教会学校(大人)
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ここ何度かブログで主人のお茶目な(!?)面を紹介してきましたが、今日はまじめなお話。主人が昨日教会学校でしてくれたお話です。 聖書の箇所は
聖書はバランスが大切な要素になっています。必ずといっていいほど両面について述べています。 例えばお祈りするときもこの聖書の箇所ではひとりで集中して祈る事が書かれていますがマタイの18章20節ではみんなで集まって祈ることの大切さが書かれています。エペソ6章18節には《いつも継続して、祈ることの大切さ》が書かれています。 これは矛盾しているのではなくどれも大切であるのです。 《ひとりで集中して祈る》 《みんなで集まって祈ること》 《いつも継続して、祈ること》はどれも大切です。 これは祈りというのは私たちの一方的な要求ではなく神様と私たちのふれあいだからです。家族との交わりを考えてみてください。自分の家族と個人的に話し合うのも大切ですし、みんなで会って話し合うのも大切ですし、あえなくても電話や手紙でのやり取りも大切です。聖書全体が神様のメッセージなのです。あるところだけ強調すると、神様の本当の目的が見えなくなってしまいます。 話は今日の聖書の箇所に戻ってこの聖書の箇所には私たちの信仰生活において一番大切なところが42節に凝縮されています。 イエス様は罪を全く冒していなかったにもかかわらず十字架にかからなければなりませんでした。 ここからわかることは私たちの人生は私たちの思いを達成するためにあるのではなく、神様の思いを達成するためにあるということです。自分の思いを神様に祈ることはもちろんいいのです、ただそのときにすべてを神様に委ねなければなりません。 そして祈りは、こちらからの一方的な要求ではなく、こちらが祈ったあとは神様からの返答を待つことが大切なのです。ある人は5分お祈りをするとそのあと5分神様の声を待つそうです。 そして神様の思いは理解できても理由まではっきりわからないことがあるのです。神様は時間も空間も越えられすべての知識がある方なので私たちにとっては何故だろうと思うことが多いのです。 私たち家族も何故いまこの地で学生生活をしているのかと疑問に思うことがあります。もちろん明確に神様が示してくれたので間違いないのですが、人間はその理由まで自分が理解できるようにはっきりしていないと気がすみません。 しかし理由はわからなくても神様に従うという従順さが必要です。 今日息子が礼拝中に演奏した曲は“Forgiven” という曲でした。
歌詞は“私は赦された。主は私の罪をみて、わたしが負わなければならないことから救い出してくださった。私は主のあわれみによって、救われた” |
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