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【長野原古戦場】
所在地: 吾妻郡長野原町長野原241 長野原諏訪神社境内
永禄6年(1563)、この頃の上州は北は越後の関東管領・上杉輝虎、南は武蔵から勢力拡大を狙う北条氏康、そして西からは武田信玄が虎視眈々と進出を目論んでおり、三つ巴の様相を呈していた。
上州国衆は生き残りを図るべく、上杉・北条・武田に臣従することとなり複雑な勢力図であった。そんな中、上州一揆の首領的存在であった箕輪城主・長野業政は武田氏侵攻を食い止めていた。
西上州侵攻は業政の善戦によって食い止められていたものの、吾妻地域では武田信玄麾下の真田幸隆が鳥居峠を越えて、独自の勢力を拡大していたのである。
5月、信玄は長野原城の守りを固める様に幸隆に指示。当時、長野原城には幸隆の舎弟である常田新六郎隆永が守備している。
9月、上杉輝虎方であった岩櫃城主・斉藤越前守憲広は長野原城攻略に着手。斉藤氏重臣の羽尾城主・海野長門守幸光・海野能登守輝幸兄弟の500騎、憲広の甥である斉藤弥三郎に300騎を与え、さらに白井城主・白井長尾氏にも援軍を要請し、常田氏の籠る長野原城を攻めた。
最大の激戦となったのは諏訪神社社殿前であり、多勢に無勢の常田氏は敗退した。
その後の幸隆の岩櫃城攻略の前哨戦である長野原の戦いは、真田氏の敗北で幕を閉じることとなる。幸隆は武力による攻略の困難さを知り、調略による攻略を進めることとなる。
幸隆の調略によって、敵対していた同族の羽尾城主・海野兄弟、さらに斉藤弥三郎は内応。真田幸隆は岩櫃城攻略を果たすこととなる。
(参考資料)
現地案内板
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