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【九品寺の飯盛女の墓】
所在地: 高崎市倉賀野町1693
九品寺は、延徳3年(1491)、倉賀野城主・倉賀野五郎行信が開基となり、玄誉上人を開山として創建された。
境内には倉賀野家縁と見られる墓碑があることから、倉賀野氏に庇護されたと思われ、江戸時代には徳川家から朱印地15石を賜っていたとされる。
(「倉賀野宿・飯盛女の墓」)
天保13年(1842)、『旅籠屋渡世書上帳』によれば、「飯売旅籠屋三十二軒」とあり、飯盛女は一軒に付き二人と定められていたので、64人の飯盛女が倉賀野宿にはいたことになります。
しかし、実際には定めを越えて飯盛女を置いていた旅籠は多く、享和3年(1803)、22軒の旅籠が過料銭と手鎖を申し付けられ、定めを越えた飯盛女は53人もいたと記録に残されています。
49人が宿役人に預けられた後に、倉賀野宿内や高崎城下の周辺の村々で結婚し、2人は国元へ、剃髪し仏門に入ったものもいたと記録には残されます。
基本的情報ですが…飯盛女は有名なお江戸・吉原遊郭の花魁同様の身分でした。そのあたり、詳細に書くことは憚られますので、各々でお調べ下さい
『飯売下女年季奉公人請状之事』という証文(越後小嶋谷村喜左衛門が倉賀野宿旅籠屋善兵衛に出した古文書)によれば、「越後国三嶋郡小島谷村喜左衛門の娘ちい16歳で、よんどころない金子入用のため、親類一同相談の上、倉賀野へ連れて来て、旅籠屋善兵衛方へ旅籠屋飯売下女として、年季奉公に出す。文政七年(1824)八月から天保二年(1831)まで、六年六ヶ月、給金は拾八両と極め、給金残らず慥に受け取りました。そうしたからには、諸親類や外の者より異議申立をする者は一人もありません。もし、何か申す者が出たならば、我等何方までも出掛け、貴殿には御苦労をお掛け致しません。万一、取り逃げ、欠落など致しましたら、早速尋ね出し、お渡し致します。もし行方知れずの場合には、代わりの人なりとも、給金でも、思召次第に致します。年季中勝手なお暇など決して取らせません。ことに、ご家内の風にあいませんときは、お知らせ次第出掛けて来て、他の宿に渡しても良いし、我等遠方のために貴殿の手筋で、他の旅籠屋へ住替えさせ、お金を御取りください。後日に加印請状を改めます。もし、年季中に妻に欲しいとの人がありましたら本人得心の上、先様を見届けの上、貴殿の娘として、縁付かせてください」と記されている。
また、「万一このもの頓死・病死・けが・あやまちにて、不慮の死の場合には、お知らせ次第お伺いして、立合い致すつもりですが、遠方のためできかねますから倉賀野宿の請け人立合の上で、貴殿旦那寺に御取置、後日に法名をおつけください」とも記されています。
以上のように、飯盛女は遠国より借金のかたに身請けされ、そちらで煮て食おうが焼いて食おうがどうぞ的な扱いだったことが読み取れるかと思います。とはいえ、娘を出した家は止むにやまれぬ状況であったことは明らかであり、生活の困窮ぶりからこのような証文を書かざるをえなかったことは言うまでもありませんね。
飯盛女たちの大半は墓など建てられずにその生涯を終えたことでしょう。倉賀野宿内で確認された飯盛女の墓は僅か28基です。
九品寺に残る墓碑では、
越後國三島郡石地宿 田澤屋栄之助娘はま 行歳廿才
越後國蒲原郡柴田領沼垂内山木戸村 角蔵娘よしきく 行年廿四才
北越後長岡 瀧 行年二十
越後新潟 平次娘きく
越後三條裏館村 こよ
越後大宮嶌村 へて
越後三條 久兵衛女里よ
越後国長岡中源町 権介娘やの
の名が見られます。
指定史跡ではないことから、庫裡にてお話を伺い訪れて見ました。こうした史跡も地域の貴重な歴史を伝えるものですね。
(参考資料)
新編高崎市史 資料編
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倉賀野宿は 日光例幣使街道の宿場町でもありましたね、
私の地元の木崎宿も例幣使街道の宿場のひとつで
越後からの多くの飯盛り女がいたようです、
八木節の元と云われる木崎音頭にも唄われています。
トラバさせて下さい。
2018/5/8(火) 午後 7:49
yossyさん、飯盛女は各宿場に居ましたから当然日光例幣使街道の宿場である木崎にも居たのは明らかですね。
トラバありがとうございます。
2018/5/8(火) 午後 8:18 [ 日本史跡研究会 ]