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【河崎堀之内跡】 評価
別 名: ―――
所 在 地: 川崎市川崎区堀之内町
築城年代: 平安時代末期
築 城 者: 河崎基家
区 分: 館
現 状: 宅地・稲毛神社
平安時代末期、桓武平氏の流れを汲む、武蔵七党の秩父氏の一族である河崎基家によって築かれたとされる。
廃城時期など詳細な歴史は不明である。
この堀之内、全国的にも著名な歓楽街に立地していることから、時間帯によっては女性のみでの訪問はお薦め出来ない城館跡であります。
そうしたことから、城館跡を紹介しているHPは隣接する川崎市川崎区宮本町に鎮座する「稲毛神社」を紹介しています。
本ブログも当然のことながら、稲毛神社拝殿を掲載しております。稲毛神社境内にある由緒書に堀之内についての簡単な記述があります。
なお、日本城郭体系の記述では、堀之内町の真福寺一帯が堀ノ内跡との記述もあり、実際のところ所在地の正確な場所は明らかとなっていない。
(参考資料)
日本城郭体系 6 千葉・神奈川 新人物往来社
現地案内板
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神奈川県の城館跡
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【間宮豊前守信盛館】 評価
別 名: 川崎塁
所 在 地: 川崎市川崎区砂子1−4−3
築城年代: 永正・大永年間(1504〜1528)
築 城 者: 間宮豊前守信盛
区 分: 館
現 状: 宗三寺・京急川崎駅
もともとこの地は渋谷氏の祖・河崎基家、その子平三重家の領地であったが、室町時代に入り、室町幕府の功臣である佐々木高綱の一族が領したという。
永正・大永年間(1504〜1528)、近江源氏佐々木氏の後裔であり、伊勢宗瑞・北条氏綱に仕えた間宮豊前守信盛によって館が構えられたとされる。
天正18年(1590)、北条氏が滅亡すると、間宮一族の多くは関東入封した徳川家康に仕えることとなった。間宮氏旧領各所に陣屋を構えているが、川崎の名はその中には見られないことから、この時期に廃されたと思われる。
『新編武蔵国風土記稿』には、「川崎塁」の記載があり、「間宮豊前守信盛が居住せし所なり」と記されている。
間宮氏は著名な間宮林蔵、さらには『解体新書』杉田玄白も間宮氏の後裔であり、優秀な一族である。
境内には、元和元年(1615)、大坂の役で敗れ牢人となり川崎に土着した「波多野伝右衛門一族の墓」があります。
伝右衛門は馬込屋という油問屋を営んでいる。
さらに、
川崎宿貸座敷組合によって建立された「遊女の供養塚」もある。川崎宿遊女ということは、飯盛女であろう。
こうした史跡も大切にしたいものである。
(参考資料)
現地案内板
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【浦賀奉行所跡】
別 名: ―――
所 在 地: 横須賀市西浦賀5−17
築城年代: 享保5年(1720)
築 城 者: 江戸幕府
区 分: 奉行所
現 状: 現在発掘調査中
享保元年(1716)、徳川吉宗が将軍の座につくと、幕府は経済体制の見直しを図り、その一環として、下田奉行所を廃止して浦賀に江戸への商品チェックポイントにすべく、浦賀への奉行所建設検討を開始している。
当初の計画では、東浦賀に奉行所を建造する青写真を描いたのであるが、これを知った住民たちは奉行所設置絶対反対の運動を展開
住民の強い反対に幕府は計画を変更
再度計画を練り直し、享保5年(1720)12月、現在の地に浦賀奉行所は建設されたのであった。この時の責任者は最後の下田奉行・堀利喬である。
浦賀奉行所は、その付属機関として「浦賀船番所」を置き、俗に言う入り鉄砲に出女を取り締まったのみでなく、江戸へ運ばれる生活必需品にも目を光らせるが、これは先に
その後の浦賀奉行所は異国船が浦賀沖に頻繁に来航するようになったこともあり、異国船への警備・応接の役割が追加されます。
文政元年(1818)、イギリス商船・ブラザーズ号が来航したのを皮切りに、江戸湾防衛は急務となる。
文政8年(1825)、幕府によって異国船打払令が出され、天保8年(1837)、太田資統が奉行の時に、アメリカ商船・モリソン号が来航するとこれを砲撃している。東京湾で外国船に向けて砲撃が行われたのは、太平洋戦争が終わるまでの約130年間で最初で最後の事件であり、モリソン号事件として知られています。
