日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

埼玉県の神社仏閣

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  【白鳩峯八幡神社】

   所在地: 本庄市児玉町児玉198


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 社伝によれば、永承6年(1051)、源頼義・義家が奥州・安倍頼時を征討すべく北上する途中、この地に斎場を設け石清水八幡宮を遥拝して戦勝を祈願し、康平6年(1063)、無事に奥州平定した帰途に再びこの地に拠り、石清水八幡宮を勧請して白鳩峯東石清水八幡宮が建立されたという。

 鎌倉時代には、武蔵七党の一つ・児玉党の豪族である児玉時国が深く帰依し、社殿を再建している。

 延徳3年(1491)、山内上杉氏家臣・夏目豊後守定基が雉岡城主となり、八幡神社を武運守護の神として尊崇し、神領2町1反余歩(約2.1ha)を寄進。

 天正7年(1579)、後北条家臣・横地左近忠春、天正19年(1591)、徳川家康家臣・松平玄蕃頭清宗等が神領を寄進しており、代々この地を治めた支配者が崇拝していたことがわかる。


 現在の社殿は、享保3年(1718)、時国から15代目にあたる久米六右衛門が発起人となり、起工。享保7年(1722)、完成したものである。
 妻沼伝兵衛が棟梁、彫刻は獅子の五右衛門と龍の茂右衛門という当代無双の名人と呼ばれた職人たちの手によって建造されたものである。


 また、この地は源頼義・義家が奥州に向かう際の宿営地となったとされており、境内を囲むように土塁が巡らされている。


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 しかしながら、平安期の土塁が現在まで残されているとは思えず、神社建立の際のものであろう。とはいえ、伝承ではあるが、この地が源頼義・義家陣所となったということは城館巡りをするものにとっては城館(陣城)扱いとして良いと考えます。


 (参考資料)
  児玉町の文化財                       児玉町教育委員会
  現地案内板


  【岩室観音堂】

   所在地: 比企郡吉見町北吉見309


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 弘仁年間(810〜824)、弘法大師空海が岩窟を選んで高さ一尺一寸(36.4㎝)の観音像を彫刻してこの岩窟に納め、岩室山と号したというが確かな記録は残されてはいない。

 松山城主・上田氏が代々信仰し護持していたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉による北条征伐の際、武州松山城攻防による兵火で焼失

 寛文年間(1661〜1673)、龍性院第三世・堯音が近郷近在の信者の助力によって再建された。懸造りの堂は江戸時代のものとしては珍しいものである。


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 四国八十八ヶ所弘法大師巡錫聖地の本尊を模した石仏が祀られており、この石仏を拝めば、四国八十八ヶ所を巡拝したのと同様の功徳があるとされる。

 岩室観音は比企西国三十三ヶ所観音霊場第三番札所である。比企西国三十三ヶ所観音霊場は遠隔地を巡礼出来ない人々のため、享保8年(1723)、開設されたという。

 
 (参考資料)
  現地案内板


  【岩殿山 安楽寺】

   所在地: 比企郡吉見町御所374


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 坂東三十三ヶ所観音霊場第十一番札所。関東八十八ヶ所第七十五番札所。

 真言宗智山派の古刹で、本尊は聖観世音菩薩。吉見観音とも称され、慈光寺・正法寺とともに比企三山と呼ばれる。


 神亀元年から天平21年(724〜749)の間に、行基上人がこの地を訪れ観音像を岩窟に納めたのが始まりとされ、大同元年(806)、坂上田村麻呂によって伽藍が建立されたと伝わります。

