日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

秋田県の城館跡

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  【増田城跡】          評価  

   別   名:    土肥館・土肥城
   所 在 地:  横手市増田町字土肥館
   築城年代:  貞治年間(1362〜1368)
   築 城 者:     小笠原義冬
   区   分:      平 城
   現   状:    増田小学校




 貞治年間(1362〜1368)、南朝勢力に対する抑えとして室町幕府の命によって信濃より入部した小笠原義冬によって築かれたとされるが、一説では応永14年(1325)、源頼朝の家臣であった土肥次郎家平の後裔である土肥朝平が築いたともされる。

 15世紀初頭、稲庭城主・小野寺泰道が平鹿郡への侵攻を開始。同時期に仙北郡に進出した南部氏との間で抗争が勃発する。小笠原氏は南部氏に与したことから小野寺氏の攻撃を受けることとなり、永享年間(1429〜1441)、小笠原光冬は仙北郡楢岡城へ退去を余儀なくされている。
 光冬退去後、小野寺氏被官・土肥頼景が入城し、増田城は小野寺氏の平鹿制圧の前線基地となっている。

 その後、増田城は土肥氏の居城として機能し、土肥氏は天正10年(1582)、小野寺義道由利党との大沢山合戦、天正12年(1584)、小野寺輝道最上氏の有屋峠合戦に参戦しています。

 天正18年(1590)、太閤検地に反抗した鍋倉四郎らが率いる2,000の一揆が増田城に籠ったが、奥州仕置軍によって鎮圧された。この時、土肥氏の去就ははっきりしていない(実際、この後も土肥氏が増田城主である)。

 文禄4年(1594)、最上義光は楯岡満茂を大将として雄勝郡に侵攻湯沢城・岩崎城は落城雄勝郡中央部を制圧。この際、土肥道近は最上氏に内応して岩崎城に押し寄せた小野寺勢を背後から急襲している。この後、増田城は最上氏の支配下となり、長瀞内膳進光が城代となっている。

 慶長7年(1602)、佐竹義宣が秋田入封すると、今宮摂津守(一説には藤沢筑後守入道芸球とも)が増田城受け取りを務め、慶長8年(1603)、佐竹東家義賢が増田に封じられている。

 義賢は元和2年(1616)頃まで増田城を居城としたが、その後、岩城貞隆が増田1万石で入封する。まもなく、岩城氏は信州川中島へ転封され、元和8年(1622)、増田城は廃されています。


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                                  (二本杉)

 北西端の土塁上にある「二本杉」。小笠原義冬が増田城を築く際、城が堅固になる事を祈願して自らの娘と一頭の牛を生き埋めにしたという人柱伝説が残されている。その霊を鎮めるために二本の杉を植えたとされる。


 横手市増田町は近年「伝統的建造物群保存地区」に指定され、蔵の町として多くの観光客が訪れる街となっている。
 江戸時代、商業の町として大いに栄えた増田の中心にあったのが「増田城跡」。遺構として土塁が小学校を廻るように残されている。
 蔵の街、増田とともに訪れることをお薦めしたいです


 (参考資料)
  羽後國増田                            増田町文化財協会
  現地配布パンフレット
  現地案内板


 【平鹿郡奉行所跡】       評価  

  別   名:           ―――
  所 在 地:  横手市平鹿町浅舞字浅舞221−1
  築城年代:       寛政7年(1795)
  築 城 者:          佐竹義和
  区   分:          奉行所
  現   状:       浅舞感恩講保育園


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                          (現存する奉行所の門)

 慶長7年(1602)、秋田へと移封された佐竹義宣は、慶長19年(1614)頃、浅舞に農村支配のための陣屋を構え、鷹狩と称して村々の視察を行い民政に対処しました。

 この頃は村々に所預かりの地頭を配して農村支配を行っていたが、寛文11年(1671)、藩が行政などを通して直接農村支配を行う体制に変化させ、郡奉行(大身の重臣層)を任命している。

