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【甚吉坂の戦い】
別 名: 丹生島城の戦い・二王座の戦い
所在地: 臼杵市二王座
天正14年(1586)、島津軍が豊後に侵攻
大友方から寝返った柴田紹安の案内で臼杵に入り、平清水に陣を構えた島津勢は丹生島城へ攻め寄せるも城は天然の要害であったことから、なかなか攻略出来ずにいた。
宗麟はポルトガルから購入した国崩しという大砲を使用することを麾下の武宮武蔵守親実に命じて、島津勢に撃ち放ち多くの死傷者を出させ、大混乱に陥らせた。
臼杵鎮順・柴田礼能・柴田統勝は城を打って出て大混乱の島津勢に襲いかかるが、この戦いで柴田礼能・柴田統勝は討死しています。
島津に寝返った柴田紹安は同族であったことから、礼能・統勝父子は宗麟から疑われていたことが討死するまで奮戦した要因であるとされる。
こちらは「平清水の戦い」と呼ばれる局地戦でした。
古庄丹後入道・葛西周防入道も打って出て二王座の島津勢に襲いかかり、激戦の末に撃退。
島津勢は切通しの道まで退いたが、ここに吉岡甚吉(統増)・利光彦兵衛・吉田一祐が待ち伏せており、鉄砲による銃撃を受けさらに混乱
さらに吉弘鎮直と臼杵鎮順が襲いかかり、島津勢は名のある武将が多く討死したという。
こちらが「甚吉坂の戦い」もしくは「二王座の戦い」と呼ばれる局地戦である
大友勢の大砲・鉄砲を駆使した戦いに島津勢は次第に撤退を開始。しかし、わずか3日間の激闘で丹生島城下町は灰燼に帰したという。
(参考資料)
臼杵の歴史発見 ルート18 臼杵市・臼杵市教育委員会
現地案内板
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大分県の古戦場
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【乙津川古戦場跡】
別 名: 寺司浜古戦場
所在地: 大分市西鶴崎(2)
天正14年(1586)、島津義久は豊臣秀吉が来援する前に大友氏を討つことを決定
義久・家久軍の一隊、伊集院美作守久宣・野村備中守文綱・白浜周防守重政ら3000の兵は鶴崎城へ攻め寄せた。
この時、鶴崎城主・吉岡統増は丹生島城(臼杵城)に拠っており、統増の母・吉岡妙林尼が女城主とて守りを固めて島津軍来襲に備えていました。だが、城内に居る兵は老兵・農民・女子供といった戦力にならないものばかりであったという。妙林尼は農民・女性に備蓄していた280丁とも言われる鉄砲の使い方を教え、作れる防御施設(竹矢来・逆茂木・土塁・空堀・落とし穴・薬研堀など)を全て準備したと伝わります。
島津軍は16回に亘り鶴崎城を攻撃するも、妙林尼は堅固に城を死守したことから、島津軍は攻めあぐね、妙林尼直臣の中島玄佐・猪野道察を通じて和議を申し出た。妙林尼は城内の食糧・弾薬が尽きたことからこれを受け入れ開城しています。
両軍は互いの健闘を称えるかのように酒宴を開き、妙林尼も妖艶な踊りを披露するなどして薩摩勢をもてなしたという。その後も島津軍への饗応は続いたことから、すっかり気を許すこととなった。
天正15年(1587)、豊臣秀吉が九州征伐の軍を発したことを知ると、島津氏は豊後からの撤退を開始。鶴崎城の島津勢も撤退を決定する。撤退の前日、妙林尼は島津軍諸将を屋敷に招き大宴会を開催
そして、妙林尼は「我々は大友を裏切ったのですから、この地には留まれません。一緒について行きます。しかし、準備をいたしますので、先に行ってください。後から追いかけます」と島津勢に伝えたとされる。すっかりと気を許していた島津勢はその言葉を信じこんでしまった。
翌朝、島津軍は撤退を開始。しかし、乙津川付近に差し掛かると、妙林尼の指図で待ち伏せしていた軍勢に一斉に攻めかかられ、伊集院美作守久宣・白浜周防守重政は討死。野村備中守文綱も深手を負い、帰国途中に没している。
島津軍は約300の兵が討死したとされ、妙林尼は首級63を丹生島城の大友宗麟に届けています。
この話を聞いた豊臣秀吉が妙林尼に会いたいと申し出ていますが、断られたという逸話は有名ですね
(古戦場周辺)
最近では様々なところで、吉岡妙林尼についても触れられることが多くなってきましたね。井伊直虎と同様に女城主として注目されたのでしょうね。
島津
(参考資料)
日本城郭体系 16 大分・宮崎・愛媛 新人物往来社
現地案内板
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