握したかどうかを試したのでしょう。

 それに対して親鸞は無難に「もし女人が浄土へ往生できないようなら、自分(御釈迦様本人)は仏にはならぬ、と、きっぱりいいきっておられます」と答えます

 しかし法然は許しません。無難に答えようとする親鸞を見る法然の苦笑が目に浮かぶようです。
「それはよい。問題はその先じゃ。もし女人がひとしく浄土に往生できたとしても、それは女としてではない、とありがたいお経には書いてあるそうな。いちど男に変身して、男となって往生する、という。厄介なことじゃ。で、綽空、どこにそう書いてあるのか、そなたなら知っておるであろう。わたしもすでに七十の坂をこえて、むずかしいことは忘れてしもうた。ちょっと言うてみてくれぬか」


 親鸞は変性男子説というこの大問題を整理して言葉にします。

 変性男子説とはこんな説です。
女人成仏  にょにんじょうぶつ

 女性も男性と同じように仏に成ることができるということ。釈尊は男女の地位が平等であり、ともに涅槃に至ることができると説いているが、女性蔑視を思わせる所説もある。
 これを解決するために、女性は男性に転じて(転女成男、変成男子)成仏するという思想が現われた。
 その代表が『法華経』提婆達多品の竜女成仏説である。この考え方は『阿闍世王女阿術達菩薩経』『離垢施女経』『須摩提菩薩経』『海龍王経』三、『菩薩処胎経』七などにも見られる。『大阿弥陀経』上の第二願には「わが国中をして、婦人有ることなからしめん。女人わが国中に来生せんと欲する者は、即ち男子と作らん」と転女成男が説かれている。


 親鸞は法然にその内容を簡潔に答えます。

 法然は当然のように聞き返します。

「では、そのありがたいお経のなかの言葉を、綽空、そなたはどう思う?」
「わたくしはそれはちがうと思います。男は男のまま、女は女のままにて往生し、そして仏となる。仏の前にはすべて平等である、と上人さまは日ごろ教えておられます。尊い経典をかろんずるわけではございませんが、わたくしは変成男子という説にはこだわっておりません」

 ざわめきがおこった。法然上人の左右につきしたがう高弟のなかには、呆れたような顔をするものや、嘲りの表情をうかべる者もいた。

「さきほど問われた女性に聞いていただきたいことがある。わたしは西国の美作国の田舎の生まれじゃ。父は幼くして争いの中で死に、わたしは母の手ひとつで育てられた。ゆえに母はただ一人の肉親じゃ。

 やがて縁あって比叡山にのぼり、母と別れた。それが十三歳のときのこと。その数年後に、その母も世を去られた。わたしを手放したあとの独り暮らしは、どんなにさびしかったことであろうのう。わたしは、母を置き去りにして比叡山で学問したのじゃ。

 だが、母を思わぬ日は、一日もなかった。いまもそうじゃ。そして、あの母上は、かならず浄土に往生されたと思うておる。たしかに仏になられたと。しかし、よいか。

 わたしは浄土で男に変わった母になど、会いとうもない」




 これはある意味、親鸞の仏典批判よりさらに過激です。親鸞の場合、仏の前では男女平等であるという理念から理論的に仏説の矛盾をつき、これを否定しているわけですが、法然の場合、たとえ仏典の言うことが正しく、母をが男子に変成して成仏したとしても仏教の教理で捻じ曲げられた母親なぞには会いたくない、すなわち、そんな往生は息子のこの俺は認めないと自分の存在をかけて仏説に対峙しているのです。


 彼岸にある仏の永遠が、此岸である母の思い出と地続きに直結していなくば、そんな来世に何の意味もない。自分はそんな世界には興味はないというこの否は、仏教教理の否定ではなくて、ことと次第によっては仏教そのものをまるごと認めないぞ、と宣言しているといえないでしょうか。



 それに対して法然のこの思想は、まず永遠の存在である母が現前し、そしてその母が何者にも変わることなく、来世に成仏する。


 
「悪人正機」とは、悪人が悔い改めて善人になって往生するのではなく、現世の宿命でそうであらねばならなかった悪人が、そのまま「よし、もう一度」と自分の人生を肯定して輪廻を選び直すことだというのです。
このこと、大きな希望と勇気をくれますね。

