礼拝メッセージ

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先週の日曜日に久しぶりに主人がオクラホマでメッセージをさせていただきましたので、掲載させていただきます。
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こんにちは。お久ぶりです。今、私は、フォートワースのセミナリーに通っていますが、かなり記憶力が落ちていますので試験になると、ほとんど徹夜で勉強しなければなりません。若いころと違って試験ができなくてもいらいらしたり、腹がたったりすることが少なくなり、「これも経験」と諦めることができるようになりました。しかし、たまに腹がたって仕方がないことがあります。先日、ギリシア語の試験で大きなミスをしてしまいました。それは、正解を知っていたのにもかかわらず、問題を見落として何も書かなかったからです。自分ができるにもかかわらず、結果として失敗した場合、とてつもなくいらいらするものです。

そのとき、ふと神様のことを考えてしまいました。神様も毎日、いや、いらいらしているのではないかと思いました。神様は何でもできる方です。この世の人をみんな神様に従うようにすることも簡単にできます。でも、神様は、自分から主体的に私たちに働きかけることはありません。その結果、毎日、多くの人々が神様を信じることをせずに死んでいます。神様は、それを見て悲しく、いらいらしているのではないかと思います。

今年の大きなトピックの一つに、イラクの元大統領のサダムフセインが死刑になったこともあります。生まれつき、とてつもなく悪い人に出会ったとき、私たちは、なぜ、神様がこんな人をつくったのだろうと時々、考えてしまいます。彼は、生まれたときから死ぬまでイスラム教でした。まったく、改宗する機会はありませんでした。

我々は、時には、「神様は悪い人をもつくるのだ」と思ってしまいます。でも、それは違います。神様は、すべての人を愛しています。そして、すべての人が救われてほしいと願っています。だから、フセインだって神様は愛し、救われてほしいと願っていたはずです。でも、それでは、どうして彼には、本当の神様と出会う機会が与えられなかったのでしょうか。

これは、本当に難しい話で多くの人々が、この問題にぶち当たって悩み続けており、様々な解釈がなされています。例えば、「どんな宗教でも信じていれば救われるはずだ」と考える人もいたり、「機会が与えられない人には、死後に福音を聞く機会が与えられる」と考える人もあり、また、「家族の誰かが信じれば、過去にさかのぼって先祖までが救われる」とも考えたりします。こういう考えは、「神様は、万人に公平な機会を与えるはず」ということをベースにしているように思われます。

私も、この問題をどう解釈すればいいのかはっきりとした答えをもっていませんが、ひとつ思うことがあります。それは、「福音を聞く機会を与えるのは、神様ではなく人間である」ということです。神様は少しも不公平ではありません。神様は、人間が自ら神様を選ぶことを望んでいると同時に、人間自身で福音を伝えることも望んでいるのです。この世の中を神様がつくった時、この世を治める権利を人間に与えた以上、直接、自ら機会を与えることはしません(創世記1:27)。福音を聞かずに死んでいった我々の先祖が地獄に行くのは不公平だと考えるのではなく、福音を届けなかった人間全体の責任であるような気がします。

    もちろん、神様は我々すべてを愛していますので、なんとか手助けしたいと考えています。すこしでも助けを求めれば、すぐに助けてくれます。今は信じることができない人がいても、神様に求めれば何かの助けはしてくれます。しかし、求めない人は助けようがありません。なぜなら、主体は人間でなければならなないからです。

    そう考えると、いろいろなことに気づきます。ひとつは、クリスチャンの伝道に対する責任です。毎日、多くの人々が神を信じずに滅んでいくのは、神様がその人々を選んでいないのではなく、我々が伝道しなかったからです。もちろん、人間は生まれつき罪人であり、人間の力だけでは神を信じることは不可能です。神様からの働きかけがないと自分の罪を感じることさえできません。

