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【薦神社】
所在地: 中津市大字大貞209
別名を大貞八幡宮。社紋が一つ巴であることなどから、全国の八幡宮の総本宮である宇佐神宮の祖宮といわれます。
養老3年(720)、大隅・日向の隼人の反乱で大伴旅人の率いる朝廷軍と宇佐神宮の辛島波豆米の率いる宇佐神軍は薦神社の三角池に自生する真薦を刈って作った薦枕を御神体として、神輿を奉じて日向まで行幸し、見事に乱を鎮圧したとされる。
承和年間(834〜848)、初めて社殿が建立され、天仁2年(1109)、神宮寺の七堂伽藍が建立されています。
(「薦神社神門」 細川忠興造営)
元和2年(1616)、荒廃していた薦神社は細川忠興によって再興され、長らく途絶えていた宇佐行幸絵も再興。
神門は元和8年(1622)、忠興によって造営されたもので現存建物です。
その後も小笠原氏・奥平氏によって手厚く庇護されています。
(参考資料)
現地案内板
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大分県の神社仏閣
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【円龍寺】
所在地: 中津市寺町991
寛永9年(1632)、播州龍野から小笠原長次が中津に入封すると、専誉上人を開山として建立された。正式には岡谷山 円龍寺。本尊は阿弥陀如来。
閻魔さまのお寺として知られ、本堂向かって左側に閻魔堂があります。内部には江戸時代造立とされる閻魔大王像・葬頭河婆(奪衣婆)像が安置されています。
一説では閻魔像は中津藩士が旅先の箱根山で災難に遭い、閻魔大王への祈願によって救われたことに感謝し、山国川河畔に造立したものがその後に円龍寺に安置されることとなったものとされる。
各地に伝わる閻魔像をいくつか見てきたが、この円龍寺の閻魔像はなかなかの迫力です。脇の葬頭河婆像はもっと迫力ありますけどね。
(参考資料)
中津市寺町ガイドブック 中津耶馬渓観光協会
現地案内板
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【円応寺】
所在地: 中津市寺町961−2
天正15年(1587)、黒田官兵衛孝高の開基、真誉見道上人が開山となり建立された浄土宗の寺院。
慶長5年(1600)、黒田長政が福岡に移封された際、真誉見道上人もそれに従い福岡に移り、同名の円応寺(現在の福岡市中央区大手門)を建立しています。
寛永9年(1632)、小笠原長次が中津城主となると、十一面観音像を菩提寺・天仲寺から移して境内に観音堂を建立しています。
円応寺は黒田・細川・小笠原と中津歴代藩主の手厚い保護を受けています。
また、円応寺は河童由来の寺としても知られている。
江戸時代中期、静誉寂玄上人が川で相撲を取って遊んでいた河童たちに「生きることの苦しみを知らずに遊び暮らしている哀れな河童よ」と言い放ったところ、それを聞いた河童たちは大いに怒ったのであるが、上人は「世の中は楽しいことばかりではなく、苦しいことも多い」と諭したという。
数日後の夜、円応寺にたくさんの河童たちがやってきた。上人が訳を尋ねると、3匹の河童の頭領は「上人の言葉に感じ入った。人の苦しみを知って後世の人に敬われるようになりたいので、上人に教えを請いに来た」という。
上人は河童たちを本堂に招き入れ、30日あまりの修行を行った後、3匹の頭領にそれぞれ戒名を与えたという。
それぞれの戒名は、本誉覚圓信士(俗名:岡本宇兵衛)・本誉覚心信士(俗名:竹本三太夫)・本誉覚源信士(俗名:蔵本要助)となっている。
その後、河童たちは上人への感謝の気持ちから、寺を火難や水難から守ったという。その代わり、皿の水が乾かないように境内に小さな池を作ってくれるように頼んだという。
また、中津にある山国川を渡る際には、「円応寺の門徒だ」というと水難から守られたという。
『下毛郡誌』によれば河童の墓は、天正17年(1589)4月、宇都宮鎮房が誘殺された際、鎮房に一の太刀を浴びせた黒田二十四騎の一人である野村太郎兵衛祐勝の墓だとしています。
(参考資料)
寺町ガイドブック 中津耶馬渓観光協会
現地案内板
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【松屋寺】
所在地: 速見郡日出町1921
拝観料: 小・中学生 ¥200 高校生以上 ¥300
養老年間(717〜724)、天台宗六郷満山寺院の一つとして千手観音・不動明王・毘沙門天の三尊を安置する水月堂が建立。
文永年間(1264〜1275)、最明寺道宗時頼が諸国行歴した際に水月堂に寄宿したが、以来、堂宇は西明寺と称したと伝えられる。
文明2年(1470)、明国から帰朝した雪舟が府内万寿寺に桂庵玄樹を訪ねた際に、松屋寺に寄留し観音画を寄進し、万龍の庭を築庭しています。この庭園は日本名園の一つに数えられています。
慶長6年(1601)、播州姫路より木下右衛門大夫延俊が日出3万石で入封すると、慶長7年(1602)、延俊の祖母にあたる朝日姫(豊臣秀吉の正室である北政所の母)の菩提を弔うために、西明寺を修堂し曹洞宗に改宗。康徳山松屋寺と改号しています。
寛永7年(1630)頃、木下延俊が松屋寺を木下家菩提寺とし、朝日姫を始め16代の藩主並びに奥方子女等の墓が建立されています。
また、延俊に殉じた家臣4人、俊治に殉じた家臣1人が主君の墓の傍らに建立されています。
明暦2年(1656)、府内藩主・日根野吉明が嗣子なく没して改易されると、府内城は江戸幕府によって接収された。幕府は日出藩主・木下俊治、杵築藩主・松平英親に府内城代を命じています。
明暦3年(1656)、俊治は城代交代の際に1400の兵をもって府内城内にあった大友宗麟ゆかりの大蘇鉄を死馬と称して筵に包んで松屋寺に持ち帰ったのであるが、松平家でもこの大蘇鉄を藩に持ち帰ろうとしていたようでとある峠でであった際に悔しがったという逸話が残されています。
嘉永・大正に二度の大火に見舞われて本堂山門等を焼失
大正8年(1919)、本堂が復興されています。
御住職のお話は大変面白く、暑い中ではありましたが楽しめました。また、手水は良く冷えていて気持ちよくタオルを濡らして涼をとったのが思い起こされます。
(参考資料)
現地配布パンフレット
現地案内板
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【合元寺】
別 名: 赤壁寺
所在地: 中津市寺町973
千日観音(七観音巡り)第3番札所。
天正15年(1587)、黒田官兵衛孝高が豊前・中津12万石で入封した際、孝高に従って姫路からこの地に来た空誉上人によって開基開山され、智光山・合元寺とした。
天正17年(1589)4月、孝高は嫡子・長政に命じて前領主である宇都宮鎮房を中津城内で謀殺
討死した家臣は合葬され、延命地蔵菩薩堂に祀られて菩提を弔われています。
それ以来、合元寺門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が消えないようになり、遂に赤色に塗られるようになったとの伝説が残ります。
当時の激戦の様子が庫裡の大黒柱に今も残されています
慶長16年(1611)、黒田長政は空誉上人を福岡城内に誘い出し、そこで殺害しているが、空誉上人は宇都宮鎮房の子であったと言われており、後事を恐れたためと云われる。
空誉上人は文武の道に秀でており、世の人々からの崇敬も篤かったという。
(参考資料)
中津寺町ガイドブック
現地案内板
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