【吉見百穴】
所在地: 比企郡吉見町北吉見327
入場料: 中学生以上 ¥300 小学生 ¥200 小学生未満 無料
休園日: 年中無休
江戸時代末に、独笑庵立義という人物が記した『川越松山巡拝図誌』に、百穴の簡単な紹介が記されており、すでに土地の人々から百穴と呼ばれていたことが分かります。
明治10年(1877)、オーストリア公使・ヘンリー・シーボルト(シーボルト事件で有名なシーボルトの子)や、明治15年(1882)、大森貝塚発掘で知られるモースも百穴を訪れています。
シーボルトはアイヌ人の住居だと言い、モースは朝鮮人の墓と推測しましたが、正式な発掘を行うことなく時は過ぎ、明治20年(1887)、東京大学大学院生・坪井正五郎は卒業論文の一環として吉見百穴を試掘。十数日で69の横穴を発掘、その後230余の石室を掘り出している。
発掘に協力した地元郷土史家・根岸武香は日記に、「…雑木ヲ抜出シ、草莽ヲ剪除シ、山骨ヲ裸露スルニ至リタレバ、穴孔層々併列スルモノ判然見ルベク、之ヲ遠望スレバ蜂巣ノ如ク、亦石室層楼ノ窓戸ヲ列開スルニ似タリ…先生一大快事ナラズヤ…」と記しています。
坪井は『東京人類学会雑誌』に、「この穴は住居・墳墓、若しくは倉庫等に使われていたものと思われる。…原始時代に土蜘蛛(コロポックル人)が穴居生活をしていたそうだから、その人たちの住居だと考えた方がよいかもしれない」とコロポックル住居論を提唱した。
しかし、坪井の同志であった白井光太郎は、「住居とするだけの十分な証拠がなく、土蜘蛛も存在も確認出来ない。薄葬令が出された時期と穴建設時期が概ね一致する」ことから、横穴は墓であるとした。
こうしたコロポックル論争は、大正2年(1913)、坪井の死によって終息し、集合墳墓であるとする説が定説となった。吉見百穴は古墳時代後期(6世紀〜7世紀頃)に築造された横穴墓として決着をみるのである。
太平洋戦争中には、中島飛行機地下軍需工場建設のため、最下部に直径3mほどの大きなトンネルが基盤目状に掘られ、付近を流れる市野川も河川改修も行われている。この際、3000〜3500人の朝鮮人労働者が強制連行などによって動員されたことは、吉見百穴が戦争遺跡としての一面を有していることを示すものであり、現在を生きる我々はその歴史的事実から目を背けることなく、今後も朝鮮の方々と歴史を共有して良い関係を育んでいかねばならないことを忘れてはならないと思う。
また、仮面ライダーやウルトラマンといった特撮のロケ地としても吉見百穴が活用されていたことを最後に述べておく。百穴が悪の秘密結社のアジトといった雰囲気を有しているからであろう。当時を懐かしんで訪れるといった人も多いと思われる。
様々な観点から吉見百穴は考えることの可能な遺跡である。考古学上、非常に良い研究材料になるのではないでしょうか。
(参考資料)
吉見の百穴 金井塚良一 埼玉県比企郡吉見町役場
現地案内板
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