日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

埼玉県の城館跡

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]


  【中城跡】             評価  

   別   名:      猿尾太郎種直館
   所 在 地:  比企郡小川町大塚字中城
   築城年代:       鎌倉時代
   築 城 者:      猿尾太郎種直
   区   分:        丘 城
   現   状:        山 林


イメージ 1


 『新編武蔵風土記稿』増尾村古城蹟には、「村の小名中條にあり、四方二町ばかりの地にて、から堀の蹟所々に残り、また櫓の跡なりとて小高き所あり、その辺今は杉の林なりたれど、城蹟のさま疑ふべきもあらず、土人の伝へに猿尾太郎種直が居城なりといへど、何人の枝属にて、何の時代の人と云うことは伝えざれば詳ならず。」と記され、猿尾太郎種直は源義経の家臣であったという伝承が存在します。

 建武年間(1334〜1336)、斎藤六左衛門重範が居城としていたとも伝わる。


イメージ 2
                   ( 「半僧坊」が建つ地が櫓台であったとされる )

 文明6年(1474)、『太田道灌状』には、「上田上野介在郷の地、小河に一宿仕り候うところ」とあり、これが中城と推定されていることから、上田氏関連の城郭と考えられるようになってきています。

 イメージ 3


 単郭で横堀を廻らせ、二重土塁、屏風折り、食い違い虎口の特徴が見られ、戦国時代まで改修されながら使用されたと考えられる。

 また、発掘調査の出土遺物からは15世紀後半の築城と推定されています。


 『新編武蔵風土記稿』大塚村の項には、元禄11年(1698)、旗本金田丹波守がこの地を領し、陣屋を置いたことが記されており、中城のある丘陵下には陣屋沼と呼ばれる沼がある。
 
 
 この「中城跡」、実に十年ぶり(?)に訪れたのであるが、遺構が随分と見やすくなっていました保存活用が良い具合に行われているなぁと感じました。

 比企郡には「中城跡」のように遺構の残存度合いがな城館跡が多く残る地です。

 是非、時間をかけてゆっくりと散策してもらいたい地域です


 (参考資料)
  日本城郭体系 5  埼玉・東京                      新人物往来社
  改訂 歩いて廻る「比企の中世・再発見」                 埼玉県立嵐山史跡の博物館
  

  【菅谷城跡】             評価  

   別   名:    菅谷館・須賀谷旧城
   所 在 地:  比企郡嵐山町菅谷字城757
   築城年代:     平安時代末期?
   築 城 者:       畠山重忠?
   区   分:       平山城
   現   状:   埼玉県立嵐山史跡の博物館


イメージ 1


 『吾妻鏡』文治3年(1187)11月、元久2年(1205)6月の記述には菅谷の地に畠山重忠の居館があったとされているのであるが、重忠の館=菅谷館であったかどうかについては明確な史料等は確認されていない。

 菅谷の地は鎌倉街道上道、都幾川と槻川の合流点といった水陸交通の要衝であることから、鎌倉幕府有力御家人の畠山重忠が押さえていたということであろう。

 重忠は元久2年(1205)、執権・北条時政に謀反の嫌疑をかけられ、二俣川の戦いで一族郎党134人とともに討死を遂げ、館は一時廃されたとされる。


 長享2年(1488)、山内上杉顕定と扇谷上杉定正との間で須賀谷原の戦いが行われている。『松陰私語』によれば、「向河越。須賀谷旧城再興」と記されており、山内上杉顕定が扇谷上杉氏の拠点である河越城に対抗するため、廃されていた菅谷館を取り立てて再興修築したとされる。


 その後、武蔵国に侵出した後北条氏の支配下となったと考えられるが、古文書等の記録にはほとんど見られない。だが、武蔵国鉢形城〜松山城の間に位置する有力支城であったことは間違いないことだと思われる。

 天正18年(1590)、豊臣秀吉による北条征伐の際には武州松山城へ兵力を集中したためか、菅谷城は主要な防御拠点とはなりえなかったようである。その後、廃城となったのであろう。


イメージ 2
                     ( ニノ郭土塁上に建つ畠山重忠公像 )

 曲輪、土塁、空堀、虎口、三ノ郭復元掘立柱建物址、木橋といった遺構が確認出来る。

 13万㎡にも及ぶ広大な城であるが、要害性は感じられない。街道監視や兵站基地として機能をしたと考えられる。

 続日本百名城選出されているし、埼玉県立嵐山史跡の博物館を訪れる際、ゆっくりと散策するのが良いのではないでしょうか。


イメージ 3
                         ( 三ノ郭 復元掘立柱建物址 )

 (参考資料)
  日本城郭体系 5 埼玉・東京                       新人物往来社
  埼玉の館城跡                                  埼玉県教育委員会
  現地案内版


  【奈良梨陣屋跡】         評価  

   別   名:        ―――
   所 在 地:  比企郡小川町奈良梨929−1
   築城年代:     天正18年(1590)
   築 城 者:     諏訪小太郎頼水
   区   分:        陣 屋
   現   状:      八和田神社


