日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

大分県の古民家

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  【大江医家史料館】

   所在地:                 中津市鷹匠町906
   入館料:      大人 ¥210 大・高校生 ¥100 中学生以下 無料
             村上医家史料館共通  大人 ¥300 大・高校生 ¥150
          中津城・福澤諭吉旧宅共通観覧券利用  大人 ¥100  高大生 ¥50
   休館日:   毎週火曜日(祝祭の場合はその翌日) 年末年始(12/28〜1/3)


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 宝暦8年(1758)、二代大江玄仙以来、代々中津藩御典医を務めた大江家の住居として建築されている。

 「医は仁ならずの術 務めて仁をなさんと欲す」という玄仙の言葉が代々大江家には伝わっています。

 大江五代・大江雲澤は華岡流医学を学んだのち、この屋敷内で薬草を栽培して薬湯療法を行っています。


 平成13年(2001)、七代・大江忠綱氏没後、遺族によって土地・建物が中津市に寄贈されています。平成15年(2003)、半解体工事が行われたのちに、平成16年(2004)、史料館として公開されています。


 大江医家史料館は、大江家旧宅と史料中心に、中津の医学・蘭学の流れが分かる史料館であり、杉田玄白・前野良沢らによって刊行された『解体新書』をはじめ、中津における種痘の実施に関する資料などが惜しむことなく展示されています。


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 日本医史学会をはじめとして、日本における医学の歴史的資料が見られることから大変注目されている史料館として有名です
 
 大江医家史料館半解体工事で検出されたのでしょうか?気になる場所がありました。


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 薬の貯蔵用でしょうね。この煉瓦がいつどこで焼かれたものなのかが気になりました。中津は群馬からは遠方ですから、調査報告書が入手できないのが残念です

 今後、考古学の現地踏破を数多く行うことが求められるでしょうから、再び訪れることもあるかと思います。その際には調査報告書見てみたいと思います。


 (参考資料)
  現地配布パンフレット
  現地案内板



  【福澤諭吉旧宅】

   所在地:       中津市留守居586
   観覧料: 高校生以上 ¥400 中学生以下 ¥200
   休館日:           12/31


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 福澤諭吉は、天保5年(1835)、大坂の中津藩蔵屋敷で、13石2人扶持の下級武士であった福澤百助の次男として生まれた。

 天保7年(1837)、父・百助死去によって、母子6人で中津に帰郷。少年時代をこの地で過ごしている。14〜15歳の頃から勉学にめざめ、その後、儒学者・白石照山の塾で学んでいます。

 安政元年(1854)、諭吉19歳のとき、兄・三之助のすすめで蘭学を学ぶために長崎に遊学。

 安政2年(1855)、大坂の蘭学者・緒方洪庵の適塾に入門するが、翌年、兄・三之助が病死したために中津へ戻り福澤家を継ぐこととなった。

 安政5年(1858)、中津藩の命令で江戸へ出府し、藩主・奥平家中屋敷にのちの慶應義塾の起源となる蘭学塾を開く。

 万延元年(1860)、咸臨丸で渡米、帰朝後に幕府外国方として雇われ、さらに文久2年(1862)、遣欧使節団に随行して欧州各国を周遊する。

 万治元年(1864)、幕府翻訳方となり、その後『西洋事情』を刊行する。

 慶応4年(1868)、時の元号にちなみ塾名を「慶應義塾」と定める。

 その後、中津市学校の開設に尽力し、『学問のすすめ』初編刊行、北里柴三郎を助けて伝染病研究書設立に尽力、耶馬渓・競秀峰を買収し自然保護の魁となるなど功績を残し、明治34年(1901)、永眠した。


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 現在残る旧宅は、享和3年(1803)に築造された木造茅葺平屋建で、諭吉が青年期を過ごした家です。

 土蔵は木造瓦葺二階建で現存しており、諭吉が自ら二階を改造して勉学に使ったという。


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 なお、諭吉幼少期の家はすぐ前の土地にあり、現在は間取りが石組で復元されています。諭吉はこの家の間取りを自ら描いて、忘れないようにしたという。