しかし、その前に伝道が必要なのです。我々が主体的に伝道するからこそ、神様がその人の心に働きかけてくれるのです。しかし、伝道を嫌がる教会員がたまにいます。なぜなら、新しい人が来ると、新たに人間関係を構築する必要があり、教会がくつろぎの場ではなくなるからです。しかし、教会の第一の使命は伝道です。神様は、福音を伝えるために教会をつくりました。どうか伝道の使命を忘れないでください。
   

もうひとつは、人への感謝です。何回も言いますが、神様の導きだけではクリスチャンにはなれません。導いてくれた人がいるからです(ローマ10:15)。クリスチャンになってからも同じです。神様にゆだねれば悪いことが起こらない訳ではありません。この世にいる限り人間の力に頼る必要はあります。しかし、人に感謝しないクリスチャンが多いのに気づきます。「人間なんか信頼できない。うそつきばかりだ。神様しか信頼できない」というクリスチャンもいます。しかし、これは、正しい信仰ではありません。もちろん、人間は元々罪人なので、裏切りますし、だまします。しかし、神様の愛だけでなく人間の愛を通して私たちは成り立っているのです。自分の周りにいる人間にも感謝することを神様が望んでいることなのです。
   
しかし、人間に感謝することは、ある面、非常に難しいことです。なぜなら、人間は神様と違って完全ではないからです。どうしても、人間の不完全なところを見てしまうからです。

私ごとですが、私は、日本の米を毎朝食べないと元気がでません。パンが嫌いなわけではありまでんが、パンを食べると胸焼けがして気持ちが悪くなるのです。また、ご飯でも日本の米でないと下痢をおこしてしまいます。だから、妻は朝早く起きてご飯を炊いてくれます。本当に感謝です。でも、たまに、ごはんが硬かったり、やわらかすぎたりします。そして、妻に感謝する前に「今日のご飯は硬いな」といってしまいます。本当に情けない限りです。

神様の愛は、アガペと言い、全く分け隔てのない完璧な愛です。一方、人間に対する愛はフィリオと言って兄弟愛を意味します。日本語はひとつですが、意味が違うのです。神様の完全な愛と違って、人間に対する愛は不完全なところを共有しあって感謝することが大切なのです。むしろ、その不完全なところが人間同士を結びつけるために必要なもののような気がします。

   私は、今日は人間の働きの大切さについて強調しましたが、それは、神様は直接私たちに働いてくれないという訳ではありません。物理的な世の中は人間に支配されていますが、霊的な世界は神様が完全に支配してくれています。簡単に言いますと、クリスチャンになったからと言って全く事故から守られ、怪我がなくなり、病気がしなくなる訳ではありません。しかし、その意味合いがちがうのです。物理的な世の中では、クリスチャンであろうとノンクリスチャンであろうと同じ災害にあうかもしれません。しかし、クリスチャンの場合は、同じ災害にも霊的な意味を与えてくれるのです。それを通して霊的な成長ができるのです。だから、常に神様に支配されているのは間違いではないのです。

私たちは、この世にいる限り、いくら信仰が強くても、人間の業から逃れることはできません。時には、傷つけられることもあります。しかし、その人間の働きがないと、神様とも出会えません。神様と人間の両方に感謝しましょう。
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追記;いつもオクラホマ日本語教会にはすばらしい通訳の方がいらっしゃるんです。でもこの日はお休みだったので私がいたしました。まったく私の英語はだめなんですけど、こんな私でも神様は主人のメッセージを通訳するという恵みを与えてくださいました。

そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。
こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。
ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。
すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。

使徒言行録12章1-7;新共同訳聖書

  ここは、ペテロが牢獄に閉じ込められたのですが、神様の力によって助けられるところです。こんなすごい奇跡は、今の時代にはなかなか起こりません。当時は、キリスト教の創世記で全世界的にキリスト教が拡大していくとても大切な時期であったので神様の力が今以上に直接的に現れていたと言われていますが、日本人にとっては、今も尚クリスチャン人口が1%程度であり、キリスト教の立ち上げの時と言えますので、こんな奇跡が実際に見ることができれば、どんなに多くの人がキリスト教を信じることができるのだろうと思う次第です。

