日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

長野県の城館跡

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  【吉野町館跡】           評価  

   別   名:     堀の内
   所 在 地:  安曇野市豊科吉野
   築城年代:   天正11年(1583)
   築 城 者:    日岐丹波守盛武
   区   分:       館
   現   状:    宅地・耕地


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 永禄10年(1567)、生島足島神社の起請文に仁科氏の親類であり、被官であった日岐丹波守盛次次男である日岐丹波守盛武の名がある。盛武の兄は日岐織部祐である。

 天正10年(1582)7月、松本復帰を果たした小笠原貞慶は、翌8月には日岐城を攻略

 この際、穂高にいた仁科氏一族の穂高内膳は、日岐丹波守盛武の妹を妻としており、織部の守る日岐城に共に籠城し、敗れて小笠原氏に降るも川中島へ流浪の身となった。

 その後、内膳の妻のはからいで、穂高内膳・日岐丹波守盛武の降伏を図った。


 小笠原貞慶は、天正11年(1583)、両名の身の安全を保障するため、北山・日岐山・大穴・堀の内・一日市場・本領である吉方合計230貫文の宛行状を起請文として日岐丹波守盛武に渡している。

 そして、盛武は堀の内に館を築いたとされる。


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 盛武は天正18年(1590)、小笠原貞政に従い、小田原征伐に出陣し、戦功によって小笠原氏が古河へと転封されると、それに従いこの地を去っている。

 その後、現在もこの地に居住する熊井氏が入植してきたようである。


 (参考資料)
  信濃の山城と館 7 安曇・木曽編         宮坂武男         戎光祥出版
  現地案内板


  【吉野堀屋敷跡】            評価  

   別   名:       ―――
   所 在 地:  安曇野市豊科吉野3403
   築城年代:  天正年間(1573〜1592)
   築 城 者:      丸山丹後守
   区   分:        屋 敷
   現   状:        宅 地


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 天正年間(1573〜1592)、小笠原氏の一族である平瀬氏に仕え、武田氏と抗戦した丸山丹後守によって築かれたとされる。

 『豊科町誌』によると、、永正年間(1504〜1520)以前に丸山氏はこの地に来住し、当初から中村に居住したらしいが、この堀屋敷であったかは不明である。


 丸山氏の出身地は、生坂村丸山であり、永正3年(1506)以前に来住し、平瀬氏の寄子として平瀬氏に属した。

 天文20年(1551)、平瀬城落城後は、天正5年(1577)まで京などを放浪。それ以後に信濃へ帰り屋敷を造成したと推定されている。


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 丸山系図3代目・政勝は、父丹後守とともに和州へ退去したのちに、織田信長に仕え、天正5年(1577)、信州へ帰り、天正10年(1582)、吉野郷の禁制を信長より受け、天正18年(1590)、吉野・寺所両郷を小笠原家より感状を給わり、石川家の地代官になったという。

 天正18年(1590)、小笠原貞政は古河3万石に転封されるが、丸山佐助はこの地に残り、石川家に仕え、慶長20年(1615)、小笠原秀政の伏見在番の際には、それに従ったという。


 東西25間(45m)、南北20間(36m)の館跡で、土塁・堀が一部良好に残存している。


  (参考資料)
   信濃の山城と館 7 安曇・木曽編        宮坂武男      戎光祥出版
   現地案内板


   【鳥羽館跡】              評価    

   別   名:        ―――
   所 在 地:  安曇野市豊科上鳥羽145・149
   築城年代:    
   築 城 者:        丸山氏
   区   分:          館
   現   状:       宅地・耕地


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 現地案内版によれば、「小笠原氏の一族である平瀬氏に仕え、武田氏と抗戦した丸山将監が天正年間(1573〜1592)に居館したという」としている。

 しかし、丸山将監については、宝暦10年(1760)、小見(麻績)奥右衛門尉に宛てた正麟寺の「聞伝書」の中に、「日岐丸山城主・丸山将監は、天文19年(1550)、小笠原長時と武田晴信の桔梗ヶ原合戦で負傷し、一族の真々部尾張守真光に介抱されたが落命したという。鳥羽村にある小庵は丸山将監居士の開基とされる」とある。


 鳥羽館主は二代目の丸山肥後(日岐丸山氏の系譜)で、その来住の時期は少なくとも15世紀末までと考えられている。二代目丸山肥後も将監を称しており、大町城主・仁科盛信に属し、天正10年(1582)の武田氏滅亡後は小笠原貞慶に従い、川中島に出陣したり、千見城番等も勤めているという。

 丸山将監はその後小笠原秀政に仕え、知行800石であったという。


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                      ( 館の北西部に残る「水堀」と「土塁」 )

