【高橋是清邸】
所在地: 小金井市桜町3−7−1(都立小金井公園内)
もともと丹波篠山藩青山家の中屋敷があった地に、明治35年(1902)、高橋是清の屋敷として港区赤坂七丁目に築かれた。総栂普請の和風邸宅ではあるが、和洋折衷の性格を持った建物である。
高橋是清自伝には、明治35年元旦のこととして、「この日、かねて赤坂表町に新築中の新宅が、玄関及び廊下を除いて、ほぼ完成したので、邸内の旧家からその方へ引っ越した。そうして家内一同新食堂にて屠蘇や雑煮を祝い、久し振りで、人間の住居らしい我が家に新年を迎えた」と記しています。
高橋是清は嘉永7年(1854)閏7月27日、幕府御用絵師・川村庄右衛門の子として江戸芝門前町(現在の港区芝大門)に生まれる。生後間もなく仙台藩足軽・高橋覚治の養子となった。
慶応3年(1867)、藩命によって海外に留学することとなるが、奴隷契約書の内容が分からないままサインし苦労したとのエピソードが残されています。
明治元年(1868)、明治維新を知り帰国。その後、書生・翻訳業・教員(この時の教え子には海軍中将・秋山真之もいる)など職を替え、明治25年(1892)、日本銀行に入行している。
大正2年(1913)、第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣として入閣。その後、原敬内閣でも大蔵大臣となるも、原は東京駅で暗殺。財政政策の手腕を評価され第20代内閣総理大臣に就任する。
その後、政界を引退するが、昭和2年(1927)、昭和金融恐慌が発生。田中義一に請われ大蔵大臣に就任。
昭和6年(1931)、犬養毅内閣の大蔵大臣に就任。犬養が5・15事件で暗殺され、斎藤実内閣が組閣した際にも留任。
昭和9年(1934)、岡田啓介内閣において自身6度目の大蔵大臣に就任している。
(高橋是清が暗殺された部屋)
時代は次第に戦争へと向かって暗い時代に突入していた。そして、昭和11年(1936)2月26日未明、事件は雪が降りしきる中、勃発する。『二・二六事件』である

元総理であり、陸軍省所管予算の削減を図っていた高橋是清。これが若き陸軍青年将校の怨みを買った。
青年将校の多くは地方の農村出身であり、当時の農村の疲弊(娘を口減らしのために売る…要するに娼婦として遊郭に売り渡す…ことが多くの農村であった)を憂い、この経済の混乱の根源として是清が怨まれた一因であったと思われる。
陸軍青年将校らは、約1400名で首相官邸の岡田啓介内閣総理大臣(生存)、斎藤実内大臣私邸(死亡)、鈴木貫太郎侍従長私邸(生存)、渡辺錠太郎陸軍教育総監私邸(死亡)、牧野伸顕前内大臣逗留地の湯河原(生存)、警察庁などを襲撃

永田町・赤坂・三宅坂一帯を占拠した。
中橋基明中尉・中島莞爾少尉が是清邸襲撃部隊を指揮した。警備の玉置英夫巡査は奮戦するも重傷を負い、是清は自宅二階で拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死した。
ニ・ニ六事件は昭和天皇にとって輔弼すべき首相・侍従長・内大臣不在という異例事態を引き起こし、自ら善後策を講じなければならない初の事例となった。(大日本帝国憲法下では天皇は輔弼すべき国務大臣の副署なくして国策も決定出来ない仕組みとなっていた)
そのエピソードが伝わっている。麹町警察署所長室には当時宮内省直通の非常電話が設置されており、事件当日の午後八時、その電話が鳴ったという。
電話に出たのは、たまたま署長をサイドカーに乗せて走る役目の巡査

「ヒロヒト、ヒロヒト…」と名乗り、巡査は「どなたでしょうか?」と訊ねると電話は切れ、再度の電話では別の男性の声で「これから帝国で一番偉い方が訊ねる」と前置きし、最初に「ヒロヒト」と名乗った人物が質問。巡査は「鈴木侍従長の生存」「総理の安否不明」と答えたという。
電話の中で「朕」という一人称を使ったことから、巡査は電話の主が昭和天皇だと理解し、体が震えたという。
また、昭和52年(1977)同月同日、昭和天皇が就寝前に側近・卜部亮吾に「治安は何もないか?」と訊ねていたという。
ニ・ニ六事件は発生から4日で収束したが、昭和天皇は「私が最も頼みとする大臣を悉く倒すとは、真綿で我が首を絞めるに等しい行為だ」「陸軍が躊躇するなら、私自身が直接近衛師団を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」と当初から青年将校を賊軍として扱っていたという。
高橋是清、ニ・ニ六事件……日本の歴史として絶対に忘れてはならないことだと思います。
がっ、是清が暗殺された部屋を見学していた人々は当時に思いを馳せないようで

日本の負の歴史とも云える昭和……本当に学校教育は基より日常教育も平和な現代に必要だと改めて感じました。
(参考資料)
江戸東京たてもの園 解説本 (公財)東京都歴史文化財団
現地解説板