  今日は、ペテロの話ではありません。ここで、2節を見てください。ペテロが御使いの力によって牢獄から出ることができた一方、ヤコブは剣ですぐに殺されました。なぜ、ペテロと同じように神様はヤコブを助けてくれなかったのでしょうか。ヤコブの信仰がペテロより劣っていたからでしょうか。いや、そうではありません。では、どうしてそんな違いが起こったのでしょうか。それは、このタイミングで死ぬことが神様の計画だったからです。ペテロが牢獄に閉じ込められた時、5節にあるように教会はひとつになって神に熱心に祈り続けました。その祈りの力が神様に届いてペテロが牢獄から脱出することができたのです。神様は、神を求める者のみに力を与えてくれます。この教会の祈りがなければペテロは助からなかったでしょう。しかし、なぜ、教会がひとつになれたのでしょうか。それは、ヤコブが殺されたからです。ヤコブの死によって教会員全員が「もう、二度とヤコブのようなことが起こらないでほしい」と思い、それが祈りの力につながったのです。

  神様は、私たち人間を非常に優秀な存在として作られました。したがって、神様は決して私たちを直接にコントロールしようとはしません。人間の自発的な行動、祈りを常に望んでいます。ヤコブの死は、人々が神様へより頼もうとするために必要な出来事であり、神様の計画だったのです。つまり、ヤコブは神様の計画の一部として直接使われた人間であり、信徒としては最高の栄誉であるのです。

  しかし、ここで質問します。あなたは、ヤコブとペテロのどちらの人になりたいですか。私も含めて多くの人は、やはりヤコブではなくペテロになりたいと思うでしょう。それは、私たちの人生の目的を神様に従うことのみに置こうとしているのでなく、自分自身の人生を神様によって祝福してもらいたいという思いが強いからです。ヤコブの人生を考えてみても、彼はもっと伝道して神様のことをみんなに伝えたかったに違いありません。それができずに死んでしまったヤコブを見て、彼の人生は不満足に終わったのではないかと考えてしまうのです。

  しかし、それも自己中心的な思いの現れのひとつです。信じるということは、神様に徹底的に従おうとすることです。つまり、神様に自分を使ってもらおうとすることです。私は、この「人生の目的が神様にある」というのは、キリスト教の大きな魅力ではないかと考えています。他の宗教のことを非難するつもりはありませんが、他の宗教のほとんどが自分の目的を達成するために存在するように思われます。自分の悩みを取り除いたり、自分の欲望を達成するために宗教を信じようとします。しかし、キリスト教は違います。人生の目的自体が神様のために存在するのですから、もはや自分の欲望が達成できないと悩む必要がなくなってしまうのです。

  これは、受動的で消極的なことを意味するのではありません。我々は、目的は神様においた上で主体的に行動していくことを求められているのです。難しい話のようですので、例を言います。例えば、自分の健康について誰でもお祈りすると思います。神様を目的とすることを誤って解釈する人の中には、「自分の健康のことをお祈りするのは自分勝手な信仰だ」と思うかもしれません。しかし、これは間違いであり、クリスチャンは、自分の健康の健康を神様に主体的に求め続けていく必要があるのです。大切なのは何のために健康でいる必要があるかということです。健康は、自分が幸せになるためではなく、神様をあがめ、伝えるために必要だということです。私たちの人生のすべての目的が、神様の栄光を表すために使われなければいけないということです。第一コリントの手紙10章31節にあるように、だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。何をするにしても神様の栄光を表すことが必要なのです。

  しかしながら、私たちはいつの間にか自分中心の信仰に入ってしまいがちです。いつの間にか人生の目的が神様ではなく、自分自身になり、自分の人生の目的を達成するために神様の祝福を求め続けている自分に気づかされます。マタイ6章33節の何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。はクリスチャンなら誰でも知っている箇所です。しかし、実際に祈るとき、神の国と神の義を求めるよりもまず、自分の悩みや苦しみから開放されることをお祈りしがちです。そして、神様が私たちに必要なすべてを備えてくれることだけを祈り続けます。しかし、神様が備えてくれるのは神様の御国をあらわすために必要なものを備えてくれるのであって、私たちが豊かな生活を送るために必要なものを備えてくれるのではありません。常に「生きる目的は、神様であること」を意識する必要があるのです。