 福澤諭吉といえば、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉が著名であり、多くの人は諭吉が平等な心を持った人物であったという認識であると思う。
 しかし、諭吉は著書の中で朝鮮を日本の下に見た記述をしていることから、決して平等という考えの持ち主ではなかったということを知っておいてもらいたい。

 古来より日本は朝鮮とは深い縁を有しており、現在も歴史感に相違はあるものの相互理解に努めて関係を改善して行くことが未来に向けて大切なことでしょうね。


 (参考資料)
  現地配布パンフレット
  現地案内板


  【重光家住宅】

   所在地:     杵築市本庄893−1
   料 金:  一般 ¥100 小中学生 ¥50


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 重光家は藤原貞周が国司に任じられて重光を名乗り、12世紀末(または13世紀初頭)、大友氏の豊後入国に従い大野郡に居を定めたという。

 文禄2年(1593)、大友義統改易に伴い、重光家は国東半島櫛木(現在の国東市国見町)に移った後に、股見(現在の杵築市大田俣水)に移ったとされ、代々庄屋兼社司となり、文化元年(1804)まで世襲しています。


 文化元年(1804)、安岐で農民訴願騒動が発生したことから、杵築藩は庄屋を更迭。重光定興を庄屋に抜擢した。

 文化14年(1817)、藩は定興に郷方出仕を命じ代官に任用。それを機に杵築に居を移している。これによって重光家は重光宗家と杵築重光家に分かれています。


 この「重光家住宅」は杵築重光家であり、初代・定興、二代・魚彜、三代・直愿と続く。直愿は漢文学者であり、杵築藩校・学習館の教授であった。3人の息子はともに東京帝国大学卒であり、なかでも三男・葵が知られている。


 重光葵は第二次世界大戦時の日本の外交官・政治家として知られる。

 昭和7年(1932)、上海事変の中国との停戦交渉を行い、協定の調印を残すのみとなった4月29日、上海新公園(現在の魯迅公園)の天長節祝賀式場において、爆弾によって右脚を失う。

 昭和18年(1943)、外務大臣に就任。ポツダム宣言受諾後の昭和20年(1945)9月2日、米艦ミズーリ艦上で行われた降伏文書調印式に天皇陛下の名代として梅津美治郎陸軍参謀総長とともに出席。日本政府の全権として降伏文書に署名した。また、3日にはマッカーサー元帥と交渉し、GHQによる日本の直接統治(軍政)を中止させています。

 その後、極東国際軍事裁判(東京裁判)においてA級戦犯として逮捕起訴され、有罪判決の後に巣鴨プリズンに収監。
 当初GHQは重光葵を戦犯として起訴する意思はなかったのであるが、ソ連の強い主張によって逮捕起訴されたという経緯がある。

 極東国際軍事裁判において、葵はアメリカ・日本両弁護士の尽力もあり、判決は禁固7年というものであった。


 昭和25年(1950)、4年7ヶ月の服役後に仮出所。

 出所後は政界復帰し、第一次・第二次鳩山一郎内閣で副総理兼外務大臣を務めている。

 昭和31年(1956)、日本は国際連合に加盟。この時、葵は政府代表として国連で加盟受諾演説を行い、「日本は東西の架け橋となり得る」と発言している。

 その後も外務大臣として活躍するが、昭和32年(1957)1月26日、惜しまれつつ没した。


 この「重光家住宅」は、歴史に名を残した名政治家・重光葵ゆかりの屋敷である。だが、杵築市街地からちょっと離れていることから訪れる人が少ないような気がした。これは杵築を訪れながら本当にもったいないことだと思います。
 日本の降伏文書調印や国際連合加盟といった戦後日本を考える上で、重光葵という人物はもっと注目されるべき人物です。

 現在の日本に重光葵のような政治家が少なくなったと感じませんか?今、重光の事績を知ることで政治というものをもっともっと考えねばならないのではないでしょうか。


 (参考資料)
  現地配布パンフレット
  現地案内板


  【能見邸】

    所在地: 杵築市杵築208−1
   拝観料:     無 料
   休館日:    年末年始


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 『居宅考』によれば、寛政12年(1800)、寛政の大火以前は知行300石の岡藤介の屋敷地であったが、大火後に杵築藩主休息場である楽寿亭の御用屋敷に加えられ菜園場となった。その後、杵築藩主・能見松平親盈の九男・能見幸之丞の屋敷地となり、平成19年(2007)まで能見氏の屋敷として使用されていました。