五木寛之 親鸞 4


イメージ 1





五木寛之 親鸞 4
 
誘う傀儡女
 
  傀儡子(くぐつし、くぐつ、かいらいし)とは、木偶(木の人形)またはそれを操る部族のことで、当初は流浪の民や旅芸人のうち狩猟と傀儡(人形)を使った芸能を生業とした集団、後代になると旅回りの芸人の一座を指した語。傀儡師とも書く。また女性の場合は傀儡女(くぐつ め)ともいう。
 
  都の人々を熱狂させた暁闇法会(ぎょうおんほうえ)のあと、範宴は比叡山にもどらなかった。慈円阿闍梨の指示にしたgって、当分の間白河坊に身をおくことになったのだ。
「いずれ遠からず私は天台座主となって比叡山に入山する。そのときまで例の法然房の教説をじっくり聴聞するがよい。法然房にもとにむらがる人々の心の内を見抜くのじゃ。世間が今、何を求め、法然房がそれにどうこたえているのか。彼はなぜお山を去って町に入り、なぜそのように人気をえているのか。わしが知りたいのはそこじゃ。古い南都北嶺の仏教界が失ったものは何か。世間がいま望んでいるのはなにか。学べるものからは、いかに卑俗な教えであろうと学ばねばならぬ。よいか範宴坊。
心してはげめよ。木になる事があれば、都を離れて自由にどこへでも行くが良い。一切制限はつけぬ。これが得がたい修行じゃからのう」
 
(南都北嶺  南都は奈良,北嶺は比叡山延暦寺)
 
 慈円は単に密偵の役目を自分におわせたわけではあるまい、と範宴は思う。
 伝教大師・最澄がつつましい草庵を叡山の山中にむすんだときの、あのみずみずしい初心を、慈円はみずからの手で再建しようと志しているのではあるまいか。
 王朝の名家や権門に密着し、高い位階をえ、名利を追い求めるのが天台の本義ではない。多くの堂衆たちが武装し、僧兵となって強訴、紛争をこととするのも仏道とは違う。荘園、領地からの収入や貴族達からの多大の寄進を、町の商人に貸すことも当たり前になっている。職人や商人から仕事の権利と引き換えに上納金をおさめさせることもお山の財政をささえている。
 
 そして、白河房で法螺房弁才に再会する。
 
 法螺房は言う
「浄土をひたすら恋う気持ちがわからなければ、念仏はわからない。頭で浄土を思い描いているかぎり、法然房のもとに集う人々の心は理解できないだろう。そのこころは心ではなく、情なのだ。浄土は情土なのだ」
 
 そして、範宴はかねてより、訪れてみたいと思っていた、叡福寺へ向かう。そして歩みをさらに進め、山の中の山中の小屋に立ち寄る。
(今夜はここに泊まろう)
「だれだい」
 暗い部屋の隅から女の声がした。
「なんだ坊さんかい」
「わるいけど、あたしが先客だ。外で寝ておくれ」
 一枚の筵を女は投げてよこした。
 
「寝たのかい」
「こっちに来て、話し相手になっておくれ」
 もしかして、狐狸妖怪のたぐいだろうか。
 「そうだ、念仏をやっとくれよ」
 急に女の息がちかくなった。やわらかな手が範宴の太腿に触れた。範宴は思わず体をかたくした。これまでに体験したことのない感覚が爪先から頭のてっぺんにまではしる。
 
 「あたしは傀儡の女、仲間といっしょに人形を使って人を集め、ときには体を売るのさ。今日も客と遊んで仲間におくれちまった。そんなあたしに、念仏なんて用はないと思ってたんだけど、今夜は妙に身にしみてさ。つい、泣いちゃったよ。お布施がわりに、あたしの体を、さあ、好きなようにしな、ほら」
 
 「もしかまわなければ、こうしていっしょに眠ろう」
「それも悪くないね。今日は疲れたーー」
 そして、すぐに寝息をたて始めた。
 
 
 
 
 
六角堂への道
 
 いちど天台座主の地位を退いた慈円は、いま再び比叡山に戻って、座主となっている。
 範宴は29歳の今日まで、さまざまなことを経験してきた。回峰行や、常行三昧の行もおこなった。そして、比叡山の実力派である堂衆たちとの対立から離れた場所で彼は自分の道を求めていたのだ。
 
 あたりは暗い。
 六角堂への道を範宴はとぶように歩いていた。
 六角堂への百日参篭。
 数日前の夜明けに見た不思議な夢。その夢にあらわれたのは、十年も前に磯長の聖徳太子の廟所で、一瞬、幻のように訪れてきたときと同じ人物のうしろ姿だった。
 夢の中でその人の声が聞こえた。
「今、まさに汝の人生は終わった。新しい命を求めるならば、私のところへくるがよいーー」
 