 縁起によれば、平治元年(1159)、平治の乱によって源義朝が敗れたことにより、平氏の源氏追討を逃れた源範頼がこの地に落ち延び、平家の眼を逃れ成長したという。

 範頼は兄・源頼朝の挙兵に従い、各地を転戦。源平合戦の後に吉見町御所に居館を構え、安楽寺三重塔を建立したとされる。

 安楽寺は範頼の子孫である吉見氏の庇護の元で繁栄しますが、天文6年(1537)、後北条氏の武州松山城攻めの際に、全山灰燼に帰してしまった。

 寛文年間(1661〜1673)、秀慶法印によって本堂が再建されている。


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 岩殿山 安楽寺の見所の一つが、三重塔である。

 現存の三重塔は寛永年間(1624〜1644)、建立されたもので総高約24.3m方三間で基壇は設けられず、心柱は初層天井上の梁で支えられています。


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 岩殿山 安楽寺は吉見町の代表的な観光地であり、多くの人が訪れていました。札所巡りをされている方も多いですから、当然ですかね。

 
 (参考資料)
  現地案内板



  【天真山 高源寺】

    所在地: 行田市佐間1−2−9


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 天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、石田三成率いる二万の軍勢の前に成田氏親率いる忍城勢は籠城。三成は忍城を水攻めしている。

 佐間口の守将・正木丹波守利英は奮闘し、忍城は北条方の支城の中で唯一落城しなかったが、小田原城は豊臣勢の前に開城降伏する。これによって、忍城も開城することとなった。


 戦後、利英は水攻め戦没者を供養せんと発心し、武士の身分を捨て、佐間の地に高源寺を開基している。開山には守天昌意和尚を迎えている。

 利英は天正19年(1591)2月2日、没している。


 『新編武蔵風土記』には、「禅宗臨済派、上崎村龍光寺末、天眞山と號す、開山守天和尚、慶長五年八月廿五日示寂、開基は成田下総守氏長の家人正木丹波守利英なり、天正十九年六月二日に卒し、傑宗道英と諡す、當寺に墳墓あり、木像聖観音を安置す」と記されており、正木丹波守の没年月日、本尊に相違がみられる。

 これは明治2年(1869)、火災によって焼失したためと考えられる。


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                         (「正木丹波守利英墓」)

 映画「のぼうの城」によって、正木丹波守利英の名は全国的に知られるようになったが、それ以前は全く知られていなかった武将であろう。

 こうしたマスメディアによる認知度向上は素晴らしいものがある。

 ここ「高源寺」でもどうやら御朱印がいただけたようであるが、御朱印帳を持っておらず、またの機会になった。


 (参考資料)
   現地案内板

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  【行田八幡神社】

   所在地: 行田市行田16−23


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 元和年間(1615〜1624)、宝永年間(1704〜1711)、弘化年間(1844〜1848)の行田町大火の際、再三の類焼の災禍にあったことから、旧記重宝等を焼失したことで創建ははっきりしたことは不明である。

 口碑によると、源頼義・義家が奥州征伐のためにこの地に滞陣した折、戦勝を祈願して勧請したと伝えられる。当初は佐間村田中に鎮座していたことから、俗に田中八幡と称されていたとされる。

 天文年中(1532〜1555)、現在の地に遷座され、忍城主・成田下総守長泰によって崇敬され、社殿が修補され忍城下鎮守とされています。
 これ以降は城主八幡、社殿の向きから西向き八幡と称されました。

 以後、代々の忍城主から崇敬され、阿部豊後守忠秋は八幡大神御神像を奉献し、次いで阿部正識も自筆算額を献進しています。


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 この行田八幡神社を訪れたのは、この神社…『かん封じ』で有名な神社であるからよく「かんの虫」と言われる夜泣きの虫封じから転じて、癌封じにも御利益があるということをHPで知ったからであります。

 母の癌封じ祈願のためであれば、訪れなければならないということで大雨でしたが神に御祈願でありました。

 その思いが通じたのか、現在術後も良好に推移しております。


 困ったときの神頼みということではいけないのでしょうが、藁にも縋る思いでした。こうした思いを抱かれている方は多いでしょう。
 行田八幡神社に御参拝して神におすがりするのも癌と戦う一助となるのではないでしょうか?


 (参考資料)
  現地配布パンフレット
  現地案内板

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