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【大友館跡】 評価
別 名: ―――
所 在 地: 大分市顕徳町3−1
築城年代:
築 城 者: 大友氏泰?
区 分: 館
現 状: 大友氏遺跡(発掘調査中)
(2017.7 発掘調査現場)
鎌倉時代に豊後守護に任じられた大友氏泰によって築かれたと考えられるが、築城年代は明らかではない。
歴史的には同じく大友氏遺跡に指定されている「上原館跡」との関わりが明らかとなっていないことから詳細は不明。大分市教育委員会の見解では、上原館が大友氏の生活の場であり、大友館跡は政務の場であったのではないかとしている。
大友氏最盛期の大友義鎮(宗麟)の時代には、城下町が整備され南蛮貿易で大いに栄えたとされる。
弘治3年(1557)、日本初の西洋式病院の設置、天正8年(1580)、コレジオ(神学院)が設置されるなど、南蛮文化が華開いた地である。
府内を訪れたルイス・フロイス著『日本史』によれば、天正14年(1586)、島津家久の豊後侵攻によって焼き討ちされ、灰燼に帰したという。
『日本城郭体系』には大友館=上原館として記載されているが、これは館跡が発見されたのが1990年代から始まった発掘調査によるものである。すなわち、大友館は比較的最近発見された城館跡なのである。
大分市教育委員会による発掘調査は現在も引き続き行われており、将来的には史跡公園として整備されることとなっている。
さて、発掘調査によって15世紀から16世紀にかけての庭園遺構や整地層、掘立柱建物址などが検出され大友氏のハレの場としての居館跡の姿が徐々に明らかとなってきている。
また、明との貿易や南蛮貿易によってもたらされた威信財である陶磁器類やキリシタン遺物であるロザリオなど遺物も多く出土しています。
出土した陶磁器の多くには炎燃痕が確認されており、館が焼き払われたことを裏付ける史料となっています。
大友館は朝倉一乗谷遺跡や大内氏遺跡と同様、城郭考古学における事例として非常に今後の整備には注目している遺跡です。
今後のことも含めて、改めて再訪したい。いや、しなければならないと考える場所ですね。
(参考資料)
大友遺跡発掘調査現地説明会資料
大友遺跡関連パンフレット
現地案内板
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大分県の城館跡
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【時枝城跡】 評価
別 名: ―――
所 在 地: 宇佐市下時枝
築城年代: 応永年間(1394〜1428)
築 城 者: 時枝左馬助惟光
区 分: 平 城
現 状: めづら子供園
応永年間(1394〜1428)、大内氏が宇佐神宮に1600町を寄進し、うち1000町を益永肥前が支配し、残り600町を山下玄蕃が支配していたが、玄蕃は人望なく追放。
その跡に山城国慶安寺から宇佐八幡宮の弥勒寺寺務役として下向した時枝左馬助惟光がこの地に居住し築いたとされる。
弘治2年(1556)、時枝大夫鎮継は大友義鎮に下ったが、密かに毛利元就と通じて、土井城主・佐野親重と談合して大友方の光岡城主・赤尾氏を攻め滅ぼし、赤尾氏救援に訪れた中島軍を討つなど宇佐郡における反大友の旗頭となった。
しかし、宇佐郡の諸領主たちは、大友氏に心寄せるものが多く、孤立する恐れがあることから、小早川隆景に出陣を要請した。
天正13年(1585)、小早川の援軍250騎ほどが援軍として入城するが、その情報を得た高家城主・中島統次は300騎ばかりで夜討ちを掛け、時枝城を攻略
鎮継は小早川の若干の兵とともに海路小早川氏を頼って落ち延びている。
天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐の際、黒田官兵衛孝高に従い、宇佐郡に導き入れた時枝鎮継は、孝高が中津城主として入封すると、その家臣となった。
天正17年(1589)、積年の恨みの中島統次を鎮継は黒田勢援護のもとに攻め、これを滅ぼしています。
慶長5年(1600)、黒田長政の福岡転封に時枝氏も従ったことから、時枝城は廃されたと思われる。
その後、跡地には「時枝陣屋」が新たに築かれるが、それはこちらで
(参考資料)
日本城郭体系 16 大分・宮崎・愛媛 新人物往来社
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【末広城跡】 評価
別 名: 末弘城
所 在 地: 中津市永添字城屋敷
築城年代:
築 城 者: 末広氏
区 分: 平 城
現 状: 正行寺