 明治23年(1890)の地籍図では、東西50間(90m)、南北45間(81m)で、東方に古屋敷という四辺に土塁を巡らせた跡のある屋敷地が付属し、東北隅に稲荷社がある。

 天保2年(1831)の村絵図では、四周に堀があり、東が切れて古屋敷に通じており、大手の西側には堀があり木橋で渡ったと思われる。


 また、平成4年(1992)、発掘調査が行われ、堀幅4.2〜4.8mの薬研堀、住居址が検出されている。遺物としては陶器片や内耳鍋が出土した。


 思った以上に良い遺構が残されている城館跡である。安曇野市には何度も訪れているが何故これまで訪れなかったんだろう

 最近は城館巡りから遠ざかっているが、本当に久々のクリーンヒットの城館跡であった。


 (参考資料)
   豊科町誌                                   豊科町誌編纂委員会
   信濃の山城と館 7 安曇・木曽 編       宮坂武男      戎光祥出版
   現地案内板


  【構えの墓館跡】        評価  

   別   名:      ―――
   所 在 地:  安曇野市豊科新田
   築城年代:  
   築 城 者:
   区   分:       館
   現   状:     墓地・耕地


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 安曇野市豊科新田の「法蔵寺館」の南方150mほどのところにある墓地が「構えの墓館跡」である。位置からみて法蔵寺館の構え、すなわち防護のための施設が構えられていたと考えられている。

 熊倉―成相新田―穂高を結ぶ街道を押さえるために、武田氏が支配した時期に築かれたと考えられている。

 館主ははっきりしたことは明らかではないが、『穂高町誌』ではこの地に勢力を有していた成相氏あるいはその一族ではなかろうかとしている。


 成相氏は、小笠原貞慶に属してこの地に勢力を持ち、江戸時代には郷士となってこの地に残ったもの、あるいは庄屋を勤めたものなどがいる。


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                  (墓地とアパートの間が往時の堀跡と考えられる)

 明確な遺構は確認出来ないものの、安曇野市教育委員会が建てた城址碑があるのが救いである。


 (参考資料)
   穂高町誌                                     穂高町誌編纂委員会
   信濃の山城と館 7 安曇・木曽編       宮坂武男         戎光祥出版
   現地案内板
 

  【琵琶島城跡】          評価  

   別   名:     野尻城・野尻島
   所 在 地:  上水内郡信濃町野尻琵琶島
   築城年代:       南北朝時代
   築 城 者:
   区   分:        水 城
   現   状:        宇賀神社


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 築城年代・築城者は不明であるが、交通の要衝であったことから南北朝時代には築かれていたようである。

 観応2年(1351)、信濃南朝方が越後の新田一族と結んで蜂起した際、北朝方の小笠原為経・武田丈元らが「野尻城より馳参の処」とあり、これが初見とされる。

 野尻城は信濃守護の支配下に置かれていたが、戦国時代には高梨氏の支配下となったことで、信越国境の重要拠点とされた。

 永禄年間(1558〜1570)、武田上杉が野尻城争奪戦を繰り広げることとなる。

 永禄4年(1561)9月、武田方に割ヶ岳城が攻略されると、第4回川中島の戦いへと発展。上杉方は野尻城を防衛拠点としている。

 永禄7年(1564)、『色部文書』に、「野尻島を敵乗取候ところ日時移さず取返し候。」とあることから、琵琶島城は一時武田方に攻略されたが、すぐに上杉方が奪還したことがわかる。

 永禄12年(1569)、『大河原文書』には、「飯山市川野尻新地用心目付油断あるまじく候。」と見られることから、新たに対岸に築かれた野尻新城へと軍事拠点が移されたことがわかる。

 これ以降、野尻城についての記載は見られなくなり、廃されたものと推測できる。


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                        (曲輪Ⅱ・Ⅲの間にある堀切)

 野尻湖中の琵琶島にあるのが「琵琶島城跡」である。

 ここを訪れるには、野尻湖遊覧船に乗るか、あるいは手漕ぎボート等自力で訪れる他手段はない。遊覧船で訪れた場合、約15分間は停泊しているのでササっと見るか、あるいは約40分後に来る遊覧船を待っている間に見学する2パターンがある。

 琵琶島にある「宇賀神社」はパワースポットとしても知られ、また、宇佐美駿河守定行の墓もあることから訪れたかった場所でした。

 遺構として曲輪・土塁・堀切が確認出来る。

 
 (参考資料)
  信濃の山城と館 8 水内・高井・補遺編        宮坂武男    戎光祥出版
  

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