【伝・堀越御所跡】 評価 
別 名: ―――
所 在 地: 伊豆の国市四日町字御所内
築城年代: 長禄2年(1458)
築 城 者: 足利政知
区 分: 居 館
現 状: 公園・宅地
享徳3年(1454)、鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を謀殺したことに端を発した〘享徳の乱〙は戦国時代の幕開けとなった。これに対して足利幕府8代将軍・足利義政は成氏追討令を発し、関東管領・上杉氏  鎌倉公方・足利成氏の争いは関東を戦乱に巻き込むこととなる。
その後、成氏は鎌倉を追われ、下総国古河に拠点を移し古河公方と称することとなる。
長禄元年(1457)7月、足利義政は異母弟であった香厳院主清久を還俗させ、政知と名乗らせて関東執事・渋川義鏡、上杉教朝を率いて鎌倉府へ下向させる。
長禄2年(1458)5〜6月、政知は関東に下向するも、関東の情勢は悪化   伊豆国堀越(ほりごえ)に御所を構えて堀越公方となり、鎌倉入りの機会を窺った。この時の御所は伊豆国・国清寺であったともいう。
長禄4年(1460)、政知陣所である国清寺が成氏方によって焼き討ちされる事態となったため、堀越御所に居を移している。
この後も関東は混乱を極め、寛正6年(1465)、文明3年(1471)、成氏方の攻撃を受けている。
長尾景春の乱などを経て、文明14年(1483)、享徳の乱は成氏と室町幕府の間に和議が締結されたことで終息を迎えるが、京都は応仁の乱真っただ中であり、関東へは満足な軍事力を付加できなかったことから、堀越公方は最終的に伊豆一国のみの支配者ということとなっている。
政知はこの和睦後、嫡男であった茶々丸を廃嫡し、三男・清晃の異母弟である潤童子を後継者と定めたことから、これに反対した上杉政憲(上杉教朝の子)を自害させるなど、堀越公方自ら勢力の減退を進めることとなる。この動きは幕府管領・細川政元と連動した動きであった。
延徳3年(1491)、政知は病死。その死から3ヶ月後、茶々丸は潤童子を殺害して堀越公方となったのであるが、明応2年(1493)、細川政元が明応の政変によって室町幕府10代将軍・足利義澄を擁立すると、義澄は伊勢宗瑞(かつて幕府の用人であった)に茶々丸討伐を命じている。
宗瑞は伊豆に侵入し、茶々丸を討滅している。この際に堀越御所も廃されています。(堀越公方滅亡年代には諸説あり、茶々丸は堀越御所を脱してその後も抵抗を続けているというのが現在の定説となってきております。)
堀越公方も室町幕府と鎌倉府という二元構造の争いによって生まれ、その争いに巻き込まれる形で滅亡する。享徳の乱に始まる戦国時代は関東の混乱が全国に飛び火する形で応仁の乱に発展  その後の群雄割拠へと繋がる。
このことから、堀越御所跡の説明も簡潔にせざるを得なかった。これも享徳の乱の説明の難儀さゆえであるのでご了承ください。
発掘調査では池跡・建物跡が検出されていますが、「北条氏館跡」と隣接していることから、この地はあくまでも「伝・堀越御所跡」となっています。
(参考資料)
関東戦国の大乱 群馬県歴史博物館
日本城郭体系 9 静岡・愛知・岐阜 新人物往来社
戦国争乱と巨大津波 北条早雲と明応津波 金子浩之 雄山閣
現地案内板
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