日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

京都府の史跡

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全1ページ

[1]


  【坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋址)】

   所在地:  京都市中京区河原町通蛸薬師下ル塩屋町330


イメージ 1


 幕末の志士・坂本龍馬はそれまで伏見の寺田屋を定宿としていたが、慶応2年(1866)、伏見奉行所による襲撃(俗にいう寺田屋事件)を受けた後は、三条河原町近くの材木商・酢屋を京都での拠点としていた。

 近江屋へ移ったのは慶応3年(1867)10月頃とされている。近江屋は土佐藩御用を務めており、程近くには土佐藩邸もあり、土佐藩志士とは繋がりがあったためという。


 この時期、坂本龍馬暗殺の風聞は世間に流布しており、新選組から離脱した御陵衛士の伊東甲子太郎・藤堂平助が近江屋を訪れた際、「新選組と見廻組が狙っている」と龍馬に忠告したとされる。

 薩摩藩士・吉井幸輔も薩摩藩邸に移るように勧めたが、龍馬はこれを固辞し近江屋に留まった。従僕の山田藤吉を雇ったのは用心のためであったという。


 さて、その結果が慶応3年(1867)11月15日の近江屋事件ということとなる。

 坂本龍馬・中岡慎太郎・山田藤吉が何者かによって襲撃・殺害された事件である。


 凶行時、近江屋主人・井口新助は妻子とともに一階の奥の間におり、土佐藩邸に急を告げた。土佐藩士・嶋田庄作、次いで曽和慎八郎、海援隊士・谷干城らが駆け付けるも、龍馬はすでに事切れていた。

 中岡は息があり、襲撃の状況を伝えたことから、近江屋事件の詳細が今に伝わったのである。

 中岡もその後、食事が摂れるほどの回復を見せるのだが、事切れる。


 さて、近江屋を襲撃したのは一体誰であったのか?これには諸説ある。

  ① 見廻組襲撃説    佐々木只三郎、今井信郎らによる襲撃。函館戦争の後に今井が自白していること
                  から有力視されているが、今井は後に特赦によって釈放されていることから黒幕の
                  存在も考えられている

  ② 新選組襲撃説    現場に残された刀の鞘、先斗町・瓢亭の下駄の印、伊予なまりの人物から新選組・                
                  原田左之助との説があるが、近藤勇ら新選組関係者は全員否定している。

  ③ 紀州藩襲撃説    いろは丸事件の恨みから襲撃したとする説

  ④ 薩摩藩陰謀説   


 いずれの説も絶対的な証拠はなく、真相は未だ闇の中である。


 (参考資料)
   新選組と幕末の京都                        ユニプラン
   坂本龍馬 いろは丸事件の謎を解く     森本繁      新人物往来社
   現地案内板 
                 

  【高山彦九郎像】

   所在地:  京都市東山区大橋町


イメージ 1


 高山彦九郎(1747〜1793)。この人物を知っている方はいらっしゃいますかね?

 上野国(現在の群馬県)出身の尊王思想家です。蒲生君平・林子平とともに寛政の三畸人と称される。畸人とは性格や言動が普通とは異なっている人の意である。
 彦九郎の言動が当時の人々の目から見て極めて異質なものだっただけのことなのだが…。そうした意味で現在では優れた人物との意で畸人は使用されている。

 彼は勤皇を説いて諸国を遊歴し、幕末の志士たちに多くの影響を与えている。吉田松陰もその一人である。また、彦九郎は前野良沢・大槻玄沢・上杉鷹山らとの交友があったことでも知られています。

 いわば、明治維新の先駆者といえる人物の一人が高山彦九郎なのである。

 彦九郎は時の老中・松平定信から危険視され、寛政5年(1793)、久留米の友人・森嘉善宅で自刃することとなった。

 危険視されるに至った背景には、天明8年(1788)、典仁親王(光格天皇実父)に対する太上天皇尊号宣下問題、通称尊号一件と呼ばれる問題で彦九郎は定信を痛烈に批判していることによるところが大きい。


 京都を遊説した際に、三条大橋から遙かに京都御所を伏し拝み、皇室の衰微を嘆いたという逸話が残されており、昭和3年(1928)、銅像が建立された。
 昭和初期、二宮尊徳・楠木正成とともに修身教育で取り上げられた人物であったことが背景にはある。
 
 その後、第二次大戦中、銅供出で像は撤去されるが、昭和36年(1961)、再建されています。


 三条大橋付近を散策する歴史マニアはいると思いますが、高山彦九郎像を見て思うのは誰?ってことでしょうね。
 明治維新の魁的人物ではありますが、現在では教科書にも載らないし、ドラマにも出てこない人物でしょうから。
 しかしながら、銅像が建立されるほどの偉人だったんですよあっ、彼が同郷だからって贔屓しているんじゃないことは御理解くださいねぇ。


 (参考資料)
  新選組と幕末の京都                                 ユニプラン
  現地案内板


    【明智塚】

   別  名:  明智光秀胴塚
   所在地:  京都市山科区勧修寺御所内町36


イメージ 1


 天正10年(1582)6月2日、明智光秀は本能寺に織田信長を強襲世にいう「本能寺の変」である。

 その後、備中高松城を水攻めによって攻略し、毛利氏と和睦し「中国大返し」で畿内へと引き返した羽柴秀吉は12日、山崎天王山を占拠。勝竜寺付近を焼き払っている

 13日夕刻、明智羽柴の「山崎の戦い」が勃発。光秀軍は敗北し、勝竜寺城に入城する。

 夜陰に乗じて、家臣数十名と近江坂本城へと向かい、大亀谷(伏見区深草)から東進し、小栗栖道に入った。しかし、小栗栖の竹藪で、残党狩りの土民・飯田一党の襲撃を受け、光秀は深手を負い、その場で自刃したという。

