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【寒河江城跡】 評価
別 名: ―――
所 在 地: 寒河江市丸内1−4
築城年代: 嘉禄年間(1225〜1227)
築 城 者: 大江親広
区 分: 平 城
現 状: 寒河江小学校
承久3年(1221)、承久の乱において京都守護職の任に就いていた大江親広は、あろうことか後鳥羽上皇に加担。敗れた後に寒河江荘に潜伏したとされる。寒河江荘は建久3年(1192)、父・大江広元から地頭職を譲られていた地であった。
嘉禄年間(1225〜1227)、親広はこの地に館を構えたとされるが、一説では貞永元年(1232)、御成敗式目が制定され鎌倉幕府の勘気が解けた際に構えたともされる。
南北朝時代末期から室町時代初頭、寒河江氏を名乗った寒河江時氏が単郭の城として整備されたという。その後、天文3年(1534)作製された『寒河江城古絵図』によれば、この時期には二の丸・三の丸が整備され三重の堀を持った連郭式平城となったようだ。
本丸は東西110m、南北180m。二の丸は東西250m、南北330m。三の丸は東西400m、南北550mで城下町が整備されています。
永禄3年(1560)、寒河江兼広が城主の時、最上義守・最上義光によって攻撃されるもこれを撃退。しかし、天正2年(1574)、最上義守と義光が争った天正最上の乱に巻き込まれた兼広は、天童氏・白鳥氏・蔵増氏・野辺沢氏、さらに同族の白岩氏・溝延氏・左沢氏によって攻められ、本丸のみを残して攻め崩されている。
天正12年(1584)、寒河江高基の代に最上義光との戦いに敗れ、高基は自刃。寒河江氏は滅亡している。寒河江の地は義光の直轄地となったが、文禄年間(1592〜1596)、義光の嫡男・最上義康に与えられた。
慶長5年(1600)、上杉景勝
慶長7年(1602)頃、最上家親が城主となり、慶長14〜15年(1609〜1610)、家親が山形城に移ると、旧寒河江氏家臣・寒河江肥前が27,000石で封じられた。
慶長19年(1614)、最上義光が病死すると、寒河江肥前も殉死。寒河江は最上氏蔵入地となり、その遺児・寒河江肥前(同名ですが息子である)は南館7,000石に封じられています。
元和8年(1622)、最上騒動によって最上義俊は改易され、寒河江城は鳥居氏によって接収され、元和9年から寛永元年(1623〜1624)にかけて破却されています。
寒河江小学校周辺に寒河江城址碑が幾つか建っている。三の丸辰巳門のみ澄江寺に移築されているが、こちらは訪れてはいない。
(参考資料)
日本城郭体系 3 山形・宮城・福島 新人物往来社
現地案内板
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