日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

山形県の史跡

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


  【上杉家廟所】

    所在地:               米沢市御廟1−5−30
   拝観料: 一般 ¥350  高校生・大学生 ¥200 小学生・中学生 ¥100


イメージ 1


 天正6年(1578)3月13日、越後国春日山城内において越後の龍と称された上杉謙信は急没。その亡骸は漆を塗り甲冑を着せられて城内に埋葬された。

 慶長3年(1598)、上杉景勝は会津120万石で移封され、それに伴い謙信の霊柩も越後から会津に移されて仮堂に安置されたという。

 慶長6年(1601)、関ケ原の戦いで西軍に与した景勝は米沢30万石に減封された。謙信の霊柩も再び米沢に移され、米沢城内に御堂を建立して霊柩を安置している。


イメージ 2
                       (米沢城内の「上杉謙信祠堂(御堂)跡」

 謙信遺骸の左右には善光寺如来・泥足毘沙門天が置かれ、歴代藩主の位牌も祀られ、城内で最も神聖な場所として厳重かつ鄭重に祀られたという。

 大乗寺・法音寺など真言宗寺院の能化衆が毎日の供養を欠かすことなく厳修し、歴代藩主も命日には精進を心掛け参拝供養したという。

 景勝の米沢入部後、現在の上杉家廟所も整備されたようであり、米沢城に一大事があった場合(戦乱や被災時)、一時的に謙信の霊柩を避難させるために設けられたという。


イメージ 3
                             (「上杉家廟所」・上杉謙信廟)

 元和9年(1623)、上杉景勝が没すると上杉家廟所に埋葬され、これ以後、米沢藩十二代藩主がここに埋葬されることとなる。

 二代・景勝から八代・重定までは火葬での埋葬であり、御堂は入母屋造りの建造物である。


イメージ 4
                          (「上杉家廟所」・上杉景勝廟)

 九代・治憲(上杉鷹山)から十二代・斉定までは土葬となり、治憲の倹約令から、構造も簡略化され材質も落とされた。


イメージ 5
                            (「上杉家廟所」・上杉治憲廟)

 なお、治憲の実子で十代・治広の養嗣子である顕孝も共に祀られている。

 また、十三代・斉憲からは東京に墓所が移されたが、十四代・茂憲は沖縄県令としての功績が讃えられたことから、沖縄県民有志によって歴代藩主廟に並んで記念碑が建立されています。

 明治6年(1873)、明治政府による廃城令に伴い、米沢城も破却されることとなり、謙信の霊柩も廟所に移されている。


 (参考資料)
  上杉謙信                  花ヶ崎盛明            新人物往来社
  上杉景勝のすべて            花ヶ崎盛明             新人物往来社
  現地配布パンフレット
  現地案内板


  【吉田大八墓】

   所在地:  天童市小路1−8−16  佛向寺境内


イメージ 1


 天保2年(1831)、天童藩織田家の江戸藩邸に生まれる。

 弘化4年(1847)、15歳で父の後を継ぎ、天童藩大目付となり、その後、武具奉行・養正館督学などの藩要職を歴任し、慶応3年(1867)、中老となる。

 大八は要職を歴任する中で、安積艮斎らに学び藩校の改革に着手。天童藩財政立て直しに努め、藩士による将棋の駒を制作することを取り入れている。今、天童市が将棋の駒の産地として著名なのは吉田大八守隆の功績であることはあまり知られていない。

 慶応4年(1868)、戊辰戦争において天童藩主・織田信学は新政府軍に与し、奥羽鎮撫使先導の大役を命じられ、中老であった大八が先導名代となる。天童藩が織田宗家であるという家格を評価されての大役であったとされる。

 官軍として天童藩は庄内へ進軍しかし、庄内藩の激しい抵抗に遭い鎮撫軍は苦戦を強いられる。

 当初、東北諸藩は奥州鎮撫軍に参加していたが、穏便に和解を図ろうとする東北諸藩と、会津藩討伐を主張する鎮撫総督との間で亀裂が生じ、鎮撫軍参謀・世良修蔵が暗殺されるという事態となり、東北諸藩は反鎮撫軍一色となったのである。

 その後、奥州各藩で結成された奥羽越列藩同盟から大八の身柄引き渡しが求められ、大八は自ら米沢藩に出頭切腹して果てている。享年37歳。


 吉田大八守隆、藩政改革を実行するなど幕末の志士として多大なる功績を残した人物であるが、あまり世に知られていない人物であると思う。
 藩命で奥羽鎮撫使先導名代となり庄内藩と交戦。その後、情勢の変化で天童藩が奥羽越列藩同盟に加担することとなると、新政府軍に加担したとして大八にその責任を一身に背負わせたのである。何とも悲劇の人物ではないだろうか?

 その大八の功績がここにきて高まるのではないかという淡い期待がある。最近の将棋ブームで天童市の将棋駒が注目されているからである。
 郷土民芸品として「天童の将棋駒」は全国に知られているのであるから、吉田大八も注目されないものであろうか?


