|
【醍醐寺三宝院】
所在地: 京都市伏見区醍醐東大路町22 醍醐寺三宝院憲深林苑内
拝観料: 大人 ¥800 中高生 ¥600 小学生以下 無料
※ 三宝院・霊宝館・伽藍 共通拝観券
※ 春季(3/20〜5/15)・秋季(10/15〜12/10)は別途料金
大人 ¥1500 中高生 ¥1000
真言宗醍醐派大本山醍醐寺の塔頭、大本山、門跡寺院である。
永久3年(1115)、左大臣・源俊房の子で醍醐寺14代座主・勝覚が灌頂院として創建し、のちに仏教の三宝にちなんで三宝院と改めている。
康治2年(1143)、鳥羽上皇の御願寺となっている。
鎌倉末期から南北朝時代にかけて、高僧を輩出し、鎌倉幕府や朝廷・足利尊氏からも厚く保護されている。第7世・成賢死後、弟子の道教が三宝院、憲深が極楽坊(のちの報恩院)を継承したのであるが、道教が急死したことから、朝廷は憲深を三宝院門跡に任じた。このため、道教の弟子と憲深は対立することとなる。
その後、火災によって三宝院が焼失すると、憲深の弟子である定済が三宝院を再建する。だが憲深の他の弟子たちがこれに反発するなど、三宝院後継争いが続くこととなる。
その争いに終止符を打ったのは、定済の流れを汲む賢俊である。賢俊は足利尊氏の庇護を背景として、三宝院のみならず報恩院・理性院・金剛王院も支配下に置き他派を圧倒する。
賢俊死後、三宝院の急激な台頭に対して醍醐寺内部を含む内外の反発を受け光済が配流されるなどの苦難もあったものの、応安7年(1374)、足利義満が光助を室町幕府の祈祷を行う武家護持僧管領役に任じたこともあって特別な扱いを受けている。
しかし24世・定忠は義満の不興を買って醍醐寺を追放されるといった三宝院人事に幕府の介入を許すこととなった。
応永3年(1396)、第25世・満済は足利義満の猶氏となり醍醐寺坐主に任じられ、黒の宰相とも称されている。満済は足利義教の将軍擁立に尽力した人物としても知られます。満済以降、歴代院主が醍醐寺坐主を兼ねる慣習が成立している。
( 国宝「唐門」 )
応仁の乱で三宝院は焼失し廃寺同然となったが、豊臣秀吉の信任の厚かった義演によって金剛王院を三宝院と改称。慶長3年(1598)3月15日、醍醐の花見が同院裏山山麓で開催されている。
明治4年(1871)、廃仏毀釈の影響もあって門跡号は差し止められるが、明治18年(1885)、複称している。
三宝院庭園が著名ではあるが、撮影不可であるため実際に現地でご覧いただきたく思います。唐門は国宝であり、思わず唸ってしまう威厳がありますね。
三宝院玄関前の植え込みの写真ですが…分かりますでしょうか?苔むした部分、秀吉の馬印「ひょうたん」形をしているんですよ。
醍醐寺は三宝院だけではなく、多くの見どころのある寺院ですから、ゆっくり時間をかけて散策してもらいたい寺院です。
(参考資料)
現地配布パンフレット
現地案内板
|
京都府の神社仏閣
[ リスト | 詳細 ]
|
【御香宮神社】
所在地: 京都市伏見区御香宮門前町174
通称御香宮、御幸宮。伏見地区の産土神であり、神功皇后を主祭神とし、仲哀天皇・応神天皇の他6神を祀っている。神仏霊場巡拝の道82番札所。
創建の由緒は不詳であるが、当初は御諸神社と称していた。
貞観4年(862)、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むとたちまち病が癒えたことから、清和天皇から御香宮の名を賜ったと社伝は伝える。また、この年に社殿を修造したとの記録が残されていることから、創建はそれ以前ということになる。
貞享元年(1864)に北村季吟によって著された『菟芸泥赴』によれば、筑紫国香椎宮から勧請したとの記録も残されている。
文禄年間(1592〜1596)、豊臣秀吉は伏見城の鬼門の守護神として伏見城内に移設したが、慶長10年(1605)、徳川家康によって旧地である現在地に再び戻され、現在の本殿が造営されています。
(「伏見城大手門」が移築されたと伝わる表門)
明治元年(1868)、鳥羽伏見の戦いの際には、薩摩藩の本営として利用されており、幕末維新関連地である。
御香水は名水百選に選定されており、ボトル持参で取水する地元民も多い。
周辺には伏見城址並びに伏見城下町、伏見奉行所や寺田屋など多くの歴史的に訪れたい史跡も多く、一日かけて巡ることが出来る街である。
(参考資料)
