日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

東京都の城館跡

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  【小菅御殿跡】               評価 

   別   名:       千住御殿
   所 在 地:  葛飾区小菅1−35−1
   築城年代:    元文元年(1736)
   築 城 者:       徳川吉宗
   区   分:       御 殿
   現   状:      東京拘置所


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 寛永年間(1624〜1644)、徳川家光によってこの地は関東郡代・伊奈忠治に下賜され、敷地面積18,000坪の広大な下屋敷が構えられた。

 忠治は当時、武蔵国北部の土木工事を担っており、事業遂行のためこの地を与えられたものと思われる。


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                           ( 「小菅御殿の石灯篭」 )

 元禄12年(1699)、徳川綱吉は、側用人であり老中格であった柳沢吉保に伊奈氏の屋敷地を下賜し、吉保に御囲を構えさせたという。

 御囲とは、生類憐みの令における御犬様のためのものであり、御犬様に伊奈氏は屋敷地を没収されたということになろうかと思う。


 しかし、生類憐みの令は綱吉死後には廃止され、享保元年(1716)、伊奈氏に屋敷地は返還されている。

 元文元年(1736)、徳川吉宗の命によって、葛西方面での鷹狩りの際の休息所として御殿が築かれ、小菅丸という豪華な遊覧船で墨田川から綾瀬川へ上がり、水戸橋の水門あたりから水戸佐倉街道を経て、御殿に通ったという。


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                            ( 「小菅御殿 水堀跡」 )

 その後、徳川家重もたびたび御殿を訪れたが、寛保2年(1742)、御殿は焼失

 将軍の御成もほとんど無くなり、さらに寛政4年(1792)、伊奈忠尊の代にお家騒動によって伊奈氏が改易されると、寛政6年(1794)、御殿は取り壊されている。

 天保3年(1832)、松平定信は広大な屋敷地跡に江戸町会所の籾蔵を設置している。

 明治維新後には、小菅県役所が置かれ、廃藩置県後には民間に払い下げられ、民間初の洋式煉瓦工場が設立されている。


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                    ( 小菅にあった煉瓦工場を偲ばせる説明板 )

 明治11年(1878)には小菅監獄となり、現在に至るのである。


 東京拘置所となった今、なかなか足を運ぶのをためらってしまう城館址ではないだろうか?

 しかしながら、拘置所の周囲には小菅の歴史を語る説明版が多く設置されており、江戸から現代の歴史を感じることの出来る場所である。

 とはいうものの、この地を訪れるならば、世間を騒がせるニュースが無い時が望ましいのと思う。また、興味本位でも拘置所入口には近づかない方が良いと思われる。


 (参考資料)
  日本城郭体系 5 埼玉・東京                         新人物往来社
  現地案内板
 

  【甲良屋敷跡】              評価  

   別   名:       ―――
   所 在 地:  足立区千住旭町10−31
   築城年代:    寛文10年(1670)
   築 城 者:       甲良宗清
   区   分:        屋 敷
   現   状:    千寿常東小学校


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 甲良氏は、近江国犬上郡法養寺村(現在の滋賀県犬上郡甲良町)出身であり、江戸幕府に大棟梁として仕えた工匠の家柄でした。

 初代・甲良豊後守宗広から11代・棟隆まで江戸幕府に仕えています。この間、江戸城や日光東照宮などの造営修築に関与し、建仁寺派と呼ばれました。
 こうした功績から、江戸幕府によって町人の身分でありながら武士並とされ、屋敷地を拝領しています。幕府拝領の屋敷地は市ヶ谷にありました。

 
 寛文10年(1670)、三代・甲良宗清の代に甲良家別荘として築かれ、敷地約1万坪の中に間口約56m、奥行約52mの屋敷が構えられました。

 11代・棟隆の時に明治維新を迎え、廃業。その流派は10代・甲良宗全の子である大島盈株に引き継がれ、後に初代新橋駅造営に貢献している。


 甲良氏自身は、昭和21年(1946)、棟隆の子・伝次郎が没したことで断絶している。

 
 屋敷地がいつごろまで甲良氏所有であったのかは不明であるが、明治期までは所有していた可能性が高いと思われる。


 (参考資料)
  現地案内板


  【渋谷城跡】           評価  

   別   名:      金王丸城
   所 在 地:  渋谷区渋谷3−5−12
   築城年代:    平安時代末期
   築 城 者:      河崎基家
   区   分:       丘 城
    現   状:    金王八幡神社


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                        (城跡に鎮座する「金王八幡神社」)

 後三年の役の戦功によって、源義家より渋谷の地を与えられた秩父平氏の流れを汲んだ河崎基家によって、寛治6年(1092)、渋谷城は築かれたとされる。この時、鎮守社として祀られたのが「金王八幡神社」の始まりと社伝は伝える。

