日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

群馬県の史跡

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  【下里見宮谷戸遺跡】

    所在地:  高崎市下里見町字宮谷戸427−1


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 下里見宮谷戸遺跡は平成23年(2011)に発掘調査され、現在は埋め戻されて下里見公民館となっています。

 7月16日に行われた現地説明会資料によれば、

 遺跡全体を浅間軽石B(AS−B)層が30〜40cmの厚みで覆っていました。浅間軽石B(AS−B)層は天仁元年(1108)の浅間山噴火の軽石層です。

 軽石層の下から畠址が検出し、さらに下層からは古墳時代のムラの跡が確認されました。

 竪穴住居址の中には竈の残りの良い遺構があり、甕がかけられたままの状態で出土しています。甕以外にも甑や小型の土器も残され、韓式土器であることがその後の調査で明らかとなっています。


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 この遺跡最大の発見は、竪穴住居址から検出した「金床」鍛冶で使用する台です。

 日本国内では主に古墳から副葬品として出土することが多いのですが、竪穴住居址から発見されるのは初のことでした。

 金床の近くからは炉址も確認され、下里見宮谷戸遺跡のムラは鍛冶に携わった人が生活していたことが明らかとなりました
 さらに韓式土器の出土という事実から、渡来人との関わりが推測されています。


 重要な遺跡であることから、下里見公民館内に出土状況のレプリカが展示されています地域の歴史を考える上でこうした復原展示は素晴らしいと思います。
 平日でしたら、公民館も開館しておりますので、興味ある方は見学してみては如何でしょうか?


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            ( 2019.発掘調査が行われていた「下里見宮谷戸遺跡」の地層 )
 
 2019.2月まで保育園移転に伴う発掘調査が実施されておりましたが、現在では埋め戻されています。

 そちらの模様は、別トピックを致します。


 (参考資料)
  平成23年7月16日 高崎市教育委員会実施 下里見宮谷戸遺跡発掘調査現地説明会資料
 

  【池薬師水牢跡】

    所在地: 吾妻郡東吾妻町新巻1083


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 万治元年(1656)、真田伊豆守信之死去。その結果、松代・沼田領を巡って家督騒動が勃発。結果、松代は真田幸道が、沼田は真田伊賀守信直が相続することとなった。

 真田伊賀守信直が相続した沼田領は表高3万石であり、松代藩10万石を領した幸道に激しい対抗心を燃やすこととなる。

 寛文2年(1662)、信直は領内総検地を断行実高14万4000石を強引に打ち出して幕府に報告する(のちに沼田藩改易後、幕府による検地が行われ実高6万石であった)。

 この当時、幕府は申告された石高に応じて参勤交代の行列規模・御手伝普請を命じることとなっていた。さらに江戸藩邸を松代藩に負けず劣らずの豪奢な造りに改築する。

 これを満たすため領民に過酷な年貢を信直は課すこととなる。また、この虚偽申告が沼田藩改易に繋がるのであるから松代藩に対する対抗心が如何に愚かな行為だったかは明らかである。


 信直の苛政を物語る史跡は吾妻郡には多く残されている。その一つが「池薬師水牢跡」である。


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 水牢は6間(約10.8m)四方を掘り下げ深さ2尺(約60cm)ほど水を溜め、周囲に塀を巡らせ木戸を立てた牢であった。

 旧暦12月の年貢上納に際して、年貢を納められないものに対する刑罰として農民の妻子4、5人ずつ縄で縛り水牢に投獄寒中の水の中に立たせたという。

 投獄された家の者は見るに堪えず一族から金子を集め、またある者は田畑を処分して年貢を済ませ妻子を救い出したと伝わる。

 金子を集められなかったものはどうなったか?想像に易いですよね


 この水牢は天和元年(1681)8月11日、山崩れによって埋没していますが、その一部が現在残されている史跡です。

 この天和元年(1681)11月には沼田藩は改易されていることから、水牢が埋没したのが天のお告げだったのかもしれませんね。


 真田氏は非常に人気のある大名ではありますが、このような暗黒の歴史があったということも認識してほしいものです。


 (参考資料)
   現地案内板


  【茅野遺跡】

   所在地: 北群馬郡榛東村長岡字神楽師


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 榛名山東麓の台地上に存在する縄文時代後期〜晩期(約2500〜3000年前)の遺跡。国指定。

 平成元年(1989)、圃場整備事業の調査中に遺跡が確認され、平成2年(1990)にかけて調査が行われている。台地傾斜面上にあったこと、榛名山の火山灰の厚い地層によって遺構・遺物ともに良好な状態で出土しています。

