【野田市鈴木貫太郎記念館】
所在地: 野田市関宿町1273
入館料: 無 料
休館日: 月曜日(祝日の場合は開館)、年末年始
昭和38年(1963)、終戦時の内閣総理大臣として活躍した鈴木貫太郎の業績を広く紹介するために、鈴木貫太郎旧宅の隣に開館しました。
館内には、書簡類や戦後の日記、貫太郎愛用の品々が展示されています。
鈴木貫太郎は慶応3年(1867)、和泉国久世村(現在の大阪府堺市)に生まれます。
その後、関宿に移住し(前橋にも移住)、海軍へ入隊。
明治27年(1894)、日清戦争の際には、旅順・威海衛攻略に水雷艇長として参加。明治38年(1905)、日露戦争の際には、日本海海戦に第四駆逐艦隊司令として参加するなど海軍内で次第に頭角を現しています。
大正時代には、第二艦隊・第三艦隊司令長官、呉鎮守府司令長官を歴任し、大正12年(1923)、海軍大将に任命され、翌年には第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官に補せられています。
昭和4年(1929)、侍従長となり、枢密院顧問官も兼任するなど昭和天皇の信頼も厚かった。
そして、昭和11年(1936)2月26日、2・26事件では安藤輝三陸軍大尉ら青年将校に侍従長官邸が襲撃される

銃撃されるも一命をとりとめています。
昭和20年(1945)4月、小磯国昭内閣は前月の硫黄島玉砕、そして沖縄への米軍上陸を受けて総辞職したことによって重臣会議が行われ、鈴木貫太郎に組閣の大命が降下するのである。
鈴木貫太郎内閣は7月、ソ連に終戦斡旋依頼をするが拒否され、8月6日には広島、次いで9日には長崎に原子爆弾が投下。さらに8日には突如としてソ連が対日宣戦布告するなど難局続きであった

14日、御前会議によってポツダム宣言受諾が決定されると、鈴木貫太郎内閣は総辞職。
鈴木貫太郎内閣は終戦のための内閣であり、その期間は陸・海軍の意地(つまりが国体の保持)との内部の戦いの日々であった。
敗戦必死の状況であったにもかかわらず、本土決戦を主張する軍部との争いには目を見張るものがある。竹やりや風船爆弾という『大和魂』…精神論での戦争続行を主張した軍部を抑えることが如何に困難であったか窺い知ることは出来ない。
昭和23年(1948)、関宿の自宅で81歳の生涯を閉じています。
野田市関宿台町にある「実相寺」境内の「鈴木貫太郎墓」。
内閣総理大臣を務めた人物の墓とは思えないほど質素な墓である(我々一般市民と同様のお墓っす)。
平成の現在、大戦前夜のような状況と同じような社会情勢となっており、現内閣も戦争へと向かっているようにも感じる。
軍備(防衛費)の増大、テロ防止法案など昭和と似たような状況になってはいないか?また、自由民主党に対抗しうる政党がないことは、軍部に対抗できなかった政党と似てはいないだろうか?
平和ボケしている現代の我々を見て、先の大戦で命を奪われた人々はどのように感じるであろうか?
今、この時に戦争というものを経験していない我々が悲惨な戦争というものを再び考えなければならないと通説に思う。
幸いにも昭和遺産(戦争遺産)として各地で様々な遺跡が存在している

広島・長崎が代表的であろうが、ロタコ(山梨県南アルプス市)、爆弾池(大分県宇佐市)といったものも知られるようになった。また、日出町の回天練習場や鹿児島県の知覧航空基地跡なども良い例であろう。
今後も本ブログで戦争遺跡を訪れた際には積極的に

したいと思う。
(参考資料)
昭和天皇側近たちの戦争 茶谷誠一 吉川弘文館
現地配布パンフレット