日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

大分県の史跡

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  【法垣遺跡】

   所在地: 中津市加来810−1外


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 平成23・24年度に道の駅「なかつ」整備事業に伴い、発掘調査が行われています。

 縄文時代・古墳時代・古代・中世の複合遺跡。

 縄文時代の地層から竪穴住居址・掘立柱建物址が検出し、大量の土器や一体の人骨が検出しています。また、古墳時代の住居址27、平安時代の溝跡が検出しています。

 詳細は発掘調査報告書を入手してみないことには???な部分がありますが、平安時代の溝跡は長さ600m・深さ2mであり、当時の有力者の館跡であった可能性もあるようです。


 周辺には黒水遺跡(縄文時代の陥穴址)、ボウガキ遺跡(縄文時代貝塚址)などがあり、縄文時代の狩猟・漁労生活が想像される。
 縄文時代は比較的安定していた時代とされるが、気候など不安定要素もあったことから、この法垣遺跡がどの程度の期間存続していたのであろうか?

 こうした遺跡について一つ一つ周囲の遺跡との比較などから考察するのが考古学。

 今後はこうした遺跡についてもしっかりと遺構・遺物など見ていきたいと思います。


 (参考資料)
  現地配布パンフレット
  現地案内板


  【勝海舟・坂本龍馬宿泊の地】

   所在地: 大分市南鶴崎3−4


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 文久4年(1864)2月14日、勝海舟・坂本龍馬は前年に起こった長州藩による外国船打払い(所謂攘夷)による諸外国からの報復行動を抑えることを幕命として携え、オランダ総領事・ポルスブルックに長崎で交渉するために大坂を出航

 翌15日、佐賀関に入港、徳応寺に宿泊。16日には鶴崎に至り宿泊しています。

 『海舟日記』には、「二月十六日豊後鶴崎の本陣に宿す、佐賀関より五里、此地、街市、可なり、市は白滝川に沿う、山川水清し、川口浅し」と記されています。

 鶴崎で海舟は「大御代はゆたかなりけり 旅枕 一夜の夢を 千代の鶴崎」という句を詠んでいます。


 現在、勝海舟・坂本龍馬宿泊の地の立て札が鶴崎小学校と鶴崎高校に挟まれた思索の道に建てられています。


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 また、毛利空桑記念館にほど近い場所には勝海舟・坂本龍馬の銅像が建っています。


 オランダ・アメリカ・イギリス・フランスの四国連合艦隊下関砲撃は勝海舟・坂本龍馬の交渉によっても止められることはなく、元治元年(1864)8月に勃発しています。
 激動の幕末という時代、勝海舟・坂本龍馬の足跡は大分市内にもしっかりと残されていました。


 (参考資料)
  おおいた文化遺産 市内探索マップ
  

  【臼杵大仏】

   所 在 地:       臼杵市深田804−1 
   拝 観 料:  大人 ¥540  小人 ¥260
   拝観時間:       06:00〜19:00


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                              (ホキ石仏第二群)

 磨崖仏造営の時期・事情を証する史料は一切残されていない。この地に伝わる「真名野長者伝説(炭焼き小五郎伝説)」によれば、亡くなった娘の菩提を弔うために長者が彫らせたとされており、用明天皇が登場することから。6世紀後半のことと考えられている。
 しかし、実際の磨崖仏は、仏像様式から大部分が平安時代後期、一部は鎌倉時代の作と推定されています。

 その後、磨崖仏の存在は山岳仏教の衰退によって忘れ去られ、1000年の風雨に曝され続けた。もともと磨崖仏は阿蘇山の火砕流が溶結した凝灰岩に刻まれていたことから脆く、参拝者によって自然に出来た道が大雨の際には川となり石仏を削り取ったと考えられている。
 現在、多くの石仏の下半身が切り取られたように無くなっているのはこの為だと思われる。

 大正2年(1913)、京都帝国大学教授・小川琢治による調査を経て、昭和38年(1963)、保存工事が終了。

 さらに平成5年(1993)、古薗石仏群大日如来像の仏頭がもとの位置に復元され、翌平成6年(1994)、保存修復工事・覆屋工事が完成。平成7年(1995)、国宝に指定されています。


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                                (古園石仏群)

 大分県には磨崖仏は数多あるので、訪れたからには一つは実際に目にしたいという思いから「臼杵石仏」を訪れた。

 誰がどのような目的で磨崖仏を建立したのかは不明であるが、実に見事なものであった。日本の仏像史を考える上でも貴重な遺産であり、国東半島の磨崖仏も見たかったなぁと今更ながら思う。


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  (参考資料)
   現地配布パンフレット
   現地案内板


   【増田宗太郎先生生誕之地】

     所在地: 中津市弓町


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 増田宗太郎…この名を知っている人はかなりコアな歴史好きに違いないでしょう。司馬遼太郎『翔ぶが如く』を読んだ方ならば、中津隊長といえばご記憶にあるかな?