天保13年(1842)、幕府の方針が薪水給与令へと転換し、弘化2年(1845)、アメリカ捕鯨船・マンハッタン号が漂流民とともに来航した際には、特別措置として漂流者の浦賀上陸を認めている。
弘化3年(1846)、アメリカ軍艦・コロンバス、ヴィンセンス号が来航したが、もっとも有名なのは、嘉永6年(1853)、ペリー来航であろう。
この際、戸田氏栄が奉行であり、アメリカ大統領からの親書を久里浜で受け取ったのであるが、浦賀奉行所与力・中島三郎助は応接掛として米艦に乗り込み、折衝の任にあたりながら、艦内を見て回っている。
この中島の行動が、嘉永7年(1854)、日本初の洋式軍艦である鳳凰丸建造に大いに役立ったことはあまり知られていない。中島三郎助に関しては後日に詳しく述べたいと思う。
その後、安政6年(1859)、神奈川奉行所が開設され、異国船応接の役割が委譲され、慶応4年(1868)、明治維新によって浦賀奉行所は新政府によって接収されて廃されている。
(参考資料)
浦賀奉行所と与力・中島三郎助 浦賀コミュニティセンター分館
現地配布パンフレット
現地案内板
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【浦賀城跡】 評価
別 名: ―――
所 在 地: 横須賀市東浦賀(2)
築城年代: 弘治2年(1556)頃
築 城 者: 北条氏康
区 分: 山 城
現 状: 山 林
弘治2年(1556)頃、後北条氏の関東進出を狙って、三浦半島に度々侵入していた里見水軍に対応するため、北条氏康が水軍強化と里見氏の動向を監視する目的で浦賀城を築いたとされる。
『小田原衆領役帳』によれば、正木兵部大輔、小山三郎右衛門、愛州兵部少輔などが城将であった。愛州兵部はもと紀州熊野水軍出身で定海賊と記されています。愛州は正規の後北条氏の家臣である一方、小山三郎右衛門は海賊と記され、後北条氏の夫役を負うことで、年貢等免除される土豪的な武士であったようです。
永禄6年(1563)、北条氏政は里見氏の拠点のひとつである和田城攻略のため、1万騎を浦賀から出陣させており、兵員輸送と海上制圧の任に浦賀水軍が当たっています。
天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、浦賀水軍は伊豆水軍の救援に向かっている。しかし、後北条氏滅亡によりその役割を終えて廃されています。
東叶神社裏山が城址であり、遺構として曲輪・堀切が確認出来る。また、東叶神社・法幢寺・東林寺は同じ高さの台地に建っていることから、浦賀城の曲輪跡に建立されたことが想像されている。
三崎城よりも房総半島を望むことが可能ですから、里見水軍の動向を感知しやすい上、浦賀港は入り江であることから兵船を停泊するには絶好な場所に築かれたのが理解出来ます。
(参考資料)
日本城郭体系 6 千葉・神奈川 新人物往来社
現地案内板
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【浦賀船番所跡】 評価
別 名: ―――
所 在 地: 横須賀市西浦賀1−11−1
築城年代: 享保5年(1720)
築 城 者: 江戸幕府
区 分: 番 所
現 状: よこすか浦賀病院
享保5年(1720)、伊豆・下田奉行所が移転され、新たに浦賀奉行所が設置され、船の積み荷と乗組員の検査をする船番所が奉行所の出先機関として設置されました。船改めは下田と東西浦賀の廻船問屋105軒に委託されています。
享保6年(1721)2月、船改めが開始され、単なる船の関所としての「入り鉄砲に出女」を取り締まるのみではなく、米・酒・味噌・油・炭・薪・綿等の生活必需品の流通過程チェックポイントとして目を光らせ、浦賀通過数は3ヶ月毎に江戸に報告された。
さらに、江戸への出入り船には、大きさに応じて石銭という税金や船乗りの人数に応じた問屋料が徴収された。
石銭は廻船問屋の収入や城ケ島などのかがり火
浦賀奉行所の役人は、船改めや関銭徴収実務を行う廻船問屋の監督を行っています。
慶応4年(1868)閏4月、浦賀奉行所は明治新政府に接収されますが、船番所での船改めは明治5年(1872)まで引き続き行われていました。
現在では、病院敷地となっており、船番所の遺構は残されていない。しかし、案内板があるだけでも歴史を後世に伝えるという意味では良いと思う。
(参考資料)
浦賀奉行所と与力・中島三郎助 浦賀コミュニティセンター分館
浦賀奉行所 現地配布パンフレット
現地案内板
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