  私も、自分に対する思いがまだまだ残っていることに気づく毎日です。私は、会社をやめて神様に仕えることを決心したのですが、自分の頭の中に「安定した生活を捨てたのだから、努力し続けたら神様は祝福してくれる」という思いが残っているのに気づきます。でも、大切なのは、神様の思いに従うということだけで満足すべきであり、自分に対する結果を求める必要はないのです。イスラエルで栄華を極め、すべてほしいものを得たソロモンも、最後には伝道の書の12章13節に書いているようにすべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。 と、言っています。信仰とは、「神に従う」こと以外にはないのです。

  神様中心の生活をするというのは、罪深い人間には非常に難しいことです。しかし、神様は、我々にそうなることを望んでいます。まず、お祈りのときに自分の必要を求めるのではなく、神に感謝して、神の国を求めることからはじめてください。
  お祈りいたします。

母の日 礼拝

皆様のブログにお邪魔していると素敵な母の日を過ごされたのがよくわかります。私は朝はアメリカの教会にそしてお昼からは日本人教会に出席いたしました。そこで5月で日本語教会を去る人たちのお別れ会がありました。その中には私たちの家族も含まれていました。この礼拝で主人がメッセージをしたのでのせさせていただきます。

5月13日 礼拝メッセージ 聖書 テサロニケの手紙第一5章16−18節(100%を超える祈り)

