日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

岐阜県の史跡

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  【竹中伝六喜伯の墓】

  所在地: 羽島市竹鼻町2803−1  竹鼻別院境内


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 宝暦4年(1754)、幕命による薩摩藩が実施した木曽三川改修の御手伝普請を監視するため、同年2月、この地に赴任し、一の手普請場(現在の羽島市中・南部)に属して御小人目付となった。庄屋・太田八右衛門方に止宿して工事に精励している。

 一の手普請場の第一期工事は3月には完成。逆川締切などの第二期工事も木曽河口締切など難工事が相次ぎ、工事は天候や人為的な妨害によって遅々として進まなかったが年内に完了し、検分を待つのみであった。

 宝暦5年(1755)正月13日、竹ヶ鼻村の止宿先旅館・藤丸屋平右衛門方に於いて刺刀で突然自刃を遂げている

 この自刃騒動は幕府方役人二人目のことであり、自刃した理由は遺書も残されておらず不明であるが、若干二十九歳という若さ・役目柄から考えると、恐らくは監督上の責任を負ったものと思われています。

 竹中別院の過去帳には、その後年回供養が、竹ヶ鼻村庄屋ならびに藤丸屋によって長く続けられていたと記されています。

 墓には「春光院釈法善 宝暦5乙辛歳正月13日」、「武州江戸本郷元町住竹中伝六喜伯墓 行年29歳」と刻まれています。


 木曽三川改修御手伝普請では、薩摩藩だけでなく幕府役人方にも自刃者が多く、幕府側から理不尽な扱いが行われていたようである。
 これをお家のため、主君のためと耐えていたが屈辱に耐えられずに自刃したもの。怪我を負い満足な手当てすら受けられぬまま病死するものが多数いました。

 現在でも薩摩藩の治水工事は【宝暦の治水】として地元民からは称賛されていますしかし、その陰ではこうした多くの犠牲があったことを忘れてはなりません


 (参考資料)
  現地案内板


  【春王・安王の墓】

   所在地: 不破郡垂井町垂井1482


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 京都の足利将軍が関東の統制のために親族を鎌倉へ赴任させたのが鎌倉公方であり、その鎌倉公方を補佐したのが関東管領である。

 当初はうまく機能していた鎌倉府でしたが、関東管領・上杉氏の勢力は次第に鎌倉公方を凌ぐほどとなっていきました。その結果、関東管領・上杉氏は鎌倉公方・足利氏というよりは京都の室町幕府の意向に従うようになっていきます。

 応永16年(1409)、足利持氏が鎌倉公方に就くと、応永22年(1415)、関東管領・上杉氏憲(禅秀)を隠退させ、翌応永23年(1416)、上杉禅秀の乱によって上杉氏の勢力を削いでいる。

 応永30年(1423)、室町幕府4代将軍・足利義持が後継者を定めることなく没すると、持氏は自身が将軍の座を目論んだが、今川範政らが持氏を討伐したことで持氏は幕府に謝罪するのであった。

 だが、足利義満の五男・足利義教がくじ引きで室町幕府第6代将軍となると、持氏の野心は再び湧き上がり、永享10年(1438)、関東管領・上杉憲実との間に永享の乱が勃発するのである。

 幕府は今川範忠らを憲実の援軍として派遣。永享11年(1439)、持氏方は敗れて持氏は自刃している。


 足利義教は鎌倉公方に自らの子を就けようとするが、密かに日光へと逃れていた持氏の遺児である足利春王丸・足利安王丸は、永享12年(1440)、結城氏朝によって擁立され挙兵する。世にいう結城合戦である。

 しかし、この反乱も幕府軍、関東管領・上杉氏憲、上杉持房によって鎮圧され、嘉吉元年(1441)、捕虜となった春王丸・安王丸は京都に護送されるのである。

 そして、将軍・足利義教の命によって、ここ垂井・金蓮寺において斬首されてしまいます春王丸、享年13。安王丸、享年11。

 その首級は京都で晒された後、垂井の地で埋葬されました。右の宝篋印塔は乳母のもの、左の宝篋印塔が春王・安王のものとされます。

  夏草や 青野が原に咲くはなの 身の行衛こそ 聞かまほしけれ    春王丸

  身の行衛定めなければ 旅の空 命も今日に限ると思へば        安王丸


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 また、この地は慶長5年(1600)、関ケ原の戦いの際に、三河・吉田15万2千石領主・池田輝政が4,500の兵を率いて布陣した場所です。

 南宮山に布陣した毛利秀元らに備えています。福島正則と先陣争いをしていた輝政ですが、岐阜城攻城戦において多くの死傷者が出たことから、後方への備えとなったとされます。

 本戦においては目立った活躍は見られず、長束正家・長宗我部盛親らが戦場から離脱する際に追い討ちをかけた程度に終わります。しかし、岐阜城攻略などの功績によって、戦後は播磨・姫路52万石を与えられています。


 関東から遠く離れた垂水町に「春王・安王の墓」があるのは驚きであり、この地に池田輝政が布陣した時、どのように扱われたのであろう?と不思議にも思いました。当時も室町時代の悲運が伝わっていたのでしょうか?