イメージ 1


 奈良梨の地は鎌倉街道上道の宿駅として後北条氏の時代には伝馬が置かれ交通の要衝として栄えた。

 天正18年(1590)、後北条氏が滅亡すると、徳川家康が関東に入封され各地に有力家臣を配置した。

 信州諏訪の名族である諏訪氏の末裔である諏訪小太郎頼水は奈良梨10,000石(12,000石とも)で入封され、陣屋を構えて領内統治を行っている。


イメージ 2
                               ( 「堀跡」 )

 諏訪氏による奈良梨支配は短く、文禄元年(1592)、上野国総社に移封となった。

 諏訪氏の支配の痕跡は諏訪神社勧請に見られるのみであるが、一時は武田信玄によって断絶された家系がその後幕末まで続くのであるから歴史というのは面白いものである。


イメージ 3
                                ( 「土塁」 )

 かつて試掘が行われたようであるが、出土遺物からは年代を推定できるものは無かったようだ。

 遺構から戦国時代から江戸時代初期にかけて築かれたもので、堀の断面は薬研堀となっていたようである。


 (参考資料)
   小川町史                                 
   小川町の文化財                         小川町教育委員会
   現地案内版
            

  【大成館跡】                評価  

    別   名:        ―――
    所 在 地: さいたま市大宮区大成町2−402
    築城年代:        室町時代
    築 城 者:     金子駿河守大成
    区   分:          館
    現   状:        普門院


イメージ 1


 室町時代、武蔵七党の一つである村山党・金子家忠の末裔とされる金子駿河守大成によって築かれた。

 応永33年(1426)、この地を訪れた月江正文に帰依した金子駿河守は、自ら剃髪し幻公庵主と称し、大成館を寺院とし、月江正文を開基とし、山号を大成山、寺号を普門院として創建した。


 居館跡がそのまま寺院となったことから形がそのまま残されているが、遺構は残されていない。

 しかしながら、境内には「小栗忠政一族の墓」や「長崎奉行・牧志摩守義制墓」もあり(開山である金子駿河守墓や小栗上野介顕彰碑もあるようだが、未確認)、大宮駅から徒歩20分ほどであるから訪れる価値は高い城館跡だと思う。


イメージ 2
                    ( 植え込みの中にある「大成館跡」の城址碑 )

 (参考資料)
  現地案内板


  【武州松山城跡】          評価  

   別   名:       ―――
   所 在 地: 比企郡吉見町南吉見字城山
   築城年代:   
   築 城 者:
   区   分:       平山城
   現   状:        山 林


イメージ 1


 『新編武蔵風土記稿』によれば、地元の伝承として、正慶3年(1334)、新田義貞が上野から鎌倉へ攻め上る際に仮の要害を構えたとされる。

 応永6年(1399)、上田左衛門尉友直によって本格的に築城されたという。

 『鎌倉大草子』には、応永23年(1416)、上杉禅秀の乱における鎌倉六本松の戦いで松山城主・上田上野介討死と記されていることから、それ以前の松山城の歴史的存在が想定されてはいるものの、明確な史料は残されておらず、築城年代・築城者に関して詳細は不明としか言いようがありません。


 その後、上杉謙信と後北条氏の松山争奪戦が活発となると、史料的にその存在が裏付けられることとなる。

 上田氏はこの地域に大きな勢力を有しており、北条氏綱の侵攻をよく防いでいたが、天文15年(1546)、河越夜戦以降は後北条氏に抗しがたくなり、上杉憲勝・上田又次郎政広が守る松山城は落城(上田又次郎政広内応による)その後、一時は奪還に成功するものの、結局その臣下となった。

 天文21年(1552)、北条氏康は松山城の改修を行っている。


イメージ 2


 交通の要衝であった武州松山城は、しばしば激しい争奪戦が行われ、永禄4年(1561)、太田資正が松山城を攻略するが、北条氏康・武田信玄連合軍によって直ぐに奪還されている。
 永禄6年(1563)に至るまで太田北条の争奪戦が行われるも、最終的に北条氏が攻略し、上田案独斎朝直に守備させることとなる。

 以上のように争奪戦を一つ一つ列挙するときりがなくなる程である。

 北条氏がこの地をほぼ制圧すると、上田朝直は城下町を形成し、伝馬駅も整備しています。


イメージ 3


 天正18年(1590)、豊臣秀吉による北条征伐の際には、城主・上田憲定は小田原城に籠城することとなり、家臣であった難波田因幡守・木呂子丹波守らが2000余の兵で守備したが、前田・上杉・真田の大軍の前に敢無く落城した。

 徳川家康が関東に入国すると、松平内膳正家広が1万石で入封するが、慶長6年(1601)、松平左馬介忠頼の代に浜松5万石で転封となると、廃城となった。


 武州松山城は曲輪・土塁・堀切・竪堀が残る中世城郭である。訪れるならば、草木が枯れた秋から冬にかけてが最も良いであろう。

 比企郡には遺構の残存度合いの良い城館跡があることから、お薦めの地域です。


 (参考資料)
  日本城郭体系 5 埼玉・東京                          新人物往来社
  改訂歩いて廻る「比企の中世・再発見」                     埼玉県立嵐山史跡の博物館
  現地案内板

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]


.
日本史跡研究会 
日本史跡研究会 
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(17)
  • 竹
  • kotetsu
  • 富士丸GT
  • yossy
  • あおれんじゃあ
  • ししん
友だち一覧
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事