日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

岐阜県の城館跡

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  【森部城跡】             評価    

   別   名:       ―――
   所  在 地: 安八郡安八町森部633
   築城年代:
   築 城 者:     河村久五郎
   区   分:       平 城
   現   状:     森部公民館


イメージ 1


 築城年代は明らかではないが、この地の土豪・河村久五郎によって築かれたとされる。

 永禄4年(1561)、織田信長斎藤龍興の森部の戦いの際、久五郎は織田信長に味方し、斎藤龍興の家臣・神戸甚助を討ち取る武功を挙げたと伝わる。

 『美濃明細記』によれば、不破壱岐守が竹鼻城の支城として森部城を築いたとされており、何らかの理由で廃されていた森部城を河村久五郎が再び取り立てたと推測される。


 城址は公民館が建っており、遺構は確認できない。安八町教育委員会が建てた城址案内板があることが救いである。

 
 (参考資料)
  現地案内板


  【岡山本陣跡】        評価  

   別   名:       勝 山
   所 在 地:  大垣市赤坂町字勝山
   築城年代:   慶長5年(1600)
   築 城 者:   本多忠勝・井伊直政
   区   分:       陣 城
   現   状:       山 林


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 慶長5年(1600)8月24日、岐阜城を攻略した東軍は、西進して美濃赤坂一帯を占拠。翌25日、軍艦であった本多忠勝・井伊直政は相談して岡山に徳川家康の本陣として定め、家康が到着するまでの約20日間、東軍諸将は岡山周辺や麓に布陣し、砦を構えて大垣城の石田三成率いる西軍と対峙している。

 9月14日、家康は33,000の兵を率いて岡山に着陣。大垣城に向けて金扇馬印・葵紋や白旗の幟旗を立てさせている。

 これに対して西軍は味方の動揺を抑えること、東軍の動向を探る意味で島左近・蒲生郷舎・明石全澄らを出陣させた。
 
 両軍は抗瀬川で交戦するのであるが、家康は岡山本陣から戦いの一部始終を夕食を摂りながら観戦していたという。

 中村一栄・有馬豊氏等の軍勢が不利となると家康は忠勝に命じて兵を引かせている。

 この戦いで勢いに乗った西軍であったが、島津義弘の岡山夜襲の進言を採ることなく、15日未明、関ケ原へと兵を向かわせる。西軍の動きを知った家康はすぐさま出撃命令を下し、関ケ原へと向かうのであった。


 また、この地は672年、大海人皇子大友皇子の壬申の乱の故地であり、大海人皇子は岡山山麓の安楽寺に戦勝祈願しており、壬申の乱勝利後に大友皇子の冥福を祈り同寺に宝物を寄進したとされています。

 そのことから、岡山山頂には「弘文天皇壬申難古跡」の石碑も存在しています。


イメージ 2


 さらに、岡山には先の大戦の際に高射砲陣地となっていた。


イメージ 3


 このように、後世に改変が加えられたことから、「岡山本陣跡」の遺構は皆無です。

 しかし、一連の関ケ原の戦いの舞台であることから、関ケ原古戦場巡りの際には外せない場所だと思います。


 (参考資料)
  戦国武将巡礼ガイドBOOK                             河出書房新社
  

   【吉川広家陣所跡】           評価  

   別   名:      ―――
   所 在 地:  不破郡垂井町宮代74
   築城年代:   慶長5年(1600)
   築 城 者:     吉川広家
   区   分:      陣 城
   現   状:      不破高校


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 慶長5年(1600)、南宮山に布陣した毛利秀元15、000の兵の先陣として吉川広家が山麓のこの地に3、000の兵を率いて陣を構えている。

 毛利本家・毛利輝元の補佐筆頭として、毛利家の存続を強く考えた広家は、主戦派の安国寺恵瓊と対立してまで不戦・徳川家康に味方することを唱えていたのであるが、恵瓊の説得の前に輝元は西軍に与してしまいます。
 家康勝利を確信していた広家は、毛利家重臣である福原広俊・宍戸元続・益田元祥・熊谷元直とともに黒田長政に密に連絡し、徳川家に内通すると毛利家の所領安堵の確約を得ています。
 また、吉川家単独でも家康に味方するとまで述べて駿府に家臣を派遣しています。さらに、開戦前日には重臣である福原広俊と粟屋氏から身内を徳川家に人質として差し出し、榊原康政・本多忠勝・井伊直政・福島正則・黒田長政からも所領安堵の約束の確認をしているほどでした。

 南宮山に布陣した毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らとの軍議の際には、先陣を申し出た長束正家を制して広家が先陣となったとされる。


 関ヶ原の戦い本戦が午前八時頃に開戦されるも、広家はまったく動こうとはしなかった。安国寺恵瓊は椎野道季を広家のもとに派遣し出陣を促すも、広家は「坊主に戦の何が分かるか?」と追い返してしまいます。
 さらに、長曾我部盛親・長束正家からも出陣の催促が届くも、「霧が濃くて道が見えないから、霧が晴れたら攻める」といって出陣を拒否。
 毛利秀元からも出陣命令が届くが、「これから行厨を食べる」と言って拒否している。

 そうこうしている内に、石田三成から一斉攻撃の合図である狼煙が上がります。この際にも秀元は南宮山を下りようとするも、広家は「まだ早い」といって押しとどめています。

 長宗我部盛親が直接毛利秀元の陣を訪れて出陣要請をしたところ、困った秀元は「今は兵が弁当を食べているから出陣出来ないんだよぉ」と答えたことから、宰相殿の空弁当と呼ばれるようになったとされる。


