日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

神奈川県の史跡

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  【世界三大記念艦「みかさ」】

   所在地:        横須賀市稲岡町82−19 
   観覧料:  一般 ¥600 シニア ¥500 高校生 ¥300
   休艦日:          12月28日〜31日


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 敷島型戦艦四番艦で、奈良県若草山(三笠山)から命名された。日清戦争後の軍拡の中、《六六艦隊計画》の一環として建造されている。

 明治35年(1902)3月1日、英国ビッカース造船所で竣工され、明治36年(1903)12月28日、大日本帝国連合艦隊旗艦となった。三笠は当時の最新鋭の戦艦であり、連合艦隊司令長官・東郷平八郎が乗艦指揮することとなった。

 明治37年(1904)8月10日、ロシア帝国旅順艦隊との黄海海戦で勝利を収め、明治38年(1905)5月27日、ロシア帝国バルチック艦隊を対馬沖に迎撃した日本海海戦では、常に連合艦隊の先頭に立ち、敵艦の集中砲火を浴びながらも戦い抜き、歴史的大勝利に三笠は大きな貢献を果たしています。しかし、日本海海戦では113名の戦死者が出てしまっています。

 日露戦争終結直後、佐世保港内で後部爆薬庫の爆発事故によって339名の死者を出し、三笠は沈没三笠は予備艦となり、明治39年(1906)、浮揚された後に修理が行われ、明治41年(1908)、第一艦隊旗艦として現役に復帰している。

 その後の三笠は輝かしい戦歴とはいかず…第一次世界大戦では日本海での警備、シベリア出兵に参加も支援という形、さらには大正9年(1920)、尼港事件では約700名の日本人、数千人のロシア人を救援出来ず大正10年(1921)、濃霧の中を航行中に座礁ワシントン軍縮会議で廃艦決定後の大正12年(1923)、関東大震災では岸壁に激突し大浸水して除籍されている。


 その後、連合艦隊旗艦としての栄光の歴史から三笠は記念艦として保存することとなり(軍縮条約に基づき現役復帰不可能な状態であることを条件とした)、大正15年(1926)11月12日、記念艦として保存された。

 第二次世界大戦中、横須賀も空襲や機銃掃射を受けたが三笠は被害を免れている。しかし、戦後の混乱の中、切断可能な金属はガスバーナーで切断されて盗まれ、木材は薪や建材として盗まれ荒廃することとなる。

 東郷平八郎を敬愛していたアメリカ海軍元帥・ニミッツはこれを憂い、三笠保存のための募金を行うなどの尽力を行い、昭和36年(1961)、復元され展示公開されている。


 三笠というと日本海海戦での華々しい戦歴が知られるが、その後はあまり知られていない。二度に亘る沈没や戦後のゴタゴタなど記述すればいろいろ出てくるが、それは止めておきたい。

 当時の人々に愛され、記念艦として保存されることとなった三笠。戦争を考える意味でも三笠は貴重な史跡ではないだろうか?
 

 (参考資料)
  現地配布パンフレット
  現地案内板


  【徳田屋跡】
  
    所在地: 横須賀市東浦賀2−7−6


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 浦賀は宿場町ではなく、船乗り以外の旅人を宿泊させることは原則禁止でした。しかし、通行手形を持っているなど身元の確かな人は、村名主に頼めば泊まれる家を紹介してくれ、そこに宿泊することが許されていました。

 浦賀を訪れる人が少なかった間は、この方法で対応可能でしたが、浦賀が江戸湾防衛の最前線となった幕末になると、商人や文化人に加えて、各藩の武士たちが大勢訪れるようになりました。

 商人や文化人は、親類縁者を頼って宿泊し、各藩の武士で浦賀商人と取引があれば、そこを頼りに宿を取りました。

 親類縁者など全くつての無い者も浦賀を訪れるようになったことから、宿泊場所の確保は切実な問題となりました。

 
 文化8年(1811)3月、東浦賀に3軒の旅籠が幕府より初めて許可されました。西浦賀に関しては記録が残りませんが、同時期に許可されたものと考えられます。

 徳田屋には多くの武士や文化人が宿泊したことが明らかで、吉田松陰の日記には、ペリー来航時の対応策について、徳田屋からの情報をもとにして、師である佐久間象山らと協議したことが記されています。

 万延元年(1860)、桜田門外の変で、大老・井伊直弼を暗殺した水戸脱藩浪士の残党が立ち回る可能性があることから、どの旅籠にも奉行所の役人が来て、宿泊人全員の厳重な取り調べを行う手はずとなっていました。徳田屋も例外ではなかったのですが、房総から来た七名の客を「明朝の取り調べが済むまでは止めておくように」と浦賀奉行所からの指示があったにもかかわらず、何故か出発させてしまい、奉行所から厳重注意を受けています。

 徳田屋は浦賀船番所の船改めを受けずに、房総半島への直行便があり、特色のひとつであった。

 大正12年(1923)、関東大震災まで徳田屋は存続しています。


 今は石碑が建っているのみの「徳田屋跡」。吉田松陰ら幕末の志士との交流があった徳田屋主人。彼もまた草莽の志士であったのかもしれませんね。
 浦賀奉行所の取り調べから七名を無断で出発させてしまったこと、誰であったのかは不明ですが想像するのも面白いかもしれません。


 (参考資料)
  現地案内板


  【陸軍桟橋】

   所在地: 横須賀市西浦賀1


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 昭和20年(1945)8月15日、悲惨な太平洋戦争は終戦を迎え(樺太や中国北部ではソ連との戦闘は継続じていたことを忘れてはなりませんが…)、中国大陸や南方諸地域などから56万余人の引揚者を、浦賀港は引揚指定港として受け入れました。

 10月7日、第1船である氷川丸に続き、続々と引揚船が入港しますが、祖国の地を目前にしながら船内では栄養失調や疫病に倒れる人々が数多くいました。
 特に沖合に停泊中、船内でコレラが発生し、船内にいた乗組員や引揚者に対して、かつてないほどの大防疫が実施されたと記録が残されています。

 昭和22年(1947)5月、浦賀引揚援護局は閉鎖し、引揚港としての役割を終えることとなりましたが、桟橋は当時のまま現在も保存され、今では絶好の釣り場として多くの人々のレジャーの場となっています。


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 平成18年(2006)、横須賀市制施行百周年記念事業の一環として「浦賀港引揚記念の碑」が建立され、引揚げとコレラ等の防疫に携わった全ての人々へのねぎらいと感謝の意を表し、またこの地で倒れた幾多の御霊に弔意を伝え、恒久平和の願いを後世に伝えようとしています。

 太平洋戦争も遠い過去の歴史になってしまったのかもしれません考古学の世界でも戦争考古学という分野が確立し、戦争遺跡の調査研究が行われるようになりました。
 しかし、これからも人々の心の中に「自分が戦場に行くことになったら?」とか「子供や恋人が戦場に行くことになったら?」といった具合に戦争を自らのこととして考えれば、恒久平和は保たれるでしょう。
 そういったことを考えるためにも、こうした戦争の記憶を呼び起こさせる場所へ行くことはこれからも必要なことだと考えます。


 (参考資料)
  歴史のまち・浦賀                   浦賀コミュニティセンター分館
  浦賀港引揚記念の碑 碑文
  現地案内板

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