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【陣ヶ峯城跡】 評価
別 名: 陣ヶ峰城・城の城・藍津之城
所 在 地: 河沼郡会津坂下町字内小字五目
築城年代:
築 城 者:
区 分: 丘 城
現 状: 山林・耕地
築城年代・築城者は不明。
『近衛家所領目録』によれば、平安時代この地は摂関家領・会津蜷河荘であり、永久2年(1114)、藤原師実の妻・麗子から藤原忠実が伝領していることがわかる。
陣ヶ峯城を築いた主と蜷河荘とは強い関連性があり、荘園管理にも携わっていた可能性が、発掘調査によって出土した遺物(会津地方においては他に類を見ないほど多数の白磁が出土しており、中央政権との関わりを持つほどの強大な権威が見て取れます)から窺い知ることが出来ます。
奥羽・平泉の藤原氏と同等の力を有していたようであるが、かわらけに両者の違いが見られるのは特注したい。藤原氏が都から工人を呼び寄せて作成した「京都風」であるのに対して、城ヶ峯城跡から出土したかわらけは伝統技法での「古代風」である。
すなわち、都の権威を背景にした地元有力者によって城が築かれたと思られる。
会津藩の編纂した『新編会津風土記』には、「東西一町三十間南北一町四十間、城四郎長茂が築し二十八館の一つなりと云」と記され、地元でも「城(じょう)の城」と呼ばれている。
『恵隆寺縁起』という伝承には、「陣ヶ峯城が越後の城四郎長茂と彗日寺の乗丹坊に攻められた」とあり、城四郎長茂が城ヶ峯城を攻め取ったことが分かり、築城説は多少弱まるのではないだろうか。
長茂は陣ヶ峯城に家臣・沖野太郎を城代として置いたとされる。
九条兼実の日記であり一級史料である『玉葉』養和元年(1181)七月一日条に、「欲凌礫助元之間、欲引籠藍津之城之処、秀平遣郎従、欲押領」とあり、この藍津之城が陣ヶ峯城との見方をする研究者もいる。
城四郎長茂は越後の有力国人であり、寿永元年(1182)、越後・出羽、会津四郡の兵四万を率いて出征し、平家打倒に挙兵した木曽義仲と横田河原(現在の長野県長野市篠ノ井)で戦っている。
会津四郡の兵を率いたのが彗日寺の衆徒頭・乗丹坊であり、この戦いで戦死している。
長茂は義仲との戦いに敗れ越後に落ちるも、反乱に遭い藍津之城へ籠ろうとしたが、奥州平泉の藤原秀衡が部下を派遣して領地としたために佐渡へ逃れたという。
『新編会津風土記』には、「米の焼けたるが炭の如くになり今猶出ず、土人云、長茂居館に火をかけて立のきしが、米倉の焼けたる所なり」と記述が残り、城をめぐって戦いがあったと推測されている。
城の東を旧宮川が流れ、まもなく阿賀野川と合流。慶長16年(1611)、慶長の大地震によって勝負沢峠が崩落するまで越後街道が近くを通り、古来より会津と越後を結ぶ水陸交通の要衝の地に陣ヶ峯城は位置している。
東西約110m、南北175mの平場と西側に付属して平場がある。断崖の東側を除き三方に空堀が二重に巡っている。深さは15m余、幅が60mにも及ぶ場所もある堅固な城である。
鎌倉時代であれば、弓矢が主体の戦闘でありこれほどの規模の空堀は必要ないと思われるが、戦国期に使用されたかは???
巨大な堀は防御のみを意識したものではなく、自己顕示のために構築されたものと考えられている。
陣ヶ峯城は存続時期が半世紀くらいと短い期間が想定されるが、まだまだ不明な点も多いことから今後も調査が必要な城郭です。
(参考資料)
日本城郭体系 3 山形・宮城・福島 新人物往来社
ふくしま紀行 城と館 武者たちの舞台 下巻 福島民報社
会津の城 会津古城研究会
現地配布パンフレット
現地案内板
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