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【大谷吉継の首塚】
所在地: 米原市下多良131
慶長5年(1600)、越前敦賀五万石領主であった大谷刑部少輔吉継は当初時流を読み、徳川家康の上杉討伐の軍に加わっていたが、石田三成との義によって西軍に参加することとなる。
西軍の参謀として諸将の裏切りを防止すべく獅子奮迅の働きを見せるも、関ケ原本戦で最終的に小早川秀秋の裏切りを察知し、戦友の平塚為広とともに松尾山に布陣した小早川勢に備える。
吉継の予想通り小早川秀秋は徳川家康に内応
その首級は吉継の甥の僧侶であった祐玄が錦の袋に入れ、敦賀へと向かうが途中の米原の地で地中に埋め隠したといわれています。
江戸時代、彦根藩士によって著された『淡海木間攫』では、この塚は水口城主・長束正家の墓であると記していましたが、昭和16年(1941)、『改訂近江国坂田郡志』第二巻で正家は関ケ原敗戦後に蒲生郡で自害しており、その首級は京都へ送られていることから、正家の首塚ではないとしています。
関ケ原の戦いから400年以上経った今なお、地元の人々によって手厚く守られ供養されています
大谷刑部少輔吉継
(参考資料)
智将 大谷刑部 池内昭一 新人物往来社
米原市遺跡リーフレット 31 米原市教育委員会
現地案内板
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