日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

山梨県の城館跡

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  【妾婦屋敷跡】       評価  

   別   名:       ―――
   所 在 地:  大月市駒橋1−5−1
   築城年代:  天文16年(1547)?
   築 城 者:   小山田出羽守信有
   区   分:        屋 敷
   現   状:    大月市立図書館


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 桂川の右岸、岩殿城を対岸に見る駒橋の地に妾妻屋敷伝承地はあります。

 『甲斐国志』古蹟部の「小山田出羽守妾婦宅蹟」に、「両駒橋ノ間駅路ノ南ニ山足ニ在 今皆畠トナレバ広狭詳ニシ難シ 其内ニ大石ヲ畳ミ古木立茂レル所アト仮山ノ跡ナルベシ 其岸ハ泉水ヲメクラセシ地ト見ユ 土人伝言 古ヘサリヌベキ女房 此地ニ住テ朝夕甚物ガナシク涙ガチニ暮シケルトゾ何人タルコト知ザリキ 今此地ヲ御所ト称ス…。」とある。

 『高白斉記』によれば、天文16年(1547)、武田晴信は佐久に出兵し、7月24日、志賀城の攻城を始め、十数日をかけて、援軍の上野軍ともども破っている。

 『勝山記』によれば、その戦後処理として、「シカ殿ノオカミヲハ小山田羽州給テ 駒橋ヘ御同心申候…去程ニ男女ヲイケトリニ被成候テ 悉甲州ヘ引越申候 去程ニ二貫三貫五貫十貫ニテモ親類アル人ハ承ケ申候」とあり、志賀城主・笠原清繁の奥方は小山田出羽守信有に与えられ、その他生け捕られた人々は2貫から10貫で親類のあるものは引き取られるか、あるいは召人として売買されたとされる。


 『甲斐国志』、『勝山記』は江戸時代後期に記されたものであることから、この地に伝わる伝承をまとめたものとして史料批判しなければならないので、事の真偽は何とも言えない。

 しかしながら、『高白斉記』にも詳細に記されていることから考えれば、笠原清繁の奥方が甲州へ連行され、小山田信有に与えられたことはほぼ間違いなく、妾婦屋敷は戦利品として与えられた笠原清繁の奥方が小山田信有の妾として過ごした屋敷と考えられる。


 なお、小山田出羽守信有はNHK大河ドラマ『風林火山』で、笠原清繁婦人の手にかかったと描かれていたが、亡くなった理由はよくわかっておらず、諸説ある。
 合戦での傷がもとで亡くなったとも、合戦で討死したともされるが、その中に婦人の手にかかったとの説もある。34歳という若さであることから、様々な死因が論じられるのだろう。信有の死の原因が明らかになる日も来るかもしれないが…妾の手にかかったという不名誉なことはいくら何でも古文書等には残らないのでは?とも感じる。


 (参考資料)
  甲斐の山城と館 下 東部・南部編      宮坂武男 著      戎光祥出版


   【躑躅ヶ崎館跡】         評価  

   別   名:    古城・御屋形
   所 在 地:  甲府市古府中町
   築城年代:  永正16年(1519)
   築 城 者:    武田信虎
   区   分:     平 城
   現   状:    武田神社


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 『玉代記』永正16年(1519)条に、「六月二日甲府初立」と記され、『妙法寺記』には、「甲州府中ニ一国大人様ヲ集り居給候。上様(信虎)モ極月ニ移リ御座シテ御台様モ極月御移」とある。

 『高白斎記』永正16年8月条には、「十五日新府中御鍬立初ム。同十六日信虎公御見分。同十二月廿日庚辰信虎公府中江御屋移」と記されている。

 永正17年(1520)3月条には、「十八日三沢ノ宗香於甲府万部ノ経始ル」とも記されています。


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 躑躅ヶ崎館は武田氏のそれまでの本拠である川田館を廃し、新たに取り立てられた館である。

        川田館跡 はこちら  https://blogs.yahoo.co.jp/tsjqu183/13356722.html

 信虎・晴信(信玄)・勝頼の武田三代を通じて、領国経営の中核として機能した。

 しかし、当初は『妙法寺記』に、「永正十七年五月当国栗原殿大将トシテ皆々屋形ヲサミシ奉テ、一家国人引退玉フ」とあるように、有力国人の栗原・大井・今井氏等が反抗し、その鎮圧に苦慮している。

 天文年間(1532〜1555)頃、武田氏はようやく甲斐の統一(小山田氏や穴山氏らとは対等の軍事連合政権ではあるが…)を果たし、守護大名から戦国大名として発展している。


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 晴信(信玄)治世下では、躑躅ヶ崎館は他国に侵攻されることもなく、安定した治世であった。

 しかし、勝頼の代になると、次第に家運は(と、決して勝頼が愚将であったからではないですよむしろ優秀な大将であったことは間違いないです)

 天正9年(1581)12月24日、武田勝頼は新府城に移ると、廃城となった。


 だがその後、織田・豊臣、さらには徳川家康家臣・平岩親吉らに利用され、梅翁曲輪の増設等改修が加えられている。

 文禄年間(1592〜1596)、浅野長政によって甲府城が築かれると、甲斐国領国支配の中心は甲府城へと移り、慶長5年(1600)、正式に廃絶されている。


 山梨の城館跡巡りというと、真っ先に訪れるであろう場所は甲斐武田氏の聖地である躑躅ヶ崎館跡の武田神社でしょうね。

 曲輪・土塁・水堀・石垣という旧態がよく残されていることから、訪れる価値がある城館跡ですね


 (参考資料)
  甲斐の山城と館 上 北部・中部編         宮坂武男          戎光祥出版
  現地案内板


  【長禅寺前陣屋跡】           評価  

   別   名:      甲府陣屋
   所 在 地:  甲府市中央3−3−1
   築城年代:   享保10年(1725)
   築 城 者:     江戸幕府
   区   分:      陣 屋
   現   状:    富士川悠遊館


