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【武田氏一族の墓域】
所在地: 比企郡小川町上横田1215 輪禅寺境内
慶長13年(1608)、川窪信俊が父である武田信實の追福と子孫一族の菩提寺として、この地に建立されていた安養寺を廃して、新たに一機山輪禅寺を建立開基した。
川窪信俊は武田信玄の甥にあたる人物であり、甲斐国川窪を領していた。
天正10年(1582)、武田氏滅亡に際して、徳川家康に召し抱えられ、天正19年(1591)、武蔵国比企・賀美両郡のうちに領地を与えられている。
( 輪禅寺本堂 )
元和3年(1617)、横田郷内540石が与えられ、寛文4年(1664)、四代・川窪信貞の代に武田の旧姓に復している。
元禄10年(1697)、丹波国に領地替えとなったが、輪禅寺はその後も武田氏菩提寺であり、嘉永元年(1848)7月に没した武田信禄まで十代の墓所となっている。
境内に東西・南北約18mの正方形に区画された地が、「武田氏一族の墓域」である。
天正3年(1575)銘の武田信實墓石から万延元年(1860)銘の墓石、一族50基の墓石が建てられている。
ここは近世の宝篋印塔の変化を見て取るには良い題材である。また、武田家再興という歴史的事実から武田氏の歴史を語ることのできる地であると思う。
(参考資料)
小川町の文化財 小川町教育委員会
現地案内版
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埼玉県の史跡
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【仙覚律師遺跡】
所在地: 比企郡小川町大塚351
仙覚律師は建仁3年(1203)、常陸国に生まれたと伝わり、萬葉学者慈覚門人で天台宗の僧侶だと言われています。
鎌倉比企谷・新釈迦堂に居した律師は、寛元4年(1246)、鎌倉摂家将軍・藤原頼経の命により、源親行の萬葉集書写本を底本として十数種の異本を参照の上、読み方の分からなくなっていた152首を新たに読めるようにし、建長5年(1253)、『仙覚奏覧状』とともに後嵯峨上皇へ献上している。
上皇は喜び仙覚律師の歌一首を『続古今和歌集』に載せ、さらに御製一首を賜ったといわれます。
その後も仙覚律師は萬葉集校訂を続けるが、喧騒な政治の中心地である鎌倉を離れ、武蔵国比企郡増尾に移ったという。
文永6年(1269)4月2日、『萬葉集注釈』10巻を完成させたが、萬葉集基礎研究の画期的な大業績を成し遂げた場所が増尾であることが、第二巻、第六巻、第十巻に記入されており、第十巻巻末には、「文永六年孟夏二日於武蔵国比企郡北方麻師宇郷政所註之了 権律師仙覚 印」と記されている。
麻師宇郷は、現在の増尾を中心とした地域といわれるが、政所の所在地にはニ、三説ある。
仙覚律師は比企地方と深いゆかりがあることから、比企氏出身であるともされている。
「仙覚律師遺跡」は中世城館跡である「中城跡」にあるのだが、ここは細分化しての紹介とした。中城は猿尾太郎種直の居城であったとも伝わり、麻師宇➡猿尾➡増尾という地名となったとも考えられる。
(参考資料)
小川町の文化財 小川町教育委員会
現地案内版
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【小栗忠政一族の墓】
所在地: さいたま市大宮区大成町2−402 普門院境内
小栗忠政は徳川家康に仕え、小栗党と呼ばれた一族郎党を率いて、駿河侵攻、小牧・長久手の戦い、関ケ原の戦い等で多くの戦功を挙げたことから、武州足立郡大成村550石を含む2550石の旗本となった。
忠政は元和2年(1616)、大坂の役での鉄砲傷がもとで没し、普門院に葬られた。
忠政の長男・政信が2000石を継ぎ、次男・信由は上総長柄郡に200石を加増され都合750石を領することとなる。
延宝元年(1673)から明和5年(1768)までは天領となっていたが、再び小栗家が大成を拝領し、明治維新を迎えるまでこの地を統治しています。
そんな関係もあって、小栗忠政一族は普門院を菩提寺と定め、忠政夫妻、信由一族、忠政三男・信友夫妻など本家・分家併せて30基に及ぶ一族の墓があります。
(参考資料)
現地案内板
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【板石塔婆】
所在地: 本庄市児玉町児玉202 玉蓮寺境内
児玉時国供養のために建立されたという伝承の残る板碑であり、高さ240㎝、幅54㎝、厚さ6㎝。
板碑上部に三弁宝珠三点、釈迦如来の種子を薬研彫りして蓮台上に置き、その下二行に法華経の偈文があり、板碑下部四行には銘文が刻まれている。
銘文には、能宗・成阿と刻まれているのは、武蔵七党・児玉党一族の名と思われ、地主・在地出家と刻まれ、文献上極めて貴重な史料と言える。
板碑中央最下部には、嘉元2年(1304)という紀年銘があり、建立年が明らかとなっている。
埼玉県は板碑の宝庫である。板碑研究にはうってつけの場所といえるだろう。
城館巡りをするものにとって、板碑は貴重な史料であることから抑えることが望ましい。とはいえ、指定されていない板碑を探すこともなかなか骨は折れるのですが…。
(参考資料)
児玉町の文化財 児玉町教育委員会
現地案内板
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【金蔵院宝篋印塔】
所在地: 比企郡吉見町大串2201−3先
永和2年(1376)銘の宝篋印塔。「伝大串次郎重親塔」とも呼ばれる。
『新編武蔵風土記稿』には、編纂された文化・文政年間当時から地元の人々の間で大串次郎の墓であるという伝聞があったことが記されている。
大串次郎重親は平安時代末期から鎌倉時代初頭、畠山重忠の家臣として活躍した人物であり、宝篋印塔の永和銘からは150年ほどの開きがあることから、後世に創作されたものであると考えられていました。
平成11年(1999)、宝篋印塔保存修理および覆い屋設置工事に伴う発掘調査の際、宝篋印塔の地下から、人骨が納められた十二世紀末から十三世紀の中国産の白磁四耳壺、十二世紀後半の愛知渥美産の大甕が出土した
白磁四耳壺は欠損がなく、高さ20.9㎝、最大幅17.3㎝。大甕は高さ58.4㎝、口径45.1㎝、胴部最大幅67.9㎝、底径15.3㎝。
大甕は白磁四耳壺の外容器として使用されていた。
出土した人骨は男性で壮年後半と推測されている。
この出土した人骨が大串次郎重親のものであるかは解明は不可能であろう。しかし、中国製の白磁が用いられていること(中国産の白磁は威信財として貴重なものである)から、由緒正しき人物の墓であることは間違いないことであろう。
(参考資料)
現地案内板
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