 広家が南宮山に布陣している諸将を押しとどめている内に、小早川秀秋が松尾山から下りて東軍に呼応大谷刑部・宇喜多秀家・石田三成の諸隊は総崩れとなって西軍の敗北が決定した。
 
 広家の行動は南宮山に布陣した諸将には非常に迷惑だったに違いない。戦うことなく敗れ去り、安国寺恵瓊は逃亡の上捕らえられて斬首。長宗我部盛親は土佐を失い浪人となり、長束正家は居城・水口岡山城に逃れた後に降伏するが切腹している。


 さて、徳川家康は毛利輝元が西軍の総大将となっていたこともあり、広家との約束を反故にし、毛利家120万石を30万石に減封の上、輝元を追放し、30万石は広家に与えようとしました。
 広家は家康と談判。「自分は毛利家のために内通した。しかし、毛利家が滅んでは意味がない。毛利家存続が叶わないならば、自分を輝元同様の処分とするよう」嘆願したという。

 その結果、慣例であれば改易されるべき毛利家は周防・長門36万石で存続することとなり、広家も岩国3万石と減封されている。


 広家は父・吉川元春から幼少の頃にうつけものと叱られていたという。うつけものとは暗愚な人物との意味ですが、広家はどちらかといえば織田信長がうつけものと称されたように常識にとらわれない人物という意味でのうつけであったとされます。
 この広家の活躍?が結果的には徳川家を幕末に滅ぼす一因となったわけですから、家康も東照宮から「あ〜っ、やっぱりあの時に毛利家を滅ぼしておくべきであったかぁ」と思ったことでしょうね。


 (参考資料)
  現地配布パンフレット
  現地案内板


  【松平忠吉・井伊直政陣所跡】          評価  

   別   名:          ―――
   所 在 地:  不破郡関ケ原町関ケ原908−3
   築城年代:      慶長5年(1600)
   築 城 者:      松平忠吉・井伊直政
   区   分:          陣 城
   現   状:          東首塚


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 慶長5年(1600)、武蔵忍10万石・松平忠吉率いる3000の兵、上州高崎12万石・徳川四天王の一人である井伊直政率いる3600の兵がこの地に布陣している。

 直政には菅沼次郎右衛門・松倉重政・関一政・坪内利定・坪内家定・坪内正定・坪内安定・寺沢広高らが付き従っています。

 午前八時頃、軍監・本多平八郎忠勝より開戦を促され、先鋒の役を獲得していた福島正則軍の脇を抜け駆け、正則の家臣・可児才蔵に、先陣の指名は井伊隊ではないと牽制されるも、「忠吉様の物見なり」と返答して宇喜多秀家隊に向かい鉄砲を撃ちかけた。

 常に徳川軍の先陣を務めていた直政の意地であり、「秀吉の遺臣ばかりが敵を討てば、関ケ原の勝利は徳川のものでなくなる。是非とも我等が馳せ向かって勝負を決したい」と家康に進言したという。


 この宇喜多陣へ放った銃声が、合戦開始の合図となって激戦が繰り広げられることとなった。この後、宇喜多隊とは交戦せず、本多隊とともに島津隊と交戦している。

 最終決戦後、退却する島津義弘勢を猛追して、島津豊久を討ち取っている。この際の島津勢の決死の奮戦で、直政は肩に銃弾を受けて落馬してしまう


 直政は負傷しながらも毛利輝元との講和・山内一豊の土佐入国援助などの戦後処理に奔走。近江佐和山18万石に加増されるが、この時の傷が原因となって慶長7年(1602)、42歳で没した。

 一方、忠吉は尾張清洲52万石に加増されるも、忠吉も直政同様に関ケ原で受けた傷がもとで慶長12年(1607)、28歳という若さで没している。


 井伊の赤備えがこの地に布陣し奮戦したからこそ、関ケ原の戦いが徳川の戦いと認識されるのである。その代償は大きく、直政・忠吉はその後を嘱望された存在であったが両名ともこの世を去っている。

 
 (参考資料)
  現地配布パンフレット
  現地案内板


  【細川忠興陣所跡】         評価  

   別   名:        ―――
   所 在 地: 不破郡関ケ原町関ケ原811−104
   築城年代:     慶長5年(1600)
   築 城 者:     細川越中守忠興
   区   分:         陣 城
   現   状:         公 園


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 慶長5年(1600)、丹後宮津(飛び地:豊後杵築)18万石領主・細川忠興は5400の兵を率いてこの地に布陣している。

 本戦前に西軍によって正室・玉子(ガラシャ)を自害に追い込まれ、さらには父・幽斎の居城である田辺城も西軍によって攻撃されていることから西軍(三成)憎しの思いは強かったと思われる。
 また、豊臣恩顧の大名からも細川家は一目置かれた存在であったことから、いち早く徳川家康に付き従った忠興の決断は他の大名の判断にも少なからず影響を与えたとされる。

 開戦後、忠興は丸山に陣取った黒田長政とともに笹尾山に陣取った石田三成隊を攻撃。首級136を挙げたとされます。

 戦後の論功行賞では豊前中津33万9000石と豊前杵築6万石の計39万9000石となった。


 近年、関ケ原の陣所巡りが盛んとなり、新たに設置された「細川忠興陣所跡」石碑。こうなると、明石全澄陣所跡などさらにマニアックな陣所跡の石碑も欲しいところではある。

 だが、近年の研究では関ケ原の戦いに関して現在の通説は間違いであり、実際には小規模かつ陣所の場所なども異なるなどの説が有力となっている。

 現在の通説は江戸時代に流布したものであり、一次史料の精査が今後行われ、いずれは関ケ原の戦いの史実が書き換えられる可能性が高いのではないだろうか。


 (参考資料)
   現地配布パンフレット
   現地案内板

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