 竪穴住居址や墓域、土坑址、水場状遺構といった生活の痕跡が多く発見され、当時のムラの跡が確認されている。
 また石器や土器、祭祀用に用いられたと考えられる土偶や石棒、勾玉、岩板、手燭型土製品といった遺物が検出しています。

 
 茅野遺跡で特に注目すべき遺物は、平成12年(2000)、イギリスの大英博物館に出展された577点にもおよぶ大量の土製耳飾
 この耳飾は多種多様であり、茅野遺跡から出土した土製品・石製品など計1950点が「群馬県茅野遺跡出土品」の名称で国指定重要文化財になっています


 茅野遺跡は遠隔地の素材が多量にもたらされていた遺跡であることから、縄文時代のムラとムラとの集団性の関係、物資の流通のあり方を考察する上で重要な遺跡であると言えます。

 現在、茅野公園として整備され、表面上での遺構は確認出来ませんが、縄文時代に思いを馳せることの出来る場となっています。


  【山王廃寺址】

   所在地: 前橋市総社町総社2408  日枝神社


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 天武天皇10年(681)に建立された山上碑に放光寺の僧・長利が建立した事が刻まれており、七世紀には放光寺は創建されていたことは明らかであるが、創建年は明らかではない。

 長元3年(1030)に成立した『上野国交替実録帳』によれば、定額寺である放光寺がすでに寺院の体をなしていないことから、定額寺の列から外してほしいとの申請があった旨が記されており、寺院の存続時期は11世紀頃までであったことがわかる。


 大正10年(1921)、日枝神社境内から石製塔心礎が発見され、その後の調査で石製鴟尾・塑像・緑釉陶器や瓦が出土している。


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                              (「石製塔心礎」)

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                    (日本で出土例が3例の「石製鴟尾」)

 鴟尾とは、中国の架空の動物で、火災の際に水を吐き雨を降らせる魔力を持つといわれることから、防火上の呪いとして寺院等の屋根の大棟に載せられるようになった。
 石製鴟尾で現存するものは、鳥取県大寺廃寺のものと山王廃寺の2点で3点のみという貴重な遺物である。日枝神社の石製鴟尾は角閃石安山岩で、胴部に瓦を差し込む弧状の刻みが入れてあり、金堂等主要伽藍に使用されていたものと推測されています。


 昭和49年(1974)、発掘調査が行われ、講堂と推測される遺構が検出し、昭和54年(1979)の調査では金堂と推測される遺構が検出。さらに放光寺と刻まれた瓦が出土したことにより、山王廃寺=放光寺であることが明らかとなった
 その後も発掘調査は継続され、大量の瓦や塑像が埋まった土坑が検出。塑像には焼けた痕があったことから、山王廃寺は火災によって伽藍が焼失、その後塑像が土坑に廃棄されたことも明らかとなった。


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                        (「上野国山王廃寺塔心柱根巻石」)

 日枝神社境内には、出土地・出土状況等不明であるが、輝石安山岩製7個で蓮弁を形どった柱の根元に巻きつけられた石製の装飾品もある。
 興福寺境内にも同様のものがみられる。内径98㎝、縁幅3.5㎝で、制作にあたっては高麗尺(1尺=35㎝)が使用されており、塔心礎と符合している。


 幻の白鳳寺院・山王廃寺は、発掘調査・文献史料、さらに山上碑文などの研究によって多くの知見が得られている寺院址である。
 ヤマト政権と密接な関係にあった上毛野氏の氏寺として創建されたと推定されている。


 (参考資料)
  前橋市の文化財                       前橋市教育委員会
  東国の雄 総社古墳群                   前橋市教育委員会
  現地案内板


  【長慶寺の板碑】

   所在地: 利根郡昭和村糸井      長慶寺(無住)境内


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 明治43年(1910)に行われた調査によって、正応2年(1289)建立された緑泥片岩製の板碑である。

 高さ150㎝、幅43㎝。弥陀の大種子(キリーク)の下に二十五区画を引き、各区に円輪を入れ、この中に二十五菩薩の種子が刻まれていたものと思われるが、剥落が激しく判読は定かではない。


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 今では無住の長慶寺であるが、第四世の和尚が記した惣与本縁起には、「むかし長者ありて母の供養のために阿弥陀堂を建て…」との記述があることから、鎌倉期にこの地の土豪である長者が、阿弥陀堂建立と併せて、
板碑を建立したと考えられています。


 上記から、ここ長慶寺付近が『群馬県の中世城館跡』に記載されている「糸井の内出」と推測されるが、明確な遺構は確認出来ない。
 城跡としての歴史も不明であるが、この板碑が鎌倉期のものであることから、鎌倉期に在地土豪の屋敷がこの辺りにあったことは推測可能である。


 (参考資料)
  群馬県の中世城館跡                          群馬県教育委員会
  現地案内板

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