 平成22年(2010)、大規模な改修が行われ、建築当時の姿が復元されています。


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 能見邸は建築年代を特定する史料に欠けていますが、様式から幕末期に建造されたと考えられています。

 能見家は杵築藩家老を務めていますが、隣接する「大原邸」の大原家の方が格が高く、長屋門は無いが、玄関の間・上段の間など12部屋あり格式の高さがうかがえる。敷地面積は1440㎡、延床面積250㎡。


 また、能見邸は台の茶屋という休憩所であり、甘味や喫茶することが出来る他、お抹茶体験・飴細工体験・つまみ細工体験・押絵体験(いずれも要予約。詳細は台の茶屋HP http://dainochaya.com/index.htmlまで)が可能です。

 庭園を眺めながらゆっくりと休息して、再び杵築城下町散策へ向かうのが良いと思います。


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 (参考資料)
  時と和が紡ぐ物語 杵築城下町                   杵築市商工観光課
  現地配布パンフレット
  現地案内板
 

  【相良信夫生家】

   所在地: 臼杵市二王座


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 明治35年(1902)、旧臼杵藩士・村本家の二男として相良信夫は生まれている。

 幼少期の信夫は生物に興味を持つ一方で、祖父から源平合戦などの話を聞くことで歴史に興味を持ったという。

 臼杵男子尋常高等小学校高等科中退後、様々な仕事をしながら早稲田中学(現在の早稲田高等学校)講義録(通信講座)の購読を続けて歴史の独学に励んでいます。この時期、後に結婚する相良音と出会ったという。

 大正6年(1917)、恩師を頼って上京。鉄道院上野保線事務所の職員食堂で働きながら、岩倉鉄道学校(現在の岩倉高等学校)工業化学科夜間部に通学し、大正9年(1920)、卒業後、農商務省臨時窒素研究所に勤務。在勤中に喜田貞吉の影響で考古学に興味を持ち、発掘調査にも参加しています。

 しかし、研究所の研究で体調を崩したことから官を辞し、関東大震災前日の大正12年(1923)8月31日、夜汽車で東京を離れ、臼杵に帰省する途中で、相良音と運命の再会を果たします。

 大正14年(1925)、婿養子となり音と結婚したことで、相良信夫となります。これまでの信夫は村本姓です。そして静養を兼ねて兵庫県明石市に住むのである。


 昭和6年(1931)4月18日、西八木海岸で旧石器時代のものと思われる化石人骨を発見『人類学雑誌』に「播磨国西八木海岸洪積層中発見の人類遺品㈠㈡」を発表するも、鳥居龍蔵の否定によって世間から嘲笑されることとなった。だが、後に長谷部言人が調査した結果原人と判断。明石原人と名付けられたが、昭和20年(1945)3月、東京大空襲によって化石現物は消失してしまった。
 ※昭和60年(1985)、国立歴史民俗博物館による西八木海岸の発掘調査が行われ、相良の発見した明石人は縄文時代以降の新人であるとの意見が大半となっている。しかし、考古学会における信夫の功績は大きいと思います。

 さて、世間から嘲笑された信夫は旧石器の研究から遠ざかったとされるが、昭和25年(1950)、栃木県葛生町(現在の佐野市)にて発見した一群の化石骨を葛生原人として報告している。この報告は後に松浦秀治氏によるフッ素年代測定法を用いた分析で、室町時代頃の人骨であるとの結論が出されています。また、クマ・サル・トラの骨との誤認があったと判明しています。


 明石原人・葛生人といった先土器時代の発見で知られる相良信夫。しかし、葛生人は完全否定され、明石原人も縄文時代以降の新人との意見が強く、考古学会に与えた影響は大であるが、評価は分かれるところであろうか?

 しかし、相良信夫のような在野の研究者が考古学を発展させたことは事実でないかと思います。

 
 (参考資料)
  臼杵の歴史発見 ルート18                     臼杵市・臼杵市教育委員会
  現地案内板

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