日本史跡研究会 日々の徒然・改(埋もれた歴史を訪ねて)

全国各地の埋もれた史跡をご紹介致します。また、研究会活動についてもご紹介しております。

大阪府の城館跡

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  【坂上廣野麿屋敷跡】           評価  

   別   名:        ―――
   所 在 地:  大阪市平野区平野本町3−4
   築城年代:    延暦19年(800)頃
   築 城 者:       坂上廣野麿
   区   分:         屋 敷
   現   状:         宅 地


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 延暦19年(800)頃、蝦夷との戦いで武功を挙げた坂上田村麻呂の第二子である坂上廣野麿は、朝廷から坑全庄を賜り、この地に屋敷を構えた。

 廣野麿は嵯峨・淳和天皇の二代に仕え、右兵衛佐に任じられ、この地に永住。天長5年(828)3月9日、没している。

 その後も坂上氏は代々この地を領有し、民部を名乗り人々からは平野殿と呼ばれたという。

 地域の発展とともに子孫は広がり、平野七名家となっている。


 明治41年(1908)、当主・廣慶氏が亡くなると相続人は北海道に移住し、屋敷は平野七名家が管理していたが屋敷は荒れるにまかせていた。

 昭和58年(1983)、屋敷は老朽化によって取り壊され、その跡地に石碑が建立されている。


 平安時代から続く坂上家は平野の地に二十余年前まで屋敷を構えていたというのは驚きである。今ではその一角に石碑が建つのみで遺構などはないが、悠久の歴史がそこにはあるように感じる屋敷跡であった。


 (参考資料)
  現地案内板


   【平野環濠跡】             評価  

    別   名:           ―――
    所 在 地:  大阪市平野区平野宮町2−1−67
    築城年代:
    築 城 者:
    区   分:           環濠集落
    現   状:        杭全神社・宅地


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 15世紀末以降、周辺の町や村落の多くが環濠によって自衛のために環濠を築いたとされる。環濠には灌漑・排水用あるいは洪水の調整池としての役割を有していたものも存在する。

 平野環濠集落の規模は、堺に次いだもので、土居と濠が二重に巡らされ、基盤目状の町割りがなされ、大小13の木戸があり、八尾・古市・堺等へ放射状に道路が伸びていました。濠は平野川と通じていたことから、舟運が開かれ、繁栄し柏原船の発着で賑わったという。


 戦国時代には、三好氏の侵攻によって陣所となったり、織田信長の行軍にさらされるなど幾多の戦乱に見舞われた。これは平野環濠の交通の要衝という場所柄によるものである。

 天正11年(1583)、豊臣秀吉の蔵入地となり、平野の豪族・末吉勘兵衛に150石を与えている。

 慶長年間(1596〜1615)、高台院領となった。

 慶長19年(1614)、大阪冬の陣では東軍の支配下となり、徳川秀忠の陣所として利用されている。

 翌慶長20年(1615)、大坂夏の陣では後藤又兵衛基次が陣所としたことから、藤堂高虎隊によって街の大部分が焼失している。

 戦後は徳川家の直轄地となり、末吉安吉を代官として新しい町割りがなされて復興。その後、川越藩・高崎藩・古河藩などの分地領となっている。


 環濠集落自体は明治12年(1879)まで存続していたが、現在では杭全神社北側と赤留比売命神社背後の土塁に面影を残すのみである。

 
イメージ 2
                          (杭全神社境内に立つ城址碑)

 関西には数多くの環濠集落が知られる。そんな環濠集落の一つである「平野環濠跡」。杭全神社北側に残る環濠の一部は良好に残り、ある種の感動を覚えた。

 そんな環濠集落に多くの人々が注目してもらいたいものである。


 (参考資料)
   日本城郭体系 12 大阪・兵庫                         新人物往来社
   杭全神社配布パンフレット
   現地案内板


  【楼の岸砦跡】            評価  

   別   名:       ―――
   所 在 地:  大阪市中央区石町2−2
   築城年代:     元亀元年(1570)
   築 城 者:      織田信長
   区   分:        平 城
   現   状:      坐摩神社


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 元亀元年(1570)、織田・徳川連合軍浅井・朝倉連合軍が激突した姉川の戦いが行われていた頃、阿波国から三好三人衆が信長不在の隙に乗じて野田・福島に砦を築いた。

 浅井・朝倉連合軍を撃破した信長は、これを迎え撃つべく天王寺に布陣し、天満・川口・渡辺・神崎・難波などに諸将を陣取らせた。また、足利義昭も信長からの要請に抗しきれず、細川藤考の中嶋城に入っている。さらに信長方となった松永久秀・三好義継も海老江砦を攻略し、三好三人衆を追い詰めていった。

 そんな野田・福島の戦いの最中に、織田信長が築いたのが「楼の岸砦」である。信長は稲葉良通・中川重政・斉藤新吾を守将としている。


 間もなく、石山本願寺が参戦すると、楼の岸砦は本願寺勢の鉄砲攻撃によって攻略され、順興寺住職・顕従上人が大将となり守備することとなる。

 本願寺勢は天王寺口の明智光秀・筒井順慶らを孤立させ、その救援に赴いた信長自身に手傷を負わせるも、反撃にあい、本願寺へと退却。信長も兵を引き上げます。


 天正8年(1580)、顕如が信長と和解し、石山本願寺を引き払うこととなるが、この時に砦は廃されたと考えられる。


イメージ 2


 坐摩神社が鎮座する地が「楼の岸砦跡」推定地であり、遺構は確認出来ない。

 河川交通に適した地であることから考えれば良い地に築かれた砦と思われる。一方、石山本願寺からもほど近く要害性は感じられないのも事実である。


 (参考資料)
  現地案内板


  【古河藩陣屋跡】                     評価 

   別   名:        平野陣屋
   所 在 地:  大阪市平野区平野宮町1−9
   築城年代:     安永9年(1780)
   築 城 者:        土井利厚
   区   分:         陣 屋
   現   状:       平野小学校


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 安永9年(1780)、下総国古河藩主・土井利厚が摂津・播磨59ヶ村の飛び地領12,635石の支配のために陣屋を構えた。

 明治2年(1869)、版籍奉還まで陣屋支配は続いています。


 平野小学校前に石碑が残されるのみですが、大念仏寺(大阪市平野区平野上町1−7−26)には「古河藩陣屋門」が移築されています


イメージ 2


 陣屋門は昭和2年(1927)まで平野小学校の校門として使用されていましたが、小学校舎新築拡張に伴い、地元住民の保存要望もあり、昭和37年(1962)1月、大念仏寺に移築されています。

 陣屋の唯一残された遺構であることから、大念仏寺にも足を延ばしてもらいたいですね


 (参考資料)
  日本城郭体系 12 大阪・兵庫                       新人物往来社
  新編 藩史総覧                                  秋田書店
  現地案内板

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