(城跡である「正行寺」)
築城年代は明らかではないが、この地の土豪・末広氏によって築かれたという。
『両豊紀』によれば、天正7年(1579)、宇都宮一族で長岩城主・野仲鎮兼が坂手隈城を攻略し、さらに末広城に攻め寄せた。末広城主・末広対馬守正行は降伏、開城したという。
正行は剃髪して妙玄、嫡子であった四郎は妙秀と名を改めたという。
その後、妙玄は城跡に正行寺を建立したという。
現在の本堂は、末広雲華上人によって再建されたものである。ということは末広氏はその後も連綿と続いたということでしょうね。
雲華上人は東本願寺学頭となった人物であり、頼山陽・帆足万里・田能村竹田・谷文晁らとも親交のあった学問・芸術に優れた人物としても知られています。
遺構として、正行寺に隣接する御宅の奥に土塁・空堀が確認出来ますが…さすがに突撃するのは控えました。遺構を確認したい場合は、しっかりと断ってから行って下さいね。
(参考資料)
日本城郭体系 16 大分・宮崎・愛媛 新人物往来社
現地案内板
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【杵築城跡】 評価
別 名: 木付城・勝山城・臥牛城
所 在 地: 杵築市杵築
築城年代: 明徳4年(1393)
築 城 者: 木付頼直
区 分: 平山城
現 状: 城山公園
明徳4年(1393)、木付頼直によって築かれ、応永元年(1394)、居城・竹ノ尾城が手狭で守るにも不便である上に交通上の要衝でもなかったことから、居城を杵築城に移した。
以後、代々の木付氏の居城として機能している。
天正14年(1586)10月、島津家の名将・新納忠元率いる2,500が木付城に攻めかかるも、容易には落ちず、豊臣の援軍が南下してくる報を受けた忠元は撤退を開始。時の城主・木付鎮直は追い討ちをし、島津軍を打ち破った。
文禄2年(1593)、朝鮮出兵の際に大友義統は小西行長の軍を救援せず見殺しにした咎によって改易。木付統直は嫡子・直清を鳳山の戦いで失ったことから自刃しており、留守を守っていた鎮直も自害して果てた。ここに木付氏は滅亡したのであった。
木付氏滅亡後、豊臣秀吉は五奉行の一人・前田玄以が入封するが、文禄3年(1594)、宮部継潤が、慶長元年(1596)、杉原長房が入封するなど城主は入れ替わっている。
慶長4年(1599)、徳川家康は秀吉の遺言によって細川忠興に速見・国東のうち6万石を加増し、忠興は杵築城代として松井佐渡守康之、有吉四郎左衛門立行を置いた。
慶長5年(1600)、関ケ原の戦いで領地奪還を目指す大友義統は再興を目指し挙兵
正保2年(1646)、松平英親によって山上の廓群は廃止されている。以後は山麓の藩主御殿が杵築藩の政庁として機能しています。
なお、本文中は杵築城と記載しているが、正確には木付城である。
(参考資料)
日本城郭体系 16 大分・宮崎・愛媛 新人物往来社
現地配布パンフレット
現地案内板
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【旧臼杵藩主 稲葉家下屋敷跡】 評価
別 名: ―――
所 在 地: 臼杵市臼杵72−1
築城年代: 明治35年(1902)
築 城 者:
区 分: 屋 敷
現 状: 稲葉家下屋敷
明治4年(1871)、約270年間臼杵の地を治めた臼杵藩主・稲葉家は華族として東京に移住したが、その後も旧国立第百十九銀行(現東京三菱UFJ銀行)や旧臼杵藩士族が設立した留恵社への出資を行うなど、臼杵経済にも影響を残していました。
そのような関係から臼杵に里帰りする機会は少なくなかったとされ、明治35年(1902)、旧藩主の里帰りの際の御座所として町の有志たちによって約1000坪の敷地に屋敷が築かれました。
五棟の建物が雁行型に廊下で結ばれており、数寄屋風の平屋桟瓦葺き。母屋は桁行6間半、梁行4間の入母屋造で妻側に間口2間の式台付玄関が備えられています。
内部には書院造の奥座敷や謁見の間であった表座敷が整えられており、旧藩主を迎えるのに相応しい造りでした。
江戸時代、稲葉家下屋敷周辺一帯は臼杵城の三の丸にあたり、評定所・米蔵などの重要施設や臼杵藩重臣屋敷が連なっていた場所でした。
下屋敷自体は城館跡とは分類できないでしょうが、臼杵藩主・稲葉家に関するものということから城館扱いを致しました。
拝観料: 大人 ¥320 小人 ¥160
※ 臼杵大仏・野上弥生子文学記念館・吉丸一昌記念館との共通券 ¥1100
休館日: 年中無休
(参考資料)
現地配布パンフレット
現地案内板
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