 基家の子である重家の代、堀川天皇より渋谷の姓を賜り、渋谷氏に改姓している。その重家の子が金王丸常光である。

 渋谷金王丸常光は源義朝に仕えていたが、平治元年(1159)、平治の乱で義朝は敗れ、東国に落ち延びる途中で打ち取られてしまう。その死を常盤御前に告げて出家するが、その後、平家打倒の挙兵をした源頼朝に召し出され活躍する。
 しかし、頼朝は金王丸に「義経を暗殺せよ」との命を下し、その結果、金王丸は失敗処刑されたという(彼は主君である義朝の子である義経を討てるはずがなく、自ら失敗して処刑される道を選んだのであろう。これが、金王丸伝説として今に伝わる悲話である)。


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                             (「金王丸御影堂」)

 金王丸常光が処刑された後の渋谷氏の動向ははっきりと伝わってはいないが、戦国期まで脈々と続いていたようで、大永4年(1524)、北条氏綱による江戸城攻略に伴い、渋谷城も攻略され落城
 その後、城は廃されたが…江戸時代に入り、徳川将軍家から「金王八幡神社」は信仰され、特に徳川家光の乳母である春日局は神門・社殿を造営しています。


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 社殿前には、「渋谷城の石」が存在しますが…本当に当時の石垣の一部なのか?疑問です。とはいえ、渋谷城跡には明確な遺構は残されていませんから、これはこれで、渋谷に城があったことを後世に伝えるという意味合いでは良いことなのかなとも感じます。


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 御朱印もしっかりと社務所でいただけます。


 (参考資料)
  日本城郭体系 5 埼玉・東京                        新人物往来社
  城巡礼 諸行無常 東京48ヶ所めぐり                    東京地図出版
  現地案内板


  【白金長者屋敷跡】           評価  

   別   名:     白金城・白金館
   所 在 地:    港区白金台5−21−5
   築城年代:  応永年間(1394〜1428)
   築 城 者:       柳下上総介
   区   分:          館
   現   状:     国立自然教育園


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 応永年間(1394〜1428)、南朝方の柳下上総介がこの地に館を構え、白金長者と呼ばれていたとされる。

 永禄2年(1559)、白金の地名が文献に初見され、太田道灌の曾孫にあたる太田新六郎がこの地を治めていたとの記録がある。

 
 この「白金長者屋敷跡」は非常にやっかいな城館跡である。多くの城館はその歴史は明らかでないから、白金長者屋敷も御多分にもれず、その歴史は明らかではない。

 さらに、縄張りもどのような姿であったのかは判然としない。その理由は、江戸時代には高松藩主・松平讃岐守頼重の下屋敷・抱屋敷となり、さらに明治時代には海軍省・陸軍省管轄の火薬庫としても使用されていることから、現在残された遺構である土塁が往時のものであるのか?はたまた後世の改変によるものなのかは明らかではない。

 そうはいっても、この地が中世城館跡であることは間違いないことであり、東京都内に残された貴重な遺構であることは紛れもない事実である。


 (参考資料)
  日本城郭体系 5 埼玉・東京                        新人物往来社
  城巡礼  諸行無常 東京48ヶ所めぐり                  東京地図出版
  現地案内図


  【旧岡山藩下屋敷跡】            評価  

   別   名:        大崎屋敷
   所 在 地:  品川区東五反田5−4−35
   築城年代:      寛文8年(1668)
   築 城 者:       池田光政
   区   分:        屋 敷
   現   状:      池田山公園


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 寛文8年(1668)、岡山藩主・池田光政は徳川幕府より約13万㎡という広大な屋敷地を与えられ、この地に下屋敷を構えた。

 富士山の眺望に恵まれた土地で、歴代岡山藩主たちの別荘として幕末まで機能しています。

 明治4年(1871)、廃藩置県によって岡山藩は廃藩となりますが、その後も池田氏の屋敷として使用され、大正末期頃に東京市の郊外への住宅地拡大に伴い、下屋敷の大半は高級住宅地として分譲されました。

 その後、個人宅となっていたものを品川区が購入し、昭和60年(1985)、池田山公園として開園されています。


 池田山公園のある部分は、旧岡山藩下屋敷の奥庭部分であり、三田用水を引き込んで作られたという池泉回遊庭園が当時の面影を今に伝えています。

 案内板のようなものは見受けられず、それが残念だったのですが、都内には大名屋敷跡が公園として残されたものが多く、池田山公園もその一つです。


 (参考資料)
  江戸屋敷300藩いまむかし  江戸と東京を散歩する         実業之日本社

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