日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

埼玉県の古墳

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  【中新里諏訪山古墳】

    所在地: 児玉郡神川町大字中新里99−1ほか


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  神流川流域は古墳密集地域であるが、これまで訪れる機会はなかったのであるが、今回偶然発見して訪れた次第である。

  墳丘の規模は全長約41m、後円部径約22m、高さ約3.5m、前方部幅約20m、高さ約2.5mの前方後円墳である。

 周濠を含めた全長は約52m、幅約36mに復元出来る。

 埋葬施設は、後円部南西方向に開口する横穴式石室です。現在は埋め戻されて見学不可能ですが、全長7.5mの袖無式横穴式石室であったとされます。
 昭和10年(1935)、石室から馬具・直刀・切子玉・須恵器などが出土したとの伝承が残されるが、盗掘であり出土品は散逸している。


 戦後、確認調査が行われ、周濠から埴輪片が出土したことから、墳丘には葺石が施され、埴輪が立ち並んでいたこと、埋葬施設で一枚石の奥壁の上に天井石が残されていたことが明らかとなったが、副葬品の確認は出来なかった。

 出土遺物から、六世紀中頃に築造されたこの地域の首長の墓と推定されています。


 発掘調査報告書も刊行されており、より詳細な情報入手が可能なので、より詳しく知りたい方は報告書をご覧になることをオススメ致します。


 (参考資料)
   現地案内板


  【吉見百穴】

   所在地:             比企郡吉見町北吉見327
   入場料:  中学生以上 ¥300  小学生 ¥200 小学生未満 無料
   休園日:                   年中無休


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 江戸時代末に、独笑庵立義という人物が記した『川越松山巡拝図誌』に、百穴の簡単な紹介が記されており、すでに土地の人々から百穴と呼ばれていたことが分かります。

 明治10年(1877)、オーストリア公使・ヘンリー・シーボルト(シーボルト事件で有名なシーボルトの子)や、明治15年(1882)、大森貝塚発掘で知られるモースも百穴を訪れています。
 
 シーボルトはアイヌ人の住居だと言い、モースは朝鮮人の墓と推測しましたが、正式な発掘を行うことなく時は過ぎ、明治20年(1887)、東京大学大学院生・坪井正五郎は卒業論文の一環として吉見百穴を試掘。十数日で69の横穴を発掘、その後230余の石室を掘り出している。

 発掘に協力した地元郷土史家・根岸武香は日記に、「…雑木ヲ抜出シ、草莽ヲ剪除シ、山骨ヲ裸露スルニ至リタレバ、穴孔層々併列スルモノ判然見ルベク、之ヲ遠望スレバ蜂巣ノ如ク、亦石室層楼ノ窓戸ヲ列開スルニ似タリ…先生一大快事ナラズヤ…」と記しています。

 坪井は『東京人類学会雑誌』に、「この穴は住居・墳墓、若しくは倉庫等に使われていたものと思われる。…原始時代に土蜘蛛(コロポックル人)が穴居生活をしていたそうだから、その人たちの住居だと考えた方がよいかもしれない」とコロポックル住居論を提唱した。


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 しかし、坪井の同志であった白井光太郎は、「住居とするだけの十分な証拠がなく、土蜘蛛も存在も確認出来ない。薄葬令が出された時期と穴建設時期が概ね一致する」ことから、横穴は墓であるとした。

 こうしたコロポックル論争は、大正2年(1913)、坪井の死によって終息し、集合墳墓であるとする説が定説となった。吉見百穴は古墳時代後期(6世紀〜7世紀頃)に築造された横穴墓として決着をみるのである。


 太平洋戦争中には、中島飛行機地下軍需工場建設のため、最下部に直径3mほどの大きなトンネルが基盤目状に掘られ、付近を流れる市野川も河川改修も行われている。この際、3000〜3500人の朝鮮人労働者が強制連行などによって動員されたことは、吉見百穴が戦争遺跡としての一面を有していることを示すものであり、現在を生きる我々はその歴史的事実から目を背けることなく、今後も朝鮮の方々と歴史を共有して良い関係を育んでいかねばならないことを忘れてはならないと思う。


