教会学校(大人)

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牧師か漫才師か

-この箇所は、イエス様がサマリヤの女の人に伝道するところです。サマリや人はアッシリアの血が半分入っていたので人々からさげすまれていました。また当時、女性の地位は低かったので男性が女性に話すということはあまりありませんでした。
-つまりサマリ矢の女性は二重にさげすまれていたのです。その上に、この人は結婚を5回して6人目の人と一緒におり、それも人からさげすまれる要因でした。

-イエス様はそういう、世間から悪い人と思われる人を中心に伝道していました。なぜでしょうか。ひとつは、もちろん神様はすべての人を平等に愛しているということを伝えたかったのです。しかしこの平等に愛しているというのがなかなか思えないときがあります。
なぜならこの世で与えられているものは平等ではないからです。画家だってお気に入りの作品と、あまり好きではない作品があるなら神様にだって愛してはいてもお気に入りとお気に入りでない人もいるのではないかと思ったりします。しかしそんなことはありません。

それは神様だからです。神様は何でも自分の思い通りにするのができるお方です。画家ならば、できの悪い作品を作ってしまうことはあるかもしれませんが神様は常に自分の思い通りの作品を創ります。したがって私たちの目からは劣っているように見えても神様から見るとそうではないのです。

ちょうど、こんな風にいえると思います。後ろから神様の光があたっています。それは平等にすべての人にあたっています。だから振り向けばだれでも神様の恵みをえられます。一方自分の目の前にはおいしいごちそうがたくさんあります。神様を信じるとはそういう目の前のごちそうを振り切って神様のほうを振り向くみたいなのです。だから目の前にごちそうがない人のほうが向きやすいのです。このようにして、サマリヤの女性も世間からさげすまれていたのでより神様の方を向きやすかったのです。
皆さんも他の人と比べたら情けなく思うところが多々あるかもしれません。しかしそのために神様の方をまっすぐにむけるのです。人からさげすまれたときも、心の中で“ありがとう。あなたがそのようにしてくれたおかげで、もっと神様と近づくことができたわ”というふうにおもうと腹も立たなくなります。
パウロが言っているように自分の弱さを誇りましょう。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/bd/38/punpkinrorojp/folder/1458557/img_1458557_55460866_5?20080402000705.jpg

数週間前に主人が日曜学校でしてくれた話です。

その日彼は教会で証をしたんです。会社員から牧師の道にかわったとき悩みましたがこのときも悩んでしまいました。

彼には漫才師の方がよかったのか・・・(笑)

祈り

ここ何度かブログで主人のお茶目な(!?)面を紹介してきましたが、今日はまじめなお話。主人が昨日教会学校でしてくれたお話です。
聖書の箇所は
ルカ22:39−44
それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」といわれた。
そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいてこう祈られた。「父よみこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、私の願いではなく,みこころの通りにしてください。」すると御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

聖書はバランスが大切な要素になっています。必ずといっていいほど両面について述べています。
例えばお祈りするときもこの聖書の箇所ではひとりで集中して祈る事が書かれていますがマタイの18章20節ではみんなで集まって祈ることの大切さが書かれています。エペソ6章18節には《いつも継続して、祈ることの大切さ》が書かれています。
これは矛盾しているのではなくどれも大切であるのです。

《ひとりで集中して祈る》
《みんなで集まって祈ること》
《いつも継続して、祈ること》はどれも大切です。

これは祈りというのは私たちの一方的な要求ではなく神様と私たちのふれあいだからです。家族との交わりを考えてみてください。自分の家族と個人的に話し合うのも大切ですし、みんなで会って話し合うのも大切ですし、あえなくても電話や手紙でのやり取りも大切です。聖書全体が神様のメッセージなのです。あるところだけ強調すると、神様の本当の目的が見えなくなってしまいます。
話は今日の聖書の箇所に戻ってこの聖書の箇所には私たちの信仰生活において一番大切なところが42節に凝縮されています。

イエス様は罪を全く冒していなかったにもかかわらず十字架にかからなければなりませんでした。
ここからわかることは私たちの人生は私たちの思いを達成するためにあるのではなく、神様の思いを達成するためにあるということです。自分の思いを神様に祈ることはもちろんいいのです、ただそのときにすべてを神様に委ねなければなりません。

そして祈りは、こちらからの一方的な要求ではなく、こちらが祈ったあとは神様からの返答を待つことが大切なのです。ある人は5分お祈りをするとそのあと5分神様の声を待つそうです。
そして神様の思いは理解できても理由まではっきりわからないことがあるのです。神様は時間も空間も越えられすべての知識がある方なので私たちにとっては何故だろうと思うことが多いのです。

 私たち家族も何故いまこの地で学生生活をしているのかと疑問に思うことがあります。もちろん明確に神様が示してくれたので間違いないのですが、人間はその理由まで自分が理解できるようにはっきりしていないと気がすみません。
しかし理由はわからなくても神様に従うという従順さが必要です。

 今日息子が礼拝中に演奏した曲は“Forgiven” という曲でした。
歌詞は“私は赦された。主は私の罪をみて、わたしが負わなければならないことから救い出してくださった。私は主のあわれみによって、救われた”

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