 しかし、天和3年(1683)、藩財政の困窮によって藩の職制改革を断行し郡奉行を廃止して代官(中級家臣層)を任命し、農村支配体制も改革しています。

 享保5年(1720)、浅舞の陣屋は存在意義がなくなったとして廃止されるも、その後も藩財政は逼迫していきます。

 寛政7年(1795)、久保田藩主・佐竹義和は行政改革として再び郡奉行制とし、平鹿郡支配の郡奉行として今泉三右衛門が任じられています。平鹿郡内には浅舞のほかに増田・角間川に御役屋が構えられています。

 寛政11年(1799)6月、三右衛門によって奉行所は普請されているが、現存する御役屋門はこの時の建造とされています。墨書に「寛政十一年己未六月十三日郡奉行今泉三右衛門様 肝煎小松田和兵衛 大工棟梁伝之助、源蔵、宇八」と記されています。

 明治元年(1868)、焼失し、御役屋門のみが焼失を免れました。

 明治4年(1871)、廃藩置県まで平鹿郡の支配は続き、廃されました。


 戦国末期まで使用された「浅舞城」内に奉行所は築かれていました。隣接する琵琶沼は澄み渡る清水であり、秋田県指定天然記念物トミヨ及びイバラトミヨ生息地です。

 訪問時は横手市までの大遠征でしたので、浅舞の地に辿り着いたときには疲労困憊

 わずかな滞在時間でしたので、のんびりと浅舞散策が出来なかったのが悔やまれます。


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                      (「浅舞城」の堀跡とも思われる琵琶沼)

 (参考資料)
  横手市史 通史編 近世                                        横手市


    【下村館跡】          評価  

   別   名:       岩 館
   所 在 地:  由利本荘市東由利蔵字岩館
   築城年代:   応仁年間(1467〜1469)
   築 城 者:        下村氏
   区   分:       平山城
   現   状:       諏訪神社


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 『由利十二頭記』・『下村古来物語り之事』によれば、応仁年間(1467〜1469)、信濃からこの地に入部した小笠原氏の一族が居館を築き、下村氏と名乗ったとされる。

 『由利十二頭記』によれば、元亀3年(1572)、石沢館主・石沢左衛門の侵入を受けて大琴の地で戦い、天正10年(1582)、庄内・尾浦城主である武藤義氏が由利に侵入すると、下村氏はこれを撃退したという。

 天正18年(1590)、奥州仕置きによって、下村彦次郎は175石の知行を安堵され、他の由利衆とともに豊臣政権下に組み込まれています。

 慶長3年(1598)、下村氏(彦次郎の嫡子である彦三郎と思われる)は、大谷形部吉継の検地に反抗同じく由利十二頭の赤尾津氏・潟保館主である潟保氏・山崎館主である鮎川氏らの攻撃を受け、玉米館主である玉米氏とともに滅亡したという。

 しかし、文禄3年(1594)の朝鮮出兵や文禄5年(1596)の伏見城築城の際の杉材負担をした者の中に下村氏の名は見られていないことから、文禄年間(1592〜1595)頃には没落していたと思われます。


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 館の規模は東西180m、南北130mほどの単郭で中央部には諏訪神社が鎮座しています。

 諏訪神社の周囲には土塁痕が見られます。


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 境内には秋田県指定天然記念物である「岩館の大イチョウ」があります。

 推定樹齢は約500年以上で、樹高約30m、幹回り約7m。

 弘法大師がこの地を巡礼した際、杖としていたイチョウを逆さに立てたものに根がついたという伝説が残ります。

 また、木の表面が女性の乳房に似ていることから、乳の出ない女性が願いを掛けたという言い伝えも残されています。


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                              (諏訪神社)

  (参考資料)
   日本城郭体系 2 青森・岩手・秋田                            新人物往来社



   【本荘城跡】        評価  

  別   名:     舞鶴城・尾崎城
  所 在 地:   由利本荘市出戸町尾崎
  築城年代:   慶長15年(1610)
  築 城 者:     楯岡豊前守満茂
  区   分:       平山城
  現   状:       本荘公園


