日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

長野県の史跡

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


  【塩名田の五輪塔】

    所在地: 佐久市塩名田


イメージ 1


 塩名田宿の南丘陵にある塩名田区共同墓地の一角に、大小25基ほどの五輪塔が安置されている。

 もともとこの地にあったものではなく、明治6年(1873)、廃寺となった長寿寺境内にあったものが移設されたものである。


 『塩名田村誌』によれば、「京極山長寿寺廃址 境内官有地、東西十七間、南北二十間三尺面積一反一畝十八歩真言宗京都府下六波羅普門院の末派なり。村の南裏にあり。創立年月不詳。中興開山僧什英。除地高六石一斗四升。維新の際上知す。無檀無住によりて、明治六年廃寺、学校となる。里老伝曰、文治中、佐藤長寿丸なる者、奥州より来り此処に歿す。里人其為一寺を創建して、長寿寺と号し、其墓とて高五尺余の大五輪一基あり、其他五輪石塁々たり。」とある。


イメージ 2


 これを信じれば、大五輪塔の一基は、文治年間(1185〜1189)、奥州から塩名田にやってきた佐藤長寿丸なる人物の墓ということになる。

 佐藤長寿丸なる人物も、長寿寺についてもこれ以上の史料は見られないことから、これ以上のことは???


 しかし、近くには海戸田(おそらくは豪族などの屋敷地に関する字名である垣内が変じたものであろう)という地名があることから、中世にこの地の豪族に関する五輪塔と考えて良いと思われる。


 (参考資料)
   佐久市の文化財                     佐久市教育委員会


  【宇佐美定行の墓】

   所在地: 上水内郡信濃町野尻琵琶島


イメージ 1


 永禄7年(1564)7月5日、宇佐美定行は坂戸城主・長尾政景を野尻湖の舟遊びに招き魚釣りをしながら、政景に「信玄と通じ、謀反を企てているとの噂がある」と話し、二心無いことを上杉謙信に披攊して身の潔白を明かすよう諫めたが、諫言に耳を貸さなかったことから、定行はかねてから用意していた漏栓を抜いた上で、背後から政景の腰帯に抱きつき、ともに野尻湖に身を投じたのであった。


 長尾政景は上杉景勝の父であり、謙信の姉婿という人物であり、上杉家の重臣であった。川中島の戦いの際には春日山城の留守を任せるなど謙信は信頼していたのであるが、かつては謙信とは争った間柄でもあった。

 宇佐美定行(定満とも)は琵琶島城主であったとされるが、その存在は疑問視される人物でもある。宇佐美氏は越後守護・上杉家重臣の家柄でもあり、若き日の健診とは争ったがその後帰順。重用された家柄である。


 さて、この長尾政景暗殺?に関しては諸説あり、その中の一つに野尻湖での溺死が存在する。しかし、政景は本当に武田信玄と通じて謀反を企てていたのかは明らかではない。
 真実は一つなのだが、その真実は闇の中である以上、深入りすることは避けたい。


 野尻湖に浮かぶ琵琶島にある「宇佐美定行の墓」は、謙信が定行の忠節に感激してその霊を弔うために、具足を島の一角に埋めて、謙信自ら教塚をたて丁重に弔ったのが、後世墓所として伝えられたものである。

 
 (参考資料)
  宇賀神社配布パンフレット
  現地案内板


   【野尻一里塚】

    所在地: 上水内郡信濃町野尻756


イメージ 1


 中仙道追分宿から分岐して越後・出雲崎宿に通じる街道が北国街道であり、脇街道含め39の宿場が整備されました。

 加賀・金沢藩、越後・高田藩の参勤交代や、佐渡の金銀を江戸へと運ぶ上で重要な街道であった。


 江戸時代初期、一里塚は江戸・日本橋を起点に一里(約3.9㌔)ごとに、主要街道に整備されました。

 北国街道の一里塚は、宿駅が確定した慶長16年(1611)頃に整備されたと考えられています。塚の上には榎や松・桜などが植えられ、旅人の行程の目安や休憩場所として利用されました。

 野尻一里塚は、直径約12m、高さ約2.6m、塚と塚の間は約17mである。

 全国的に見ても一対で残る一里塚は貴重なもので、現在は「野尻一里塚公園」として整備活用されています


イメージ 2


 国道18号線沿いにあるのですが、何気なく通り過ぎてしまうかもしれませんね。

 
 (参考資料)
  現地案内板


  【佐久間象山砲術試射地跡】

   所在地: 千曲市生萱


イメージ 1


 文化8年(1811)、信濃国埴科郡松代町字裏町に生まれた佐久間象山は江戸で遊学した後、天保13年(1842)、韮山代官・江川太郎左衛門英龍に入門して西洋砲術を学ぶ。
 と、佐久間象山の年表になってしまうので…ここは割愛させていただきます。


 嘉永4年(1851)2月、門弟とともに生萱村で五十斤石衝天砲の試射を行っている。

 石碑には「春野晴に乗じて 大砲を演ず 四林の桃杏 正に芳菲なり 一声の霹靂 天地を震わし 万樹の落花 繚乱として飛ぶ」と記されている。


 砲弾は屋代の一重山を越えて幕府領にあった満照寺に着弾したとされるが、実際には佐久間象山を快く思わない人々が地元の子供たちに駄賃を与えて一重山手前に着弾した砲弾を運びあげさせ満照寺まで運ばせたという。
 
 幕領に着弾したということで中之條代官と紛議が生じてしまい、これ以降砲演の際には届け出することを取り決めている。

 イメージ 2


 象山は坂本龍馬・吉田松陰ら多くの幕末の志士に多大なる影響を与えた人物である。

 石碑が僅かに建つのみであるが、激動の幕末を偲ぶ史跡として訪れてもらいたい地である。

 千曲市はあんずの里としても知られる地であるので、合わせて訪れてもらいたい。


 (参考資料)
  現地案内板


  【雨宮の渡し跡】

    所在地: 千曲市雨宮


イメージ 1


 永禄4年(1561)、第4次川中島の戦い(八幡原の戦い)の際、武田方の山本勘助・馬場美濃守信房の進言による啄木鳥戦法を事前に察知した上杉政虎は、密かに夜間妻女山を下り、雨宮の渡しを越えて八幡原に布陣する武田信玄本陣に突撃したとされる。

 山本勘助が信玄の軍師であったのか?(足軽大将であったことは明らかとなってきてはいるが…軍師としての役割はなかったというのが有力である。この他、軍師という役割に関しても諸説あることも考察しなければならないことである)
 また、啄木鳥戦法や車懸の陣形、政虎妻女山布陣や一騎打ちの真相など第四次川中島の戦いに関しては考察すべき諸問題は数多く残されているが、ここでは割愛することをご了承願います。


 この地は治承4年(1180)、横田河原の戦い、応永7年(1400)、大塔合戦の際にも争奪戦が行われ、その後も唐崎山城攻防戦でも重要な渡河地であったという。

 
 川中島の戦いでの逸話は幕末の儒学者・頼山陽の漢詩によって一層有名な地となる。

     鞭聲粛粛夜過河  暁見千兵擁大牙  遺恨十年磨一劍  流星光底逸長蛇

 漢詩は謙信贔屓の頼山陽が両将一騎打ちの掛け軸の図柄を見ての感動を謳ったものとされている。


イメージ 2


 (参考資料)
  現地説明版
  

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.
日本史跡研究会 
日本史跡研究会 
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(17)
  • ししん
  • yossy
  • 小頭@和平
  • 竹
  • bmw1100rs1
  • kotetsu
友だち一覧
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事