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【和田嶺古戦場】
別 名: 砥澤口古戦場・樋橋古戦場
所在地: 諏訪郡下諏訪町
元治元年(1864)、水戸藩尊王攘夷急進派の志士たちが筑波山で挙兵
上洛して一橋慶喜を通じて朝廷に攘夷を嘆願すべく、天狗党は西上を開始。
11月16日、松本藩へ、翌17日夜には高島藩へ「常野の賊徒が信州へ入る」という報とともに、「見当たり次第撲滅せよ」との追討令が幕府より発せられている。
17日、松本藩士・稲村久兵衛率いる400が長久保宿に到着。天狗党は18日に望月に入ると聞き、ここが戦場にならないように懇願され、東餅屋まで引き上げ陣地を構築しています。
高島藩は藩主・諏訪忠誠が老中外国係であり江戸詰めで不在ということもあり、出陣準備が整ったのは18日昼過ぎでした。物見から「浪士隊は今晩長久保泊まり、明晩は和田宿泊まりで、峠にかかるのは20日になる様子」と報告を受け、和田峠で迎え撃つこととしました。総大将・千野孫九郎、軍師・塩原彦七が出陣
19日、高島・松本両藩合同の軍議が行われ、両軍連合して迎え撃つこととなった。
20日、武田耕雲斎率いる水戸天狗党1000余と松本・高島藩兵1000余がこの地で激突
戦いは日没まで続き、天狗党内で今弁慶と称された不動院全海討死
高島藩は三輪佐兵衛・諏訪仲吉ら6名が戦死、11名が負傷、生死不明2。松本藩は近藤良五郎・吉江右衛門太郎ら4名が戦死、4名が負傷、生死不明2という被害を出している。
一方、水戸天狗党は10余名の戦死者を出している。浪士たちは亡骸をここに埋めて去った。
高島藩はその後、塚を設けて供養を行っています。
高崎藩との「下仁田戦争」、そして「和田嶺合戦」を経て、水戸天狗党は一路京都を目指すものの、最終的には心の拠り所としていた一橋慶喜からの追討という状況に追い込まれて悲惨な末路を辿ります。
幕末の動乱期、水戸天狗党の乱に関する史跡「浪士塚」を和田峠で発見しましたのでラッキーでした。
(参考資料)
現地案内板
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