新選組と幕末の京都 ユニプラン
現地案内板
|
|
【六波羅蜜寺】
所在地: 京都市東山区五条通大和大路上ル東
拝観料: 大人 ¥600 中高大生 ¥500 小学生 ¥400
西国第十七番札所、洛陽三十三ヶ所観音霊場第十五番札所、都七福神弁財天など。山号は補陀洛山。
天暦5年(951)、醍醐天皇第二皇子である光勝空也上人によって開創され、当初西光寺と称した。
現存する空也上人の祈願文によれば、応和3年(961)8月、鴨川岸に諸方の名僧600名を集めて、金字大般若経を浄書転読し、夜には大萬燈会を行い諸堂の落慶供養を盛大に営んでいる。この時をもって創建とする説もある。
空也上人死後の貞元2年(977)、高弟の中信上人によって中興され天台別院とされ、六波羅蜜寺と改称され荘厳華麗な伽藍が整備されている。
平安後期、平忠盛が六波羅蜜寺塔頭に軍勢を留め、さらに清盛・重盛の代には境内内に六波羅殿と呼ばれた平家一門の邸館がおよそ5200余建てられたという。
(「平清盛供養塔」 江戸時代造立とみられる)
寿永2年(1183)、平家没落の際、兵火によって諸堂は類焼し、本堂のみが焼失を免れている。その後、源頼朝によって再興修復されるのであるが、承久3年(1221)、承久の乱の後には近隣に六波羅探題が設置されたことによって、元弘3年(1333)、鎌倉幕府滅亡の際に再び兵火に見舞われている。
足利義詮によって修復され、豊臣秀吉の方広寺大仏建立の際には本堂が補修され現在の向拝が附設された。徳川将軍家も朱印地を与えて庇護している。
なお現本堂は貞治2年(1363)の修営である。明治以降は廃仏毀釈によって荒廃したが、昭和44年(1969)、開創1000年を記念して解体修理が行われている。
六波羅蜜寺の見所はやはり宝物館であろう。空也上人立像・平清盛坐像などはゆっくり観察していてまったく飽きが来ない。
奈良の古刹も良いが、やっぱり京都の古刹も特別ですねぇ。
(参考資料)
現地配布パンフレット
現地案内板
|
|
【恵比須神社】
所在地: 京都市東山区大和大路通四条下ル小松町125
京都ゑびす神社は西宮・大阪今宮神社と並んで「日本三大ゑびす」と称され、地元ではえべっさんの名で親しまれている神社です。
建仁2年(1202)、栄西禅師が建仁寺建立に際して、その鎮守として建立されました。
ゑびす様と云えば商売繁盛の笹がイメージされますが、ゑびす信仰の象徴である笹は元来京都ゑびす神社独自の御札の形態が広まったものです。
笹は縁起物の松竹梅の竹の葉であり、家運隆昌・商売繁盛の象徴となったとされます。
なお、このゑびす神社のお参り…ちょっと変わっています。本殿左手にはえびす様に「お参りに来ましたよ」とト
ントンして、鳥居に賽銭を投げる。
見事に入ると願い事が叶うとか。神さまに投げるのですから、こちらも優しくね。
(参考資料)
現地案内板
|
|
【六孫王神社】
所在地: 京都市南区八条町509
社伝によれば、境内は清和天皇第六皇子の貞純親王の子で六孫王と称された源経基の邸宅・八条亭の跡地であるとされ、応和元年(961)、経基が臨終の際に「死後は龍神となって邸内の池に住んで子孫の繁栄を祈るから、この地に葬るように」と遺言したという。
応和3年(963)、経基の嫡男である源満仲はこの地に経基の墓所を建立し、その前に社殿を造営したことが創建の起源であるとしています。
承久元年(1219)、源実朝が公暁によって暗殺されると、実朝の妻・本覚尼は京都に戻り、この地に遍照心院(大通寺)を建立し、六孫王神社を鎮守社としたという。
その後、戦乱によって社殿は荒廃し、経基の墓所のみが残されたという。
元禄13年(1700)、遍照心院(大通寺)の南谷上人が江戸幕府に願い出て社殿の再興が開始され、元禄14年(1701)、正一位の神階と権現号が授けられています。これは源経基が清和源氏初代に当たることから江戸幕府にとっては当然の処置であったようです。
宝永4年(1707)、社殿の再建は完了。現在残る社殿はこの時のものである。
明治元年(1868)、神仏分離令によって遍照心院(大通寺)とも分離され、明治14年(1881)、郷社となっています。
境内の石燈籠は諸大名からの寄進によるものです。こうしたところを良く見ると、意外な名が見つかるかもしれませんね。
神社仏閣の石造物はしっかりとチェックして損はありませんよ
(参考資料)
神社由来書
現地案内板
|




