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【坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋址)】
所在地: 京都市中京区河原町通蛸薬師下ル塩屋町330
幕末の志士・坂本龍馬はそれまで伏見の寺田屋を定宿としていたが、慶応2年(1866)、伏見奉行所による襲撃(俗にいう寺田屋事件)を受けた後は、三条河原町近くの材木商・酢屋を京都での拠点としていた。
近江屋へ移ったのは慶応3年(1867)10月頃とされている。近江屋は土佐藩御用を務めており、程近くには土佐藩邸もあり、土佐藩志士とは繋がりがあったためという。
この時期、坂本龍馬暗殺の風聞は世間に流布しており、新選組から離脱した御陵衛士の伊東甲子太郎・藤堂平助が近江屋を訪れた際、「新選組と見廻組が狙っている」と龍馬に忠告したとされる。
薩摩藩士・吉井幸輔も薩摩藩邸に移るように勧めたが、龍馬はこれを固辞し近江屋に留まった。従僕の山田藤吉を雇ったのは用心のためであったという。
さて、その結果が慶応3年(1867)11月15日の近江屋事件ということとなる。
坂本龍馬・中岡慎太郎・山田藤吉が何者かによって襲撃・殺害された事件である。
凶行時、近江屋主人・井口新助は妻子とともに一階の奥の間におり、土佐藩邸に急を告げた。土佐藩士・嶋田庄作、次いで曽和慎八郎、海援隊士・谷干城らが駆け付けるも、龍馬はすでに事切れていた。
中岡は息があり、襲撃の状況を伝えたことから、近江屋事件の詳細が今に伝わったのである。
中岡もその後、食事が摂れるほどの回復を見せるのだが、事切れる。
さて、近江屋を襲撃したのは一体誰であったのか?これには諸説ある。
① 見廻組襲撃説 佐々木只三郎、今井信郎らによる襲撃。函館戦争の後に今井が自白していること
から有力視されているが、今井は後に特赦によって釈放されていることから黒幕の
存在も考えられている
② 新選組襲撃説 現場に残された刀の鞘、先斗町・瓢亭の下駄の印、伊予なまりの人物から新選組・
原田左之助との説があるが、近藤勇ら新選組関係者は全員否定している。
③ 紀州藩襲撃説 いろは丸事件の恨みから襲撃したとする説
④ 薩摩藩陰謀説
いずれの説も絶対的な証拠はなく、真相は未だ闇の中である。
(参考資料)
新選組と幕末の京都 ユニプラン
坂本龍馬 いろは丸事件の謎を解く 森本繁 新人物往来社
現地案内板
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