 私のところーーとは、どこだろう。
 「六角堂だ」と範宴は思った。
 
 音覚法印がいう
「そなたの顔を見ていると、若いころの自分を思わずにおれぬ。わしも同じ悩みで狂う寸前までいったことがある。六角堂への道は遠いぞ。倒れてはんあいもできぬ。自分をいつて歩め。よいな」
 
 六角堂は庶民が集う寺。
 そこで再会したのは、法螺房。施療所を開いている。
 

   この六角堂で範宴は百日の参籠を行ずる。
 そして、聖徳太子の声を聞くことになります。

  人間についてまわる、「肉欲」
  このエネルギーは抗しがたき大きさを持つ。
  その大きな力を、描写させると、五木寛之さんの作品は、すべて卓越している。
 「青春の門」という初期の小説のテーマはこのどうしようもない、生命のエネルギーである。この一見人生を邪魔すると見える肉欲のエネルギーは実は、本当の人間になるが為の過程で極めて重要なるものだと思う。これは五木氏も伝えたいところであろうと思う。
  範宴と傀儡女の出逢いの話は、この「肉欲」の問題の提起である。


 
 

五木寛之 親鸞  3


イメージ 1



五木寛之 親鸞  3
 
  闇に生きる人びと
 
 ある夜、庭で外から聞こえる今様を聴く。
 
 みだのちかいぞたのもしき
 じゅうあくごぎゃくのひとなれど
 ひとたびみなをとなうれば
 らいごういんじょううたがわず
 
 忠範は六波羅童(わっぱ)が嫌いである。同じ童の格好をしていても、牛飼童は大人の男たちだ。暴れ牛をあつかう無頼の徒とされてはいるが、一方ではその男らしさが憧れの目で見られてもいた。だから童形でも、人々は彼らを決してワッパと軽々しくはよばない。牛飼ワラワという。それにくらべて、六波羅ワッパという語調には、軽蔑と憎しみの気配がある。
 
 六波羅という土地は平家一門の集い住むところであり、清盛公の邸を中心にできあがった軍事と政治の本当の舞台であるという。
 その清盛公が、みずから京の町に放った手の者たちが、六波羅童である。
 
 そして、犬丸の女房サヨが意外なことを明かす。
「犬めは今頃、牛飼童や、神人(じにん)、悪僧、盗人、方面、雑色、船頭、車借(しゃしゃく)、狩人など不善の輩を集めて、双六博打を開帳しているはず。その銭で、この家の台所を賄っているのです」
 
六波羅王子(ろっぱらおうじ)の館
 
 平四郎とは、六波羅王子のことである
 
 忠範が浄寛のところへは走ってくる
 
 犬丸がこともあろうに六波羅王子に捕まったというのである。
 ここからは大活劇となる。
 
十悪五逆の魂
 
 
燭台の灯が、呼吸するようにゆらりとまたたいた。伏見平四郎は、錫をはった金属の鏡を前にじっと座っている。土蔵の中の空気は生温かく、かすかな血の匂いがする。それは平四郎がなにより好む匂いだ。
 
 「おれがこの館の王だ」
彼は鏡に映る自分の顔をみつめた。われながらなんと美しい相貌だろうと、うぬぼれでなくそう思う。
 
 「水もしたたるいい男でござる」
と、だれかが噂話でいったとき、それを耳にした後白河法皇が、
「生き血もしたたるーーのまちがいではないか」
と、皮肉をいったという。
 それを聞いて、あおの男だけは絶対に許すまい、と心に誓ったものだった。
 
 土蔵の土間に「針木馬」が置かれている。馬の鞍の形をした木製の器具だ。その上に男が一人のせられて、ぼろ布のようにつっぷしていた。おびただしい鮮血がしたたりおちて、赤黒い血だまりをつくっていた。
「犬丸とやら」
「この針木馬は、拷問の名器だ。これまでこの上にのせられて耐えたものは、ただに一人もおらぬ。ほれ、このように取り手をゆするとーー」
 平四郎が木の取り手を前後にゆすった。それまで死んだようにうっつぶしていた男が、突然、全身を痙攣させて叫び声をあげた。
「見よ 犬丸。この鞍の下には、百本の針が埋め込まれているのだ。その上にまたがると、針は肉を突き刺し、尻の穴からふぐりまでをつらぬく。」
「この叫び声をきくと、おれはぞくぞくするのだ」
 
