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【伝 佐原義連の墓】
所在地:喜多方市熱塩加納町半在家
佐原義連は会津蘆名氏の祖とされ、保延4年(1138)、三浦大介義明の子として生まれたとされる。
治承4年(1180)8月、源頼朝の挙兵に一族と共に馳せ参じ御家人となった。
寿永3年(1184)、一ノ谷の戦いでは源義経率いる搦手軍に属し「鵯越の逆落とし」で真っ先に駆け降りた武勇が『平家物語』に見られる他、文治5年(1189)7月、奥州征伐にも従軍。
その功績によって陸奥国会津を与えられ、半在家に館を築いたとされる。(しかしながら、その後も頼朝の上洛に従っていること、遠江国笠原荘の惣地頭兼預所に任じられていることから会津領にいたとは思えない)
義連の没年は建仁3年(1203)説・承久3年(1221)説と諸説ある。
その後、三浦氏の庶流である佐原氏は宝治元年(1247)、宝治合戦で三浦氏とともに滅亡したが、北条方に付いた佐原盛時が後に相模三浦氏として再興している。
鎌倉時代に会津に分かれた庶流が蘆名氏を称して、戦国大名となった。
中央にある宝篋印塔が義連の墓と伝わっている。高さ2.3mで南向きに建ち、塔身には四方仏の種子が彫られ、基礎は短形を二つ並べた形に彫りくぼめられている。
この形式は室町時代の形式であることから、義連没後しばらくしてから建立されたものと思われている。
寛文8年(1668)、保科正之が山崎闇斎に命じ史実を探らせ、元禄8年(1695)、松平正容が志を継ぎ「佐原義連之碑」をそばに建立しています。
宝篋印塔の周囲にある五輪塔10基は、義連の家臣の墓と言われているが、現存しているものは明治44年(1911)、義連750年祭の際に改修したものです。
〔参考資料〕
相模三浦一族とその周辺史 鈴木かほる 新人物往来社
現地案内板
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福島県の史跡
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