日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

静岡県の城館跡

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   【谷田城跡】              評価  

    別   名:      谷田ノ堡
    所 在 地:  三島市谷田字城ノ内
    築城年代:
    築 城 者:
    区   分:     平山城
    現   状:      宅 地


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 築城年代、築城者は不明であるが、明治28年(1895)に発行された『増訂豆州志稿』によると、「丘上は千歩程の広さがあり、西側を流れる鯉生川という小溝は城の遺構であり、往昔渡辺照雄というものがこの城を守っていた」と記されている。

 城山とよばれる付近一帯には、堀や土塁が廻り、往昔の遺構が残されていたようであるが、その後の宅地開発によって急速に破壊され、現在では遺構は確認できない。

 
 妙隆寺北側の交差点に石碑と案内板が建つのみであるが、多くの名もなき城館跡は石碑や案内板すらないことが大多数である。
 それから比べたら、この「谷田城跡」は恵まれた城館跡なのかもしれない。


 (参考資料)
  現地案内板
 

  【黒田代官屋敷跡】             評価  

   別   名:       ―――
   所 在 地:    菊川市下平川862
   築城年代:  永禄年間(1558〜1570)
   築 城 者:    黒田九郎太夫義則
   区   分:        屋 敷
   現   状:      黒田家住宅


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 永禄年間(1558〜1570)、この地の土豪・黒田九郎太夫義則によって築かれた。義則は当初今川義元に属したが、永禄12年(1569)、徳川家康が今川氏真を掛川城から追放すると、家康に臣従。高天神城主・小笠原與八郎長忠に属している。

 天正2年(1574)、高天神城が武田勝頼によって攻略されると、帰農した。

 正保2年(1645)、岡崎城主・本多利長は庶兄である本多日向守助久に下平川村周辺4560石を分与し、旗本とした。
 黒田氏はその代官として任命され、その領地を代々支配し、明治を迎えています。


イメージ 2
                         (「黒田家住宅」周囲を巡る濠)

 南北約100m、東西約80mの規模を有する平城式環濠屋敷。

 現在も御子孫がお住まいのため、主屋などには立ち入り禁止である。現在の主屋は安政元年(1854)の安政の大地震後に建立されたと考えられています。

 
 資料館も併設され、駐車場も完備されているので、訪れやすい城館跡と言えるでしょう。

 
 (参考資料)
  日本城郭体系 9 静岡・愛知・岐阜                     新人物往来社
  現地配布パンフレット
  現地案内板


   【仁田館跡】          評価  

    別   名:         ―――
    所 在 地:  田方郡函南町仁田字堀の内
    築城年代:       平安時代末期?
    築 城 者:        仁田氏
    区   分:          館
    現   状 :      慶音寺・宅地


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 築城年代は明らかではないが、仁田氏によって築かれた。源頼朝に従った仁田四郎忠常は仁安2年(1167)、この館で生まれたとされる。

 治承4年(1180)、源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵すると、若干13歳の忠常は頼朝の御家人としてこれに参加している。『吾妻鏡』では、新田四郎忠常と記載されています。

 忠常は平家追討の戦いでは源範頼の軍に従い各地を転戦し武功を挙げたことから、頼朝からの信頼は厚かったようで、文治5年(1189)、重病の床に就いていた忠常を頼朝自身が見舞いのために屋敷を訪れていることが記されている。

 建久4年(1193)、曽我十郎祐成・五郎時致による工藤祐経殺害事件が起こった際、忠常は十郎祐成を討ち取る働きを見せています。

 そして、頼朝没後もその跡を継いだ源頼家から信頼され、嫡男・一幡の乳母父となっている。

 建仁3年(1203)、執権・北条時政の命によって幕府重臣・比企能員を殺害。『吾妻鑑』には、「比企能員は(北条時政の)招きに応じて時政の館に入った。玄関を通って北の客間に向うところを加藤景廉と新田忠常が左右の腕を捉え横の竹藪に引き据えて刺し殺した。時政は縁先に出てこれを眺めた」と詳細が記されています。

 比企能員の変の後、忠常は頼家から北条時政討伐の命を受ける。その翌晩(能員謀殺から僅か4日後)、時政から恩賞を与えるために館に招かれた忠常の帰りが遅いことを不審に思った弟たちは時政追討が露見したと
勘違いして北条義時邸を襲撃これを聞いた忠常は御所に参内するが、加藤景廉によって討ち取られた。
 

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               (中央・仁田四郎忠常、左・五郎忠正、右・六郎忠時の墓石)

 その後、仁田氏は歴史の表舞台から姿を消すのであるが、その子孫は連綿と続き現在も末裔の方がご健在のようである。


 発掘調査も行われており、江戸時代の礎石建物跡、室町〜江戸期の井戸跡、安土桃山〜江戸期の幅約4m・深さ約2mの畝堀が検出しています。
 また、屋敷北東隅からは河川跡が発見され、多くの土器や陶器の他、室町末期と考えられるこけら経850枚以上が出土しています。


 (参考資料)
  現地案内板


  【北条氏邸跡】             評価  

   別   名:     ―――
   所 在 地:  伊豆の国市寺家
   築城年代:   平安時代末期
   築 城 者:    北条時家
   区   分:      館
   現   状:   発掘調査現場


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 平安時代末期、伊豆の国人である北条時家によって築かれたとされる。韮山には中条・南条という字もあり、北条氏は小規模の豪族であったと考えられています。また、北条嫡流ではなかったとも考えられています。