    キリスト教を伝える時、最も難しい物のひとつとして三位一体があります。三位一体は、父なる神とイエス様と聖霊様の3つの存在が、一つの神様として存在するということです。よく、これを説明する方法として水は、冷やすと氷になり、暖めると水蒸気になるように3つの状態があるのと同じだと説明します。そうすると、たいていの方は、「よくわかりました。神様は、ある時は、氷のように固体になって姿があらわれてイエス様になり、ある時は、水蒸気のようになって聖霊様として現れるのですね」と答えてきます。しかし、それは間違いで、「ある瞬間がイエス様、また、別の瞬間に聖霊様になるのではなく、同時に父、子、聖霊が三つとも存在する」のです。すると、また、多分質問が返ってきます。「わかりました。神様の3分の1が父なる神、3分の1がイエス様、残りの3分の1が聖霊様なのでしょう。」と。しかし、それも間違いで「父なる神も、イエス様も、聖霊様もどれも100%の存在です。それが、同時に3つ、一つとして存在するのです」。もう、こうなれば、理解できないと怒り出す人も出てくるでしょう。なぜ、理解できないのでしょうか。それは、人間は、100%を超える概念が理解できないからです。神様は、100%の存在が三つ合わさった300%の存在なのです。これは、キリスト教にしかない奥義(mystery)であり、この100%同時にいくつも存在するという概念は、信仰生活にも大切なのです。
私達は、信仰をもち始めた時は、神様と一緒に歩いていれば苦しみなんて生じないと思います。しかし、徐々に信仰があっても苦しいことが起きることに気づきます。そして、苦しみは私達を成長させてくれる糧であることがわかってきます。そして、神様が苦しみを与えてくれたことを感謝して、それを乗り越えさせてくれることを祈れるようになります。しかし、さらに神様のことがわかってくると、取り除いてもらえない苦しみがあるということもわかってきます。自分勝手な私たちが、神様に対して常にへりくだれるように、いつまでたっても無くならない苦しみがあることに気づいてきます。このように信仰の成長とともに苦しみが様々な形で与えられることがわかってきます。
    また、人生の目的についても信仰の成長とともに理解が深まってきます。最初は、自分のやりたいことを達成するのが人生の目的であり、祈り続けると神様が、私たちの人生に働いてくれるという風に考えがちです。しかし、信仰が成長とともに、自分の計画ではなく、神様の計画に従っていくのが人生の目的だとわかってくるようになり、自分のやりたいことが最後まで成し遂げられないことが神様の計画である場合もあることに気づきます。
    そこまで信仰が成長してくると、お祈りの方法が変わってきます。心の中に「苦しみが取り除かれないことも神様の御心ではないか」とか「自分の目的が達成できないことこそが神様の計画ではないか」と思いながら祈るようになっていきます。そして、多くの人は「もし、神様の御心であれば、私の苦しみを取り除いてください」と祈り始めます。しかし、この祈りは、お奨めできる祈りではありません。なぜならば、100%願いがかなうと信じていないからです。お祈りをするときは100%かなうと信じないといけません。また、ある人は、「どんな結果になってもかまいません。私は、あなたに従うだけです」と祈るかもしれません。これも、すばらしい祈りのように思われますが、あまりお奨めできる祈りではありません。なぜなら、この祈りにも自分の強い願いが入っていないからです。もちろん、私たちは神様に従うのみなのですが、自分でこうしてほしいと強く自分から祈っていかないと願いはかなえられません。では、どう祈るのがいいのでしょうか。それは、先程言った同時にいくつかの100%を思いながら祈っていくことです。頭の中で願いがかなわないのも100%神様の御心であるということを思いつつ、同時に「神様がわたしの願いを100%かなえてくれる」と信じて祈っていくのです。
そんなこと本当にできるのかと思うかもしれません。確かに大変難しいことです。でも、信仰がある限り可能です。ダビデが、同時に2つの100%をもって祈りことができた人でした。彼は、部下の妻であるバテ・シバを自分のものししたくて、その部下を殺してしまうという大きな罪を犯しました。しかし、彼は自分の行為を悔い改めたので神は、ダビデを許しましが、犯した罪に対する罰として彼の子供が死ぬこととなるとダビデに伝えました。ダビデは断食をして神様に子供が死なないようにお祈りしたが、神様の意思は変わらず、子供は死んでしまった。すると、ダビデはすぐに断食をやめ、食事をとりはじめました。普通の人は、ダビデのこの極端な変化をみて、ダビデはなんと薄情な人であると思ってしまします。しかし、この変化に、彼の信仰の強さが表れているのです。ダビデは、祈りが通じて子供が100%助かると信じていました。しかし、同時に子供が死んで天国に行くのも100%神様の恵みであると確信していたのです。
神様に願うときは、迷いがあってはいけません。100%かなうと信じて祈らなくては絶対にかないません。しかし、同時に、我々は神様の考えがすべて理解できない存在であることも知らなくてはなりません。そして、願いがかなわなくてもその中に神様の計画があると、100%信じることも必要です。これが、理想的な信仰のありかたです。なぜなら、同時に100%の思いをいくつかもって信じることができれば、何が起こっても100%自分の願いどおりであると思うことができるからです。そして、今日の聖書の箇所にあるように「いつも喜んでいる」ことができるのです。
「いつも喜んでいる」ということは、社会生活の上でも大きなメリットになります。昔は、日本は特に年をとれば、給料や身分が自然とあがっていく制度を採用していましたが、今は、ほとんどの会社が、年齢に関係なく、成果で社員の優劣をつけていきます。しかし、実際は、一部の特に優秀な人を除いては、たいてい社員の成果なんて同程度であるものです。そんな場合、何をもって優劣を判断するかと言えば、この「いつも喜んでいる」ということが非常に大きなメリットになるのです。どんな仕事を与えても、楽しそうに仕事をする人は、間違いなく企業や組織で評価されます。その意味で、「いつも喜んでいる」ということはものすごいメリットがあります。今日で私も含めて、新しいところに行かれる方が何人かいらっしゃいます。最初は、特に思い通りにならないことが多いと思います。どうか、今日、私の言った「100%を超える信仰」をもちつづけ、「いつも喜んで生きていける」ようにお願いします。