 
 (参考資料)
  関東公方・足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏     田辺久子     吉川弘文館
  現地案内板


  【決戦地】

   所在地: 不破郡関ケ原町1202


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 慶長5年(1600)9月15日、関ケ原の戦い本戦の火蓋は切って落とされた。

 井伊直政・松平忠吉の物見と称した突出により、戦線は開かれている。宇喜多秀家勢の先鋒である明石全登の奮戦、石田三成勢の島左近の奮戦によって午前中は西軍有利の展開で進んだと云われている。

 これは徳川家康も予期せぬことであったようで、自身の爪をかじる癖が見られたとされる。

 しかし、小早川秀秋の裏切り(実際はすでに内応済であったのだが、これまた思いもよらぬ西軍の奮戦に秀秋の決心が鈍ったとされる)によって状況は一変

 小早川隊に呼応する形で赤座直保・小川祐忠・朽木元綱・脇坂安治が平塚為広・大谷吉継隊に攻め寄せたことで、平塚為広・大谷吉継隊は壊滅。宇喜多・小西隊も崩れ始めることとなり、一挙に東軍有利となっている。


 笹尾山に陣取っていた石田三成勢に対して、東軍諸隊が殺到三成の首級を狙って、関ケ原の戦い最大級の激戦がここで繰り広げられたという。


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          (笹尾山・三成陣所跡から見た決戦地。写真左に「決戦地」の石碑が建つ)

 石田隊はこの地で最後まで食いとどまり、島左近の奮戦ぶりはすさまじいものであったという。しかし、左近討死との報で石田隊も東軍の猛攻を食い止めることは叶わず、三成は伊吹山目指して落ち延びることとなりました。

 笹尾山眼下に広がる場所で激戦は繰り広げられたかと思うと感慨深いものがありますね。


 (参考資料)
  続 戦国武将ぴあ 縁の地と古戦場名城をたずねる旅                ぴあ
  現地配布パンフレット
  現地案内板


  【垂井一里塚】

    所在地: 不破郡垂井町日守121−2


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 慶長9年(1604)、徳川家康は、街道整備のため、全国の主要街道に一里塚の設置を命じた。江戸・日本橋を基点として一里(4㌔弱)ごとに、五間(約9m)四方、高さ一丈(約3m)、頂に榎を植栽した塚を街道を挟んで二基ずつ築かれた。江戸から数えて112里目の一里塚である。

 旅人にとって、人夫や馬を借りるのに里程を知り、駄賃を定める目安となり、木陰は格好の休所となっていた。

 現在、「垂井一里塚」は南側の一基がほぼ完全に残されている。国指定史跡である一里塚は「志村一里塚」と「垂井一里塚」の二ヶ所であり、交通史上重要な遺跡である。

    「志村一里塚」についてはこちら   https://blogs.yahoo.co.jp/tsjqu183/14474560.html


 またこの地は慶長5年(1600)、関ケ原の戦いの際、南宮山に布陣した毛利秀元率いる15000の兵への備えとして、甲斐府中16万石領主の浅野幸長が6500の兵を率いて布陣した場所でもある。

 幸長は池田輝政とともに、最後まで毛利勢を牽制し、長束正家・長宗我部盛親が撤退を開始すると追撃をしています。


 ここを訪れた際、丁度タレントでカンボジア代表のマラソンランナー・猫ひろし氏が町で開催された(と思われる)マラソン大会に参加していた。運よく、彼が走ってきたので、記念撮影させていただいた。
 大会運営中であったので、一里塚の撮影は早々に済ませることとなったが、彼の人柄の良さを感じることが出来た訪問であった。


 (参考資料)
  現地案内板
 

  【大垣船町川湊】

   所在地: 大垣市船町1−30 ほか


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                  (国指定名勝である「大垣船町川湊」のいち風景)


 慶長年間(1596〜1614)、船町が整備されている。

 元和3年(1617)、大垣の商家・谷家らが船問屋を開始。次第に川湊としての機能を整える。

 寛永3年(1626)、幕府御用の役船が十四艘と定められる。

 寛永12年(1635)、大垣藩は船作事場を設置している。

 貞享元年(1684)、松尾芭蕉はこの地から『野ざらし紀行』の旅で桑名へ向かっている。

 元禄2年(1689)、芭蕉がこの地で『奥の細道』の旅を結び、ここから伊勢へ向かっている。

 明和8年(1771)、常夜燈(船町中組常夜燈)が建立される。

 天明3年(1783)、大垣藩が船改番所を設置する。

 天保11年(1840)、高燈籠(住吉燈台)が建立される。


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 江戸時代、大垣城下の水門川から揖斐川を経て、桑名宿へと至る重要な川湊として栄えました。

 幕末、土砂の堆積によって水運には支障が出たようですが、明治になると大垣―桑名間を結ぶ蒸気船まで巡航するほどでした。

 昭和初期には年間1万隻もの船が行き来したとも云われています。

 
 水門川周辺は遊歩道がしっかり整備されており、散策には良い場所です。桜が咲き誇る季節には多くの花見客でさらに賑わうことだと思います。


 (参考資料)
  現地配布パンフレット
  現地案内板

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