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神々の黄昏
新神名帳考証(この神社はどこの神社でしょう?お分かりになった方はゲストブックへ・・・・)

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出雲国風土記の大原郡条に記載される、大領勝部臣虫麿の末裔の勝部氏の系譜を
勝部氏が諏訪神の末裔であるという佐太神社社家の伝承と、中田憲信氏の系譜や
諏訪大社上社祝家の系譜等を用いて復元します。

まず、勝部臣の祖と言われる兎命以前の勝部臣の系譜では、菅公系譜において、
兎命は意宇宿禰の子に位置付けられていますが、勝部臣が諏訪神の末裔である事から、勝部臣の系譜は東国の国造の
系譜から導かれると考える方が妥当だと考えます。

兎命(長谷朝倉朝[雄略朝]為勝部供奉 勝部臣祖)
多伎古
石足千野白猪小山麻呂虫麻呂

雄略朝の前代の允恭朝に、武蔵国造の系譜において忍敷命という名が見られ、
忍敷(允恭御宇為 勝部・刑部 負 刑部直祖)
と記載されています(
図の①)。

勝部氏が諏訪神の末裔であるならば、兎命の前代は武蔵国造の系譜に現れかつ、
勝部・刑部の職を負った
忍敷命と考えるのが自然です。

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中田憲信氏の諸系譜 東国諸国造 より2頁目

忍敷命は、勝部と刑部の職掌を負ったわけですが、②に見られる兄多毛比命の次の代に
現れる大鹿国直命が国造となった菊麻国の末裔は、刑部直を名乗っていました。
助丁刑部直三野という人が歌った万葉歌です。

百隈の道は来にしをまたさらに八十島過ぎて別れか行かむ(万葉集 巻20-4349)


上総国市原郡誌の中に含まれる明治村誌の奉免と明香の集落に関する記述に、
大鹿国直の子には、小鹿直命という名の人がいると記載があります。

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上総国市原郡誌(明治村)

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大鹿国直の伝承が残る妙香の苗鹿神社(みょうが神社と呼ばれている)

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小鹿命が葬られているという鹿子臺の石塚のある丘(市原郡誌は妙香にあるというが、実際は奉免にある)

この明治村の奉免と明香は、和名抄の上総国海上郡佐世郷にあたると考えられます。

出雲の勝部氏が出雲国大原郡佐世郷を本拠地にして諏訪神を祀っていたが、
後に大原郡木次郷の上久野に移住した事を考えると、この海上郡の「佐世郷」は
大原郡の佐世郷に勝部氏(刑部氏)が移住する前の拠点ではないかと考えられます。
細かい地名で見ても、大原郡佐世郷には、市原郡佐世郷の重要な地名が残っているのです。
出雲の佐世郷→上総の佐世郷

市井原→市原郡
明賀谷→妙香=苗鹿(みょうが)
大ガ谷→大鹿

また、和名抄が編纂された時代には、
上総の佐世は上総国海上郡の佐世郷でしたが、
佐世郷が菊麻国
造が最初に開拓した場所である事を考えると、市原郡の佐世郷であったのか
もしれません。


菊麻国の開拓者である大鹿国直は、大鹿国 という国を治めていた支配者という意味
しか持たず、個人名とは考えにくい名前です。

大鹿にまつわる古代氏族については、伊勢国河曲郡に、
延喜式神名帳に記載される
神社に大鹿三宅神社という「大鹿」の名を冠する神社があり、
伊勢国河曲郡は伊勢国造
であった中臣連の系譜の大鹿首らの拠点でした。


大鹿国直の祖先は、伊勢に拠点を持っていた伊勢津彦命であり、伊勢津彦は、
伊勢国造と同族であった天日別命に敗れて東国に退去した訳ですから、伊勢津彦が去る前から
大鹿という地名が存在して、
その地を支配した中臣氏が、地名から大鹿首を名乗ったと考えられます。

伊勢国河曲郡には伊勢国一ノ宮と謂われる、都波岐神社があり、東国の伊勢津彦命
の末裔が祀っていた猿田彦を祀っています。
河曲郡が元々は伊勢津彦の裔の拠点であった事がこの
ことからも証されます。

また、伊勢国河曲郡には、式内社の阿自賀(あじが)神社が存在しています。
出雲の勝部氏が祀っていた、佐太御子の母である、佐太神こと足日山に坐す秋鹿神(あしか)が
この伊勢国河曲郡に祀られていると考えられます。
(秋鹿と諏訪(http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/16694393.html)で指摘した
秋鹿神)

イメージ 3
阿自賀神社(鈴鹿市須賀町一丁目)

河曲郡の阿自賀神の祭祀を考えるに、大鹿国の大鹿は「オウガ」と訓みますが、元々は
伊勢津彦の一族が、秋鹿神に因んで、アシカと読んでいた言葉が訛って、オシカと読んでいた
ものが、中臣氏によってオウガと読まれるようになったのではないでしょうか。

愛宕(あたご)が出雲や京都の山代では「おたぎ」と読まれるのと同様の訛りです。

系譜の話に戻ります。菊麻国の開拓者である大鹿国直は、「大鹿国」 という国を治めていた
長官という意味しか持たず、個人名とは考えにくい名前です。そういう事を考えると、小鹿命
が実名ではないでしょうか。

宇志足尼という名前が見えますが、古代氏族系譜集成の又書きには、宇那毘足尼と記されます。
この人は、豊前国風土記に記される国前臣の祖先菟名手と考えられます。(大分県西国東郡の武蔵村史には、菟名手とは宇那足尼のこととする)国前には武蔵郷という和名抄に載る地名もあって、武蔵国造の子孫が国前に来た事を示唆しています。

この
菟名手命の名は、勝部氏が出雲国神門郡で本拠地とした塩治郷に「宇那手」という地名が
存在しています。従って勝部氏の系譜に載る人と考えるのは自然です。

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宇那手にある火守神社(杵築大社の上官の別火氏(財部氏)の祖先を祀る。向家文書では別火氏は八島士ノ身神を祖とするという

これらの考証から、勝部氏の系譜は、以下のよう系譜になると考えられます。

兄多毛比命(諏訪神氏の兄武彦)−大鹿国直(小鹿直)−宇志足尼(菟名手)−
筑麻呂
−忍敷命(勝部・刑部負)兎命(長谷朝倉朝[雄略朝]為勝部供奉 勝部臣祖)
多伎古
石足千野白猪小山麻呂虫麻呂

諏訪以前に関しても含めると、
以下のような系譜になると考えられます。

菅ノ八耳神−兄八島士ノ身−深渕ノ水遣花−天ノ冬衣(日御崎神社社家祖)
事代主
−鳥鳴海−国押富−田干岸丸身−布惜富取成身
簸張大科度箕
天日腹大科度美神
建美奈命−会知速男命−真曽我男命−武国彦命(建大臣命-諏訪国造)

兄多毛比命(諏訪神氏の兄武彦)−大鹿国直(小鹿直)−
宇志足尼(菟名手)−
筑麻呂
−忍敷命(勝部・刑部負)兎命(長谷朝倉朝[雄略朝]為勝部供奉 勝部臣祖)
多伎古
石足千野

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