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こんにちは。そして、メリークリスマス。
 人間というものは、勝手な存在であり、常に自分の立場を正当化しようとします。それは、クリスチャンであっても同じです。

私は、自分が会社で仕事をしていたときは、「牧師は、仕事を持ちながらした方がいい。なぜなら、社会との接点がないと、人の苦しみを実際に理解できないから」と考えていました。しかし、神学生となってからは、「牧師は、フルタイムですべき職業である。なぜなら、人の心をケアするには、十分な時間をかける必要があるから」と考えるようになりました。このように人間は常に「自分の見方が唯一絶対の真理である」と考え、他の見方を否定してしまいがちです。しかし、神様の真理とは、非常に奥が深く一面的な解釈では、本当の意味を見失ってしまう場合があります。

  今日の聖書の箇所を見てください。一見すると「神様にすべてをゆだねなさい」ということで非常にすばらしい言葉のように思われます。
しかし、実際は、この言葉は、自分勝手な動機からでた悪い言葉なのです。この言葉は、ガマリエルという律法学者が言った言葉です。パウロもパリサイ派であったとき、このガマリエルの下で学んでおり、当時、非常に有名でみんなから尊敬されていた人でした。当時キリスト教は、ものすごい勢いでエルサレムの周辺の町で広まりつつありました。病人や悪霊にとりつかれた人たちがすべてペテロとヨハネによって癒されたので、ペテロとヨハネの周りには大勢の人が集まってくるようになりました。それを見て、ユダヤ教の祭司達はねたみに燃えてペテロとヨハネ達を捕らえてしまいました。そして、彼らの行動を罪に定めようと議会で裁こうとしました。ガマリエルも当然、ペテロやヨハネの行動を目障りなものだと思っていたので、彼らを罰したかったのですが、彼らは民衆の心をつかんでいたので、もし、彼らを非難すれば、自分が民衆から尊敬されなくなるということをおそれていました。そこで、ガマリエルは、自分で判断することを避けるために、「神様にすべてをまかせなさい」と言って周りの人々を納得させようとしました。ガマリエルは、非常に聖書に詳しかったので、神様の真理のひとつの側面だけを強調して民衆をだまそうとしたのです。
  
確かにガマリエルの言うように「神様にすべてをゆだねる」というのは、真理であり、私たちは、自分の力だけでは、何も達成することはできません。「神様にゆだねる」ということは、私たちの人生には不可欠です。しかしながら、一方で神様は何もせずにただ、神様にゆだねろとは言っていません。私たちは、常にベストを尽くす必要があり、また、たとえ何をしても良いかわからなくても、我々の方から積極的に神様に対して求め、祈り続けていく必要があるのです。つまり、神様に対する姿勢としては、「すべてをゆだねる」ことと「積極的に行動し、求めていく」という両方が、ひとつのセットとなった真理であり、それを同時に達成するように神様は望んでいるのです。
  
ここに茶筒があります。こちらから見ると円に見えますが、こちらから見ると長方形に見えます。しかし、この茶筒は、円でもなく、また、長方形でもなく、円柱なのです。それを理解し、把握するためには、色々な方向からこの茶筒を見る必要があります。神様の真理も同じです。一方からだと誤った認識をしてしまいます。色々な方向から見てはじめてその本当の形を理解できるのです。
 
 しかし、我々は、自分に都合のよい真理のみを使って自分の行動を正当化してしまいがちです。ジョシュ.マクドウェルと言う人をご存知でしょうか。彼は、有名なクリスチャンミニスターで、特に若い世代の問題を取り扱っている人です。私も一度、彼のミニストリーがオクラホマに来た時に受付の手伝いをしたのですが、彼は、面白いことにジャージ姿で説教をするのです。彼の統計によりますと、テストでカンニングをしたり、ドラッグをやっている若者の確率は、クリスチャンの子供でもノンクリスチャンの子供でもほとんど変わらないということです。これは、ある面、我々には驚きです。なぜなら、我々は、「クリスチャンであれば、当然、神様の目をおそれて悪いことはしないだろう」と思ってしまうからです。しかし、実際は、違うのです。子供たちは、「神様は何度でも私たちの罪を許してくださる」という自分に都合の良い真理のみを強調して何度でも悪いことをしてしまうのです。しかし、神様は「何度でも私たちの罪を許してくださる」方であると同時に、「悪いことは必ず裁かれる」方でもあるのです。このようにひとつの真理を立体的に見ていくことは、私たちが生きていく上で非常に大切なことです。
  
