【増田宗太郎先生生誕之地】
所在地: 中津市弓町
増田宗太郎…この名を知っている人はかなりコアな歴史好きに違いないでしょう。司馬遼太郎『翔ぶが如く』を読んだ方ならば、中津隊長といえばご記憶にあるかな?
嘉永2年(1849)、中津藩下士・増田久行の嫡男として生まれました。母は九州国学の三大家の一人で、平田篤胤直系の弟子である渡辺重名の娘。父は儒学者・福沢百助の妻のいとこということから、宗太郎は福沢諭吉の再従兄弟の関係にあり、福沢家とも程近くに住んでいました。
安政4年(1857)、渡辺重名の孫である渡辺重石丸が始めた国学塾・道生館に入学し、平田篤胤系の国学を学び尊王攘夷思想を抱いていた宗太郎は、明治3年(1870)、上京し新政府の文明開化・開国和親の方針を確認し、新政府に幻滅と深い憎悪の感情を抱くようになった。
同年10月、福沢諭吉が中津に帰ってくると、西洋かぶれの諭吉を嫌い同志を募り暗殺計画を立て、諭吉の家を訪ねますが計画は失敗(諭吉はこれを察知し訪れた服部五郎兵衛と夜通し酒を呑んだといいます)。
明治4年(1871)、中津皇学校を開設するも、明治5年(1872)、旧中津藩校・進脩館と合併されてしまい、上京して存続を求める建白書を提出しているが失敗。
明治6年(1873)、教部省から若狭国遠敷郡若狭彦神社宮司兼大講義の任を拝命するも、着任前に摂津国住吉神社小宮司へ転任される。
この頃、宗太郎は倒薩計画を立てていたようでこれが露見。中津に帰郷後に自首し、久留米で謹慎。間もなく赦免され中津に戻った。
(中津城跡に建つ「西南役中津隊之碑」)
宗太郎は自由民権運動結社・中津共憂社を結成。土佐・立志社の板垣退助は林有造を派遣してこれを祝っています。
明治9年(1876)、福沢諭吉の慶応義塾に入学するも、数ヶ月で母の病のために帰郷。大分県最初の本格新聞である田舎新聞を週刊で創刊。社長・村上名田長のもと、宗太郎は編集長となり、自由民権・主権在民を訴えています。
明治10年(1877)2月14日、薩摩の西郷隆盛・桐野利秋らが挙兵

しかし、3月20日、田原坂の戦いで薩摩軍は敗れ去る。
そして、薩軍旗色悪しという中の3月31日、増田宗太郎は「人民天賦の権利を回復し」と檄文を飛ばし、同士64名と中津隊を結成。中津支庁・大分県庁を襲撃し蜂起したのである。
4月5日、熊本阿蘇郡で西郷軍と合流を果たし、以後各地を転戦するが、戦局は好転することはなく、8月15日、最後の激戦・和田越の戦いで敗れた西郷は、翌16日に薩摩軍の解散令を下している。
西郷ら敗残兵は薩摩へ戻ることとなり、宗太郎は中津隊残存者に「薩軍は鹿児島に向かう。われわれ中津隊の役目は済んだ。ここから(宮崎県高千穂町)北すれば、故郷の豊前に帰ることが出来る。ここから中津へ帰れ」と告げ、増田だけは薩軍に留まろうとした。
これに対し道理に合わないとの反発されると、涙を流しながら「吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」と告げたという。
9月1日、西郷らは城山に立て籠もり、4日、宗太郎は米蔵への夜襲で戦死したとも、捕らえられ9日斬首されたとも伝わる。享年26。
宗太郎を突き動かした思想とは何だったのであろうか?司馬遼太郎氏は『翔ぶが如く』の中で、福沢諭吉仕込みの英国風人権天賦論があったに相違ないとしている。
諭吉も反対党を許さない政権を憎悪し、その意味から西南役を評価している。その中に宗太郎以下中津隊がいたことに満足している。
福沢諭吉旧宅を訪れた際に、出会った人がNHK大河ドラマ「西郷どん」の準備にために宗太郎生誕之地を教えて下さった。これも一瞬の出会いであったが、出会っていなければ増田宗太郎について知ろうとはしていなかっただろうから、貴重な出会いであった。
(参考資料)
現地案内板