 家臣・溝尾庄兵衛尉が光秀の命によって介錯し、首級は隠されたという(一説では坂本城に持ち帰られたとも、本能寺で晒し首にされたとも)。胴部分だけはこの地に埋められたという。

 山科言経『言経卿記』には、「首、本能寺へ上げ了んぬ」と、吉田兼和(兼見)『兼見卿記』には、光秀は醍醐辺で一揆に討ち取られ、その頸は村井清三、三七郎殿へ持参されたと記されています。

 
 碑は昭和45年(1970)、山科の有志によって建立されています。

 ただ、江戸時代の軍記物の記述を基に建立されたものであるので、確定された場所ではない。

 光秀の討ち取られた場所も「山科藪中」「醍醐の辺」「勧修寺在所」などと特定されたものではない。


 〔参考資料〕
  京都戦国地図本                                         ユニプラン
  明智光秀のすべて                 二木兼一                 新人物往来社
  

   【羅城門跡】

  所在地:京都市南区唐橋羅城門町


イメージ 1


 長岡京造営司であった藤原種継の暗殺・皇太弟である早良親王廃位による自害。その後の桓武天皇近親者の相次ぐ病死(早良親王の怨霊による祟り)ということを受けて、延暦13年(794)、桓武天皇は長岡京から平安京へと遷都をしています。

 羅城門は『拾芥抄』に「二重閣九間」とあり、9間5戸の重層門であったことがわかります。この羅城門を境に洛中・洛外が区分されました。

 弘仁7年(816)8月16日夜、大風によって倒壊したが、その後再建。

 だが、天元3年(980)7月9日、再び暴風雨によって倒壊してからは再建されず、右京の荒廃・国内の疲弊によって平安京南部の治安は悪化の一途を辿っています。

 『今昔物語集』や茨木童子と戦った渡辺綱の話(謡曲「羅生門」)、芥川龍之介の「羅生門」でその名が後世に知られることとなりました。

 11世紀前半、藤原道長が法成寺造営のため、羅城門の礎石を持ち帰った記述が『小右記』にあり、この頃には門の礎石や基壇のみの姿となっていたようである。


イメージ 2


 付近の発掘調査が行われたが、明確な遺構は確認されず、現在は小公園内に石碑が建つのみです。


 〔参考資料〕
  現地案内板


   【伊東甲子太郎外数名殉難之跡】

  所在地: 京都市下京区油小路木津屋橋上る東側油小路町(本光寺)


イメージ 1


 伊東甲子太郎は、元治元年(1864)10月、近藤勇の誘いに乗り新撰組に参加。同年11月の『行軍録』では二番組頭を務めています。慶応元年(1865)閏5月の編成で参謀に就任した。

 その後、尊攘を唱え近藤らと袂を分かち、御陵衛士として高台寺塔頭・月真院に屯所を構えた。常陸志筑藩出身の北辰一刀流の使い手で、国学や和歌にも秀でていた人物です

 慶応3年(1867)11月18日夜、近藤の妾宅に招待され土方歳三・原田左之助らとの酒宴の後、ほろ酔いで帰る途中、油小路通木津屋橋西入る付近で、新撰組の刺客4,5人に襲われ深手を負う

 伊東は藪の中に立っていた南無妙法蓮華経と刻まれた石碑に倒れ掛かり、絶命した

 (この事件は「木津屋橋事件」と呼ばれています。)

イメージ 2


 伊東の遺体は、油小路通七条の辻に晒され、遺体を引き取りに来た御陵衛士の隊士らと新撰組の壮絶な斬り合いになった

 これが「油小路の変」と呼ばれるもので、御陵衛士の藤堂平助ら三名が討死しています

 伊東・藤堂らの遺体は、新撰組によって光縁寺に運ばれ葬られたが、その後、泉涌寺塔頭・戒光寺に改葬されています。


イメージ 3
                          (「油小路の変」の現在の風景)

 新撰組を語る上では、絶対に外せない事件である「木津屋橋事件」と「油小路の変」

 俗に言う「局中法度」違反の伊東甲子太郎は非業の死を遂げ、新撰組発足からの同士であった藤堂平助もまたこの地で命を散らした。

 新撰組=ラスト・サムライ、といった一面もあるが……発足当時から血に血を重ねた歴史を決して忘れることは出来ない。

 その人の見方によって、様々な意見に分かれ評価の分かれる新撰組という組織。どのような意見であるにせよ、新撰組という組織が歴史にその名を残したという事実は変えようのないものである。


   (参考資料)
  新撰組と幕末の京都                                    ユニプラン
  新撰組組長列伝                                     新人物往来社
  新撰組を歩く                 星亮一+戊辰戦争研究会編       光人社
 


全1ページ

[1]


.
日本史跡研究会 
日本史跡研究会 
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(17)
  • 相模守(八丁堀)
  • ゆぅ
  • kotetsu
  • aganohito
  • 小頭@和平
  • 竹
友だち一覧
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事