しかし、ひとつ気をつけなければならないことがあります。それは、神様の真理を多方面から見るということが拡大解釈されて「人それぞれの違った考え方をすべて認めるべきである」と解釈されてしまうことです。物事は、多方面から見る必要がありますが、その中心に神様がいなければ、単に堕落を招いてしまいます。先日、米子さんが日本の教育が退廃しつつあるということを証してくださいました。生徒だけでなく、多くの先生が悩んで自殺をしている現状に現在の日本の教育現場はあります。これは、様々な原因があると思われますが、その一因として、日本人のモラルの低下にあります。20年ぐらい前までは、日本の学生は、「みんなが同じ考えを持つよう」に教育されてきました。その結果、「日本人はよく働くが、個性がない」という批判が内外から起こりました。それに対して、日本の教育機関は、教育を見直そうと考え、今までの画一的な教育から、西洋の考えにならって個人それぞれの意見を尊重するようになりました。しかし、日本の教育には神様がないので、すべての考えや価値を受け入れることが必要であると解釈されてしまいました。その結果、先生達がモラルを教えることができなくなり、善悪の判断のつかない子供たちができてしまったのです。彼らは、自分が楽しいことをするのが一番いい事だと思っており、自分の考えを押し通すのがいいことだと考えています。物事は色々な角度から見て行くことが大切ですが、その中心に柱となる神様の真理がないと、非常に危険な思想を産み出してしまうのです。
 
今日は、クリスマスイブです。クリスマスは、イエス様が、この地に来てくれた大切な日です。イエス様についても多く方向から見ていくことが必要です。 私たちの救い主としてのイエス様、私たちの友としてのイエス様、私たちの模範としてもイエス様、そして、私たちの肉親としてのイエス様、数え上げたらきりがありません。そして、そうして、色々な面を見ることによって、その共通事項である「イエス様の愛の深さ」がはっきりと際立ってきます。どうか、「真理を立体として捉える」ようにしていきましょう。