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 江戸時代初期、この地は甲府城下町の武家屋敷地の一つであった。

 享保9年(1724)、柳沢吉里は大和郡山に転封され、甲斐一国は甲府勤番支配(甲府城番)と代官支配による幕府領となった。上飯田・石和陣屋とともに甲府陣屋が構えられ、奥野忠兵衛が代官として着任した。
 この時の甲府陣屋は、東光寺町の帰命院を仮陣屋としている。

 翌享保10年(1725)、現在地の長禅寺前に移り、明治元年(1868)、赤松孫太郎が代官であった明治維新まで存続しています。


 文化年間(1804〜1818)の陣屋支配地は164ヶ村で84,829石余。さらに陣屋預り64ヶ村、32、096石余であり、10万石以上を支配していた。
 にもかかわらず、人員は代官はじめ甲府詰13人、江戸詰12人の計25人前後と少数であり、甲府陣屋の強大な権力がうかがえる。

 
 現在は旧富士川小学校跡地のコミュニティー施設である富士川悠遊館となり、明確な遺構は見られない。


 (参考資料)
  甲斐の山城と館 上 北部・中部編         宮坂武男        戎光祥出版


  【甘利備前守虎泰屋敷跡】            評価  

   別   名:     ―――
   所 在 地:  甲府市岩窪町608
   築城年代:     戦国時代
   築 城 者:   甘利備前守虎泰
   区   分:      屋 敷
   現   状:    護国神社


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 甲斐国府中である甲府市には武田二十四将らの屋敷跡を示す案内板が街の至る所に設置されている。

 これは、大正7年(1918)に発刊された『甲府略志』に描かれた「古府之図」に基づいたものである。「古府之図」には、戦国時代の躑躅ヶ崎館を中心に形成された町割りと、江戸時代の甲府城を中心に形成された町割りが描かれています。


 甘利備前守虎泰屋敷は、現在の護国神社付近に戦国時代に構えられた。甘利氏は甲斐源氏の支流(一条忠頼の子である行義の子孫)にあたり、甘利荘(現在の韮崎市)に所領をもっていました。

 虎泰は武田信虎・晴信二代に仕えた武田家宿老であり、板垣駿河守信方とともに両識に就任していた(その存在は論証されておらず、あくまでも奉行職という意味合いが強いと思われる)という重臣であった。信虎・晴信に従い、主要な合戦には百騎の士卒を率いて戦っている。

 天文15年(1546)8月、武田晴信が信濃・志賀城において笠原清繁を攻めた際には、上州・平井城の関東管領・上杉憲政の援軍を板垣信方とともに小田井原の戦いで撃破している。

 天文17年(1548)2月、晴信は信濃守護代・村上義清と上田ヶ原で戦うが、この戦いで甘利備前守虎泰・板垣駿河守信方両宿老を失うほどの敗戦を喫するのであった。


 虎泰の名跡は直ちに甘利左衛門尉昌忠が継ぐこととなるが、甘利家の家運は虎泰の頃からは下回ることとなった。そうは言っても御譜代家老衆の一人ではありますが…。


 城館跡とするにはどうかな?とも思いますが、やはり武田二十四将という知名度は惹かれるものがありますですから、屋敷跡も城館跡にしちゃいます
 遺構は何も残らないですが、甲府市では二十四将の屋敷跡巡りは欠かせないですね。案内板あるだけでテンションはです。


 (参考資料)
   甲斐武田一族               柴辻俊六             新人物往来社     
   武田二十四将略志                               武田神社  
   現地案内板


   【強瀬の御所跡】            評価  

    別   名:       ―――
    所 在 地:  大月市賑岡町強瀬
    築城年代:   
    築 城 者:
    区   分:        屋 敷
    現   状:     工場用地・宅地


イメージ 1


 築城年代、築城者など『甲斐国志』にも記載はなく詳細は不明である。

 明治4年(1871)、『都留郡強瀬村上組下組屋敷取調麁絵図』には、「元御所跡 中村与右衛門尉信実公」と記載されている。

 また、『岩殿城の研究』では、中村家は代々上組の庄屋を務めた家柄で、延宝期(1673〜1681)に庄屋与右衛門、寛文期(1661〜1673)に同左近があり、武田家浪人であるとしている。

 元亀2年辛未(1571)、中村与右衛門尉に武田氏の朱印状が出されている。


 戦国期、岩殿城番の居館であったと推測される「強瀬の御所」であるが、中村与右衛門尉信実が城番であったという確証はなく、中村氏は「与右衛門尉義興於テ字西山今之丸山ニ住為奉公致居ル」とあり、近世にこの地に居住したようでもあることからも疑問が残る。

 しかしながら、岩殿城が郡内小山田氏の支配下にはなく、武田氏直轄の城館であったということを示すことから郡内の歴史を考察する上では非常に重要な城館跡であるということは間違いない。


 遺構は残らないものの、殿畠・馬場といった字名が城館跡であることを偲ばせる。


 (参考資料)
  甲斐の山城と館 下 東部・南部編      宮坂武男        戎光祥出版

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