 また、仮面ライダーやウルトラマンといった特撮のロケ地としても吉見百穴が活用されていたことを最後に述べておく。百穴が悪の秘密結社のアジトといった雰囲気を有しているからであろう。当時を懐かしんで訪れるといった人も多いと思われる。


 様々な観点から吉見百穴は考えることの可能な遺跡である。考古学上、非常に良い研究材料になるのではないでしょうか。


 (参考資料)
  吉見の百穴              金井塚良一               埼玉県比企郡吉見町役場
  現地案内板


  【箕田二号墳】

   所在地: 鴻巣市箕田字九右衛門1260


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 『新編武蔵風土記稿』には、「社の後に小塚あり、高さ六、七尺幅十二、三間、往年土人此塚を穿ちしに、古鏡太刀などの朽腐せしものを得たり、これ古へ貴人を埋葬せし古墳なるべしといへり」と記されている。

 別名を「三士塚」。箕田古墳群第二位の規模を有する墳墓である。

 昭和58年(1983)、隣接地で発掘調査が実施され、墳丘を巡る周濠が検出している。周濠からは須恵器有蓋高坏、甕片、埴輪片が出土しています。

 この発掘調査によって、墳丘は直径32mの大型円墳であったこと、遺物から築造年代は6世紀後半と推定されています。

 現在の墳丘長は23m、高さ3m。

 
 日本史跡研究会、平成30年度第1回研修『比企縦断』に先立って訪れました。この「箕田二号墳」の南側、現在は住宅地ですが、箕田館跡の推定地でもあります。

 最近、なかなか城館跡が巡れていないこと、考古学的な史跡は可能な限り踏査しておきたいとの思いで研修前に訪問しました。
 
 城館跡としての箕田館跡・推定地は遺構もないですが、それでもいいんです。これも一つの城館跡ですからぁ

 (参考資料)
  現地案内板


  【丸墓山古墳】

   所在地: 行田市埼玉


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 墳丘径105m、墳丘高18.9mの円墳で、円墳としては全国規模2位。

 石室などの本格的な発掘調査は行われていないが、墳丘表面を覆っていた葺石や埴輪類が出土していることから、これら出土遺物から築造年代は6世紀前半と推測されている。

 『新編武蔵風土記稿』には、麿墓山と記載されている。

 
 さて、この「丸墓山古墳」をするのに、古墳として更新するか?はたまた城館跡扱いで更新するか?悩みましたが…やっぱり「丸墓山古墳」は古墳として更新しちゃいました。

 しかし、忍城攻めの際、丸墓山古墳は陣として用いられたことは事実ですから、それにも触れねばなりませんね。


 永禄2年(1559)、忍城攻略するために長尾景虎が丸墓山に陣を置き、攻略の指揮を執っています。

 そして、「のぼうの城」で一躍有名になったのが、天正18年(1590)、石田三成が忍城水攻めを行った際にも本陣を置いたとされるが、『埼玉県の中世城館跡』には、古墳南方1キロの地点を石田陣屋址としており、丸墓山は物見として使用されたのだろう。

 水攻めの際に築かれた「石田堤」。丸墓山に向かう途中の道も堤址である。


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 『北条五代記』では、単に水攻めを行ったと記され、『北条記』には、「この城は炎天下では水が干上がって困ることがあったのだが、水を溜めてもらったのでかえって助かり、城方はみな満足した」と記され、堤防決壊についてまったく触れられていない。

 『関八州古戦録』には、「人馬溺死に及ぶもの若干」と記され、一般的に数百人が溺死したとされているが、実際には多くの犠牲者が出ることはなかったようである。

 現在流布されていることは、後世に石田三成の業績を悪く言うためであろう。

 
 (参考資料)
  現地案内板

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