先日オクラホマバプテストテンプルチャーチで主人がメッセージをさせていただく機会がありましたので載せます。
10月29日礼拝メッセージ
何をしても栄える(詩篇1章2−3節)
我々は、就職や結婚などの大切な決定をするとき、それが神様の御心にかなっているのかどうか不安になります。私もこの道がわたしにあっているのかどうかいつも不安になります。性格から見てどうしても適しているとは思えないからです。でも、今日の聖句を見てください。「その人は、何をしても栄える」とあります。神様と共に歩いていれば、何をしても栄えるのです。
もちろん、必要な時には神様は非常に詳細に指示を与えてくれます。たとえば、モーセが幕屋をつくるように神様から言われた時、神様は幕屋の大きさ、形、材質等こと細かに指示を与えました。このように必要なときは、必ず、神様からの導きがあります。しかし、わたしたちは、通常は、いくら祈っても、そんなに詳細な指示を与えてくれません。そんなときは、この聖書にあるように「何をしても栄える」のです。
我々は、神様に対して何をすべきかにこだわってしまう傾向にあります。つまり、何をすれば神様を喜ばすことができるのかということにこだわり過ぎます。しかし、神様は、我々がどうあるべきかを問題にします。神様に対して心がいかに向いているかを重要視します。つまり、”what we do” ではなく、”who we are” が大切なのです。心が神様の方を向いていれば、たとえあなたの力ではできなくても、神様が必要な助け手を与えてくれるのです。だから、「何をしても栄える」のです。
しかし、この「栄える」という意味を誤解してはいけません。よく、「私は、こんなにも神様に従っているのに全然、周りの人は評価してくれない」と悩む人がいます。そういう人は、「栄える」という意味を誤解しているのです。「なにをしても栄える」とは、「決して良いことばかりが続く」という意味ではありません。神様は、私たちの必要に応じて時には試練、時には失敗を与えます。しかし、それでも神様と共に歩いていれば、「栄える」、つまり、喜びと感じることができるのです。ローマの手紙の8章28節でパウロが自分の目の病気が治らないのを神様に感謝して「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」と言ったように何が起こっても心から喜びがあふれてくるのです。
それでは、神様とともに歩くというのはどういうことでしょう。答えは、2節にあるように「主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」ということです。従うというのは、「何かを守る」というように考えがちですが、そうではなく、「神様を心から愛する」という態度が大事です。先ほど言った ”what we do” ではなく、この場合においても ”“what we are ”“ が大事なのです。喜んでいないと、従ったことにならないのです。
そして、「昼も夜も口ずさむ」とあります。日本の諺に「継続は力なり」という言葉がありますように「いつでも」神様とともに歩くことが大切なのです。「日曜日の教会の間だけ、神様に従う」とか「夜、寝る前のお祈りの時間のときだけ神様のことを考える」のではいけないのです。そんなこと無理に決まっている。勉強しているとき、食べているとき、遊んでいるとき、寝ているとき、いつも神様のことなんか考えるのなんか無理」と考える人も多いと思います。その通りです。私たちが、自分の力でいつも神様のことを考え続けるのは不可能です。でも、私たちには心強い味方がいます。それは、聖霊様です。エペソの手紙6章18節に「どんなときも御霊によって祈りなさい」とあるように私たちの内にある聖霊様が働いていれば、寝ているときも神様とともに歩いているのです。
しかし、ひとつ注意していただきたいところがあります。それは、3節に「時が来ると実がなり」とあります。つまり、時が来るまで待つ必要があるのです。神様からの恵みは、「コップに水を注ぐ」ようなものです。私たちは、イエス様を信じた瞬間から神様は私たちに恵みを注ぎ始めてくれます。しかし、それがあふれるまで時間が必要なのです。コップがいっぱいになるまで待つ必要があるのです。この「待つ」ということが私たちにはとても重要なのです。
ひとつの例を話したいと思います。私が、バイブルカレッジに行っていたとき、授業が全部聞き取れないので試験前には、いつもアメリカ人の学生からノートを借りて勉強していました。学生の方は真似をしないで自分で勉強してください。ある試験でほとんどの学生が間違えた問題がありました。試験が返された時、ある学生が先生に苦情を言いました。「この問題は、授業では習っていないのではないか。全員、正解としてくれないか」と。先生は答えました。「私は授業で言ったはずだ。その証拠に一人だけ正解している人がいる」と。そのひとりとは、驚くことに私だったのです。その学生は、まだ、抵抗して言いました。「トミーは、自分で勉強して正解を書いただけだ。先生は、そんなこと言っていない」と。そして、私に「どうやって、正解を知ったのだ」と聞きました。私は、あまり言いたくなかったのですが、「あなたから借りたノートにそのことが書いてあった」と答えました。そのとき、私は気づいたのです。「待っていたから正解することができた」ということを。授業中、私は先生の言った言葉が理解できず、いらいらしていました。そして「一体、どういう意味なんだろう」とずっと考えていました。そして、その学生からノートを借りて読んだとき、やっとその意味を把握することができたのです。そのことが嬉しかったので、私の頭の中に残っていたのです。しかし、アメリカ人の学生は、何の苦痛もなく理解できたので、ノートに書き写してはいたもののすっかり忘れてしまっていたのです。「待つ」ことは、苦痛かもしれませんが、それがものすごい喜びとなって返ってくるのです。
しかし、最近、私たちは「待