 治承4年(1180)、源頼朝の平家打倒の挙兵に従った北条時政は鎌倉幕府初代執権となり、鎌倉に邸宅を構えており、鎌倉時代を通じてどのように機能していたのかは不明であるが、北条氏の本貫地であったことから考えて誰かしらが邸宅を守っていたものと考えられる。
 時政が挙兵に際して用意できた軍勢は50騎とも30騎ともいわれ、一介の地方在地領主であった北条氏が時流に乗り、権勢を握ることとなったのはサクセスストーリーでしょう。時政自身は義時にその座を追われて韮山の地に戻ったとされています。

 元弘3年(1333)、鎌倉幕府滅亡後、北条高時の母である覚海円成尼は北条一族の女性たちを伴い、韮山の地に戻り、一族の菩提を弔うため邸跡に「円成寺」を建立しています。

 室町時代には関東管領・上杉氏の娘が尼として入寺するなどしていたが、寛正元年(1460)、国清寺を兵火によって失った堀越公方・足利政知は円成寺領の一部を接収して堀越御所を構えています。

 このことで寺域は大幅に減少したものの、江戸時代まで円成寺は存続。その後、廃寺となったという。


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 伊豆の国市による発掘調査が行われ、12世紀末から13世紀前半の掘立柱建物跡、堀跡、溝、井戸、水路、排水施設、土坑などが検出。また、13世紀後半から14世紀初頭の土壙墓が確認されていることから、北条氏の歴史とも符合しています。

 伊豆地方では卓越した威信財遺物(大量のかわらけ、青磁、白磁、青白磁などの陶器類)も出土しており、北条氏の権威を窺い知ることが出来ます。


 将来的には史跡公園として整備される計画があるのですが…訪れた平成26年(2014)以降、あまり話題に上っていないですが、果たしてどうなっているのでしょうね。


 (参考資料)
  現地案内板


  【伝・堀越御所跡】        評価  

   別   名:         ―――
   所 在 地:  伊豆の国市四日町字御所内
   築城年代:     長禄2年(1458)
   築 城 者:        足利政知
   区   分:         居 館
   現   状:        公園・宅地


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 享徳3年(1454)、鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を謀殺したことに端を発した〘享徳の乱〙は戦国時代の幕開けとなった。これに対して足利幕府8代将軍・足利義政は成氏追討令を発し、関東管領・上杉氏鎌倉公方・足利成氏の争いは関東を戦乱に巻き込むこととなる。

 その後、成氏は鎌倉を追われ、下総国古河に拠点を移し古河公方と称することとなる。

 長禄元年(1457)7月、足利義政は異母弟であった香厳院主清久を還俗させ、政知と名乗らせて関東執事・渋川義鏡、上杉教朝を率いて鎌倉府へ下向させる。

 長禄2年(1458)5〜6月、政知は関東に下向するも、関東の情勢は悪化伊豆国堀越(ほりごえ)に御所を構えて堀越公方となり、鎌倉入りの機会を窺った。この時の御所は伊豆国・国清寺であったともいう。

 長禄4年(1460)、政知陣所である国清寺が成氏方によって焼き討ちされる事態となったため、堀越御所に居を移している。

 この後も関東は混乱を極め、寛正6年(1465)、文明3年(1471)、成氏方の攻撃を受けている。

 長尾景春の乱などを経て、文明14年(1483)、享徳の乱は成氏と室町幕府の間に和議が締結されたことで終息を迎えるが、京都は応仁の乱真っただ中であり、関東へは満足な軍事力を付加できなかったことから、堀越公方は最終的に伊豆一国のみの支配者ということとなっている。


 政知はこの和睦後、嫡男であった茶々丸を廃嫡し、三男・清晃の異母弟である潤童子を後継者と定めたことから、これに反対した上杉政憲(上杉教朝の子)を自害させるなど、堀越公方自ら勢力の減退を進めることとなる。この動きは幕府管領・細川政元と連動した動きであった。

 延徳3年(1491)、政知は病死。その死から3ヶ月後、茶々丸は潤童子を殺害して堀越公方となったのであるが、明応2年(1493)、細川政元が明応の政変によって室町幕府10代将軍・足利義澄を擁立すると、義澄は伊勢宗瑞(かつて幕府の用人であった)に茶々丸討伐を命じている。

 宗瑞は伊豆に侵入し、茶々丸を討滅している。この際に堀越御所も廃されています。(堀越公方滅亡年代には諸説あり、茶々丸は堀越御所を脱してその後も抵抗を続けているというのが現在の定説となってきております。)


 堀越公方も室町幕府と鎌倉府という二元構造の争いによって生まれ、その争いに巻き込まれる形で滅亡する。享徳の乱に始まる戦国時代は関東の混乱が全国に飛び火する形で応仁の乱に発展その後の群雄割拠へと繋がる。

 このことから、堀越御所跡の説明も簡潔にせざるを得なかった。これも享徳の乱の説明の難儀さゆえであるのでご了承ください。


 発掘調査では池跡・建物跡が検出されていますが、「北条氏館跡」と隣接していることから、この地はあくまでも「伝・堀越御所跡」となっています。


 (参考資料)
  関東戦国の大乱                                    群馬県歴史博物館
  日本城郭体系 9 静岡・愛知・岐阜                        新人物往来社
  戦国争乱と巨大津波  北条早雲と明応津波      金子浩之      雄山閣
  現地案内板

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