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 慶長5年(1600)、最上義光は東軍に与し、西軍の上杉景勝と庄内・山形で対峙する。戦後、義光は庄内3郡・由利郡の領有を認められ、楯岡豊前守満茂に由利郡4万石を与え、由利郡統治を命じます。

 当初、満茂は天鷺城を拠点として統治を行っていたが、慶長15年(1610)、尾崎山に新たに築城を開始し、慶長17年(1612)、本荘城は完成しています。

 しかし、元和8年(1622)、義光後継者争いである「最上騒動」によって最上氏は改易となり、楯岡氏もそれに連座する形で上州厩橋藩酒井忠世預かりとなっている。由利郡は一時幕領となった。

 その後、本多正純が宇都宮15万石から5万5千石で転封を命じられるも、これを固辞。また、「宇都宮釣天井事件」も重なり、寛永元年(1624)、本多氏も改易となった。

 元和9年(1623)、常陸国府中から六郷政乗が2万2千石で転封となり、以後六郷氏が11代続いて明治までこの地を統治しています。

 政乗は城の規模を縮小し、六郷藩の居城としている。

 慶応4年(1868)、戊辰戦争が勃発すると、奥州諸藩が奥羽越列藩同盟に参加する中、六郷政鑑は秋田久保田藩・亀田藩とともに新政府軍に加担。庄内藩の攻撃を受けることとなる。

 隣接する亀田藩が庄内藩に降伏という事態を受けて、政鑑は城に火を放ち久保田城へ退去しています。

 明治2年(1869)、廃藩置県によって廃城となる。


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                               (三の丸水堀)

 現在、本荘城跡は本荘公園となり、市民の憩いの場となってる。

 園内には舞鶴温泉や温水プールもあります。また、桜やツツジの季節には多くの人々で賑わいます。


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                           (三の丸模擬城門)

 遺構としては曲輪・土塁・水堀が残るのみであり、数多く城跡を見てきた方にはちょっと物足りなさが残る城跡かもしれません。

 とはいうものの城メグラーとしては六郷藩の政庁であった城跡でもあり、しっかりと縄張りを巡りたいですね。


 (参考資料)
  本荘市史 資料編 Ⅰ  考古・城館・編年史料
  現地案内板
  現地配布パンフレット
  

   【吉田城跡】       評価  

  別   名:       西法寺館
  所 在 地:   横手市平鹿町上吉田
  築城年代:   
  築 城 者:
  区   分:        平 城
  現   状:      西法寺・公園


イメージ 1


 築城年代・築城者は不明。

 永禄年間(1558〜1570)、大和田佐渡守光盛らに横手城を追われていた小野寺輝道が横手城を回復すると、家督を嫡子・義道に譲り吉田城に隠居したと伝えられる。

 その後、輝道の末子・陳道が城主となり、陳道は天正12年(1584)、有屋峠の戦いや、天正16年(1588)、峰の山の戦い、慶長5年(1600)、大森・吉田合戦等に小野寺軍の中枢として参陣したと『奥羽永慶軍記』に記されています。

 特に慶長5年(1600)の大森・吉田合戦の際には、上杉景勝に加担したため、吉田城は最上義光ら三千の兵に包囲されるも、陳道は千五百の手勢で見事に城を守り抜いています。

 しかし、小野寺氏は関ヶ原の戦いの後に改易となってしまいます。

 慶長7年(1602)、佐竹義宣が秋田に入封すると、吉田城には茂木監物が城主として入城。

 元和元年(1615)、寛物は横手城に移り、吉田城は廃城となったと考えられている。


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                            (北東隅の推定櫓台)

 慶長奥羽合戦で名将・最上義光らが落とせなかった吉田城。平城ながら堅固な縄張りであったことは疑いようがない。

 にもかかわらず、その名は全国的にもマイナーな城であるのは残念なことです

 土塁の高さや推定櫓台などの遺構もしっかり残されており、是非とも訪れていただきたい城跡の一つです。

 また、この地は「秋田県の自由民権運動発祥の地」でもあります。


 (参考資料)
  平鹿町史
  西法寺HP
  現地案内板

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