 
  平四郎は船の上で生まれた。水上ではるをひさぐ津の家船遊女の子として育った。
客が来ると隠れる。コモをかぶって、母親の仕事の終わるのを待つ。
十歳の夏の夜、平四郎は母親を殺して陸にあがった。
平四郎は母親を殺したことで、覚悟が定まった。あとはだれを殺しても同じことだ。彼は、死とか、人の苦痛とかをまったく気にしない少年になった。平四郎はその強い才能によって、京童(きょうわらべ)のかしらとなり、やがては、六波羅童三百余人をひきいることとなったのである。
 
 
小説では、浄寛が大暴れをして、犬丸は助けられる。

忠範すなわち親鸞が見てしまった修羅場である。
このことがきっかけとなって、忠範は法螺坊に連れられて比叡山に入ることになる。
 
 平四郎 すなわち 六波羅王子は、以降 親鸞の命をつけねらうことになる。


幼年期との別れ
 
法螺坊が語る。
 
「世態人情、男女の妖しき思いをうたうのが今様の本領じゃ。しかし、なかにはみ仏の深い心を讃嘆する歌もある。十悪五逆の悪人さえも、ひとたび弥陀の名を呼べば、必ず救われるというのは驚くべき外道の説のようじゃが、けして不思議ではない。そもそも無量寿経の四十八願中の第十八の願は、我が名を呼ぶ衆生すべてを済度せんという、至心信楽(ししんしんぎょう)の王本願。最近はそれを説く者も出てきたらしい」
 
親鸞と、「本願」との出逢いが近づくのです。
 
 
「十悪・五逆の罪」とは
           (東本願寺HPより)
 
 十悪は殺生・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(以上は身業(しんごう)の悪)・妄語・綺語(きご)・悪口(あっく)・両舌(りょうぜつ)(以上は口業(くごう)の悪)・貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(以上は意業(いごう)の悪)という身口意(しんくい)の三業に渡る行為であり、五逆は母を殺す・父を殺す・阿羅漢(聖者)を殺す・僧伽(教団)の和合を破壊する・仏の身体を傷つけ血を流すことの五つの行為です。これらの行為は最も仏に背く行為であって、このような行為をしたものはとうてい救われないと教えられてきました。
 しかし、大乗仏教ではこれらの罪を犯した者でも救われる道を明らかにしてきました。特に親鸞聖人の教えは、十悪・五逆が我が身の根本的なあり方であったと深く自覚せしめられ、そこにこそ『ただ念仏せよ』との法然上人の教えの意味をうなずき、十悪・五逆の愚人が念仏ひとつに定まった生き方が与えられることを顕されたのであります。
 それは十悪・五逆の我が身を肯定していくのではなく、人間であること自体が仏の教えに背いているのではないかということが問われ、その仏に背く人間の本性とは何かということを明らかにしていくことが真宗の教えの要点であります。その仏の教えに背く人間のあり方を「罪」と押さえるのでしょう。
 だいたい、十悪とか五逆という行為は、人間の無明性に基づいて起こってくることを明かすのが仏教です。その無明とは、十悪の最後にある「愚痴」のことで、その愚痴とは「我執(我れがあると思い、その我れへの勝手な深い執着)」に因って起こってくるもので、無明とは我執が因であります。十悪とか五逆の行為がなぜ起こるのかということ、人間が我執を本性として生きているからであります。
「父・母を殺す」逆悪にしても、自分はそんな罪は犯さない、そんな罪を犯すものは大罪人だと、他人を裁いていくのが世間一般の見方ですが、はたして他人ごとにそう言えるのでしょうか。
 ひとたび阿弥陀仏の本願に触れるなら、十悪・五逆は自分自身の事実であって、常に親に背き、縁あれば実際に親を殺しかねない要因を本性として生きている自分自身が、照らし出されてくるのではないでしょうか。親鸞聖人は「親をそしるものをば、五逆のものともうすなりと」言い切って、人間の本性としての「罪」を見つめておられるのであります。
 

 六波羅王子は、いわば、十悪五逆の典型。
 こういう人間にも、摂取不捨の誓願不思議の働きがあるのですね。
 
 
 
 

[ すべて表示 ]

ブッダガヤ
ブッダガヤ
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(4)
  • はやぶさ けいじろう
  • 本多裕樹
  • 蜂蜜の風
  • ひつじ
友だち一覧

最新の画像つき記事一覧

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事