イメージ 2


 大八の墓のある「佛向寺」。大変立派な古刹である。

 弘安元年(1287)、天童城主・天童頼泰の命によって一向上人によって建立されている。

 大八の墓は住職にお聞きしないとちょっと場所が分からないと思いますので、庫裡にお声掛け下さい。


 (参考資料)
  現地案内板


 【旧県庁舎および県会議事堂】

  所在地:       山形市旅籠町3−4−51
  入館料:            無料
  休館日: 第1・第3月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始


イメージ 1
                                (旧県庁舎)


イメージ 2
                               (旧県会議事堂)

 明治10年(1877)、初代山形県令・三島通庸によって山形県庁舎が、明治16年(1883)、県会議事堂が建設されました。

 設計は中條精一郎を顧問として田原新之助が担当し、英国近世復興様式を基調とし、渡り廊下で結ばれています。

 周囲には師範学校・警察本部・郡役所・銀行などが次々と建ち、山形中心部に相応しい街並みとなっていました。

 だが、明治44年(1911)5月、山形市北大火によって両棟ともに焼失

 しかし、同地での復興が計画され、大正2年(1913)4月、再興に着手。

 大正5年(1916)6月、完成しました。

 その後、昭和50年(1975)まで県庁舎として使用され、両棟は歴史的文化財として保存公開されています。


イメージ 3


 現在は山形県郷土館「文翔館」としてギャラリーや会議室などの利用のほか、野外ライブや結婚式など様々なことに活用されています。

 上の写真の部屋(県知事室)では、映画『るろうに剣心』の撮影に使用されています


 こんな見事な施設にも関わらず、山形市はなんと豪儀なんでしょうね。入館料無料ですよ無料

 維持費だって掛かるでしょうに。

 非常に有意義なひとときを過ごすことが出来ました山形城跡だけではなくて、こちらにも足を運んでもらいたいですね。


 (参考資料)
  現地配布パンフレット
    

 【上山藩校・明新館跡】

  所在地: 上山市鶴脛町(1)


イメージ 1


 文化6年(1809)、上山藩主・松平信行は儒学を重んじ、家臣に命じて藩の学問所である「天輔館」を設立した。

 高畠藩より武田孫兵衛を講師に招き、伊藤仁斎・荻生徂徠ら朱子学(古学派)の学説を加えて上山藩独自の学風を作っている。

 天保11年(1840)、松平信宝は米沢藩校・興譲館より神保蘭室を招き、この地に学舎を建設し、幕府儒官である林大学頭より「明新館」と改称されました。

 藩士のみならず一般庶民の希望者の入学も許可するなど江戸時代では珍しい藩校であった

 服部豊山・穴沢九斎ら米沢藩士のほか、山田政苗・本沢竹雲・五十嵐干拙・増戸庄右衛門・毛利重考・栗山道紹ら上山藩士も教鞭を取っていました

 明治4年(1871)、廃藩置県によって上山藩が廃藩となるまで教育は続いていました。


 敷地は間口18間(23.6m)、奥行24間(43.6m)あったとされ、敷地外には馬場や鉄砲場があったという。内部には、登竜門・演武場・詰所・塾部屋・教室・留間・教員詰所・上段・講堂・聖廟・文庫などの施設が連なっていたという。


 「明新館」の名称は現在、上山明新館高等学校の校名として甦っています

 石碑は上山藩武家屋敷(藩の要職者の屋敷が4軒残されています)通りである仲丁通りに面してひっそりと建っています。


 (参考資料)
  現地案内板

新橋(山形県上山市)


  【新橋】

   別  名: 新町眼鏡橋
   所在地: 上山市楢下


イメージ 1
   

 明治13年(1880)8月、山形県令・三島通庸の発案で西洋の土木技術が採用され、上山市大門地区産出の大門石という凝灰岩を用いた石造アーチ橋として竣工した。


 ※三島通庸は静岡・山形・福島・栃木の県令を歴任し、西洋技術を取り入れた建築や土木工事で実績を挙げましたが、一方で住民を無視して強引に工事を進めたことから、「土木県令」・「鬼県令」と称されました。この工事もそうした性質が垣間見えます。


 今では穏やかな流れの金山川であるが、当時は洪水が多く、何度となく木造の橋が流出していました。

 架橋費用は1000円ほど掛かり、県の補助金は僅か300円で残りの700円は住民たちが借り入れ、その後、橋を渡る人・人力車・荷車等から通行料(橋銭)を徴収し返済の一部に充てられました。


 全長14.7m、幅員4.4m。アーチの高さ約4.4m、川床部径約12m。


 明治初期の石造アーチ橋の遺構として貴重であることから、上山市指定有形文化財に指定されている他、社団法人土木学会・土木学会選奨土木遺産に認定されています。

 現在も現役の石橋として重量制限4tで地元住民に利用されています。


 (参考資料)
  現地案内板
  現地配布パンフレット

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.
日本史跡研究会 
日本史跡研究会 
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(17)
  • 富士丸GT
  • サービスエンジニア
  • えいき
  • 竹
  • yossy
  • bmw1100rs1
友だち一覧
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事