 嘉永2年(1849)、中津藩下士・増田久行の嫡男として生まれました。母は九州国学の三大家の一人で、平田篤胤直系の弟子である渡辺重名の娘。父は儒学者・福沢百助の妻のいとこということから、宗太郎は福沢諭吉の再従兄弟の関係にあり、福沢家とも程近くに住んでいました。

 安政4年(1857)、渡辺重名の孫である渡辺重石丸が始めた国学塾・道生館に入学し、平田篤胤系の国学を学び尊王攘夷思想を抱いていた宗太郎は、明治3年(1870)、上京し新政府の文明開化・開国和親の方針を確認し、新政府に幻滅と深い憎悪の感情を抱くようになった。

 同年10月、福沢諭吉が中津に帰ってくると、西洋かぶれの諭吉を嫌い同志を募り暗殺計画を立て、諭吉の家を訪ねますが計画は失敗(諭吉はこれを察知し訪れた服部五郎兵衛と夜通し酒を呑んだといいます)。

 明治4年(1871)、中津皇学校を開設するも、明治5年(1872)、旧中津藩校・進脩館と合併されてしまい、上京して存続を求める建白書を提出しているが失敗。

 明治6年(1873)、教部省から若狭国遠敷郡若狭彦神社宮司兼大講義の任を拝命するも、着任前に摂津国住吉神社小宮司へ転任される。
 この頃、宗太郎は倒薩計画を立てていたようでこれが露見。中津に帰郷後に自首し、久留米で謹慎。間もなく赦免され中津に戻った。

 明治7年(1874)2月、佐賀の乱が勃発すると、宗太郎は中津に帰り中津士族を統合して数百名の部隊の編成に成功江藤新平に合流しようと佐賀に赴くも、既に乱は鎮圧されていました


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                      (中津城跡に建つ「西南役中津隊之碑」)

 宗太郎は自由民権運動結社・中津共憂社を結成。土佐・立志社の板垣退助は林有造を派遣してこれを祝っています。

 明治9年(1876)、福沢諭吉の慶応義塾に入学するも、数ヶ月で母の病のために帰郷。大分県最初の本格新聞である田舎新聞を週刊で創刊。社長・村上名田長のもと、宗太郎は編集長となり、自由民権・主権在民を訴えています。

 明治10年(1877)2月14日、薩摩の西郷隆盛・桐野利秋らが挙兵しかし、3月20日、田原坂の戦いで薩摩軍は敗れ去る。

 そして、薩軍旗色悪しという中の3月31日、増田宗太郎は「人民天賦の権利を回復し」と檄文を飛ばし、同士64名と中津隊を結成。中津支庁・大分県庁を襲撃し蜂起したのである。
 4月5日、熊本阿蘇郡で西郷軍と合流を果たし、以後各地を転戦するが、戦局は好転することはなく、8月15日、最後の激戦・和田越の戦いで敗れた西郷は、翌16日に薩摩軍の解散令を下している。

 西郷ら敗残兵は薩摩へ戻ることとなり、宗太郎は中津隊残存者に「薩軍は鹿児島に向かう。われわれ中津隊の役目は済んだ。ここから(宮崎県高千穂町)北すれば、故郷の豊前に帰ることが出来る。ここから中津へ帰れ」と告げ、増田だけは薩軍に留まろうとした。
 これに対し道理に合わないとの反発されると、涙を流しながら「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」と告げたという。

 9月1日、西郷らは城山に立て籠もり、4日、宗太郎は米蔵への夜襲で戦死したとも、捕らえられ9日斬首されたとも伝わる。享年26。


 宗太郎を突き動かした思想とは何だったのであろうか?司馬遼太郎氏は『翔ぶが如く』の中で、福沢諭吉仕込みの英国風人権天賦論があったに相違ないとしている。
 諭吉も反対党を許さない政権を憎悪し、その意味から西南役を評価している。その中に宗太郎以下中津隊がいたことに満足している。


 福沢諭吉旧宅を訪れた際に、出会った人がNHK大河ドラマ「西郷どん」の準備にために宗太郎生誕之地を教えて下さった。これも一瞬の出会いであったが、出会っていなければ増田宗太郎について知ろうとはしていなかっただろうから、貴重な出会いであった。


 (参考資料)
  現地案内板


   【竹中重利墓】
  
     所在地: 大分市荷揚町6−9  浄安寺境内


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 竹中重利は永禄5年(1562)、竹中重元の弟・竹中重光(または竹中重広)を父として生まれた。竹中半兵衛重治の従弟(または甥)であり、正室は重治の妹を娶っていることから義弟にもなる。

 重利は重信・重義・隆重・重隆とも言い、通称は竹中源助と名が多いことでも知られている。

 美濃・長松城3000石を領し、重治死後は豊臣秀吉の直臣となっています。

         長松城跡は此方  https://blogs.yahoo.co.jp/tsjqu183/14773191.html

 天正18年(1590)、小田原の役では秀吉の馬廻組頭として参陣。その後の朝鮮出兵にも2回渡海しています。

 文禄3年(1594)、豊後高田13,000石で大名の列に加わり、従五位下・伊豆守に叙任されている。

 慶長5年(1600)、関ケ原の戦いの際、当初は西軍に与し上方に兵を派遣しているが、黒田官兵衛孝高が1万の兵を率いて居城・高田城に迫り、東軍への加担を求められる。

 重利は「準備が整うまで待って欲しい」と返事するが、孝高は「非常事態に言語道断。時間を稼いで背後を衝くならそれでも良い。今は亡き半兵衛殿との誼がある故、味方になるよう勧めたのに、仇で返すというなら全軍で攻め寄せる」と脅迫めいた説得を行った結果、嫡男・重義に200名の兵を預け孝高の元に参陣させている。

 この判断が徳川家康に認められ所領安堵されたのであった。

 慶長6年(1601)、豊後・府内城35,000石に移封となり、城の大改修を行い、港や城下町整備を進めて大分市の発展の基礎を築いている。

           府内城跡は此方 https://blogs.yahoo.co.jp/tsjqu183/14952537.html

 元和元年(1615)、54歳で死去。戒名は「春岩院殿逸峯玄俊大居士」。


 (参考資料)
  戦国人名事典              安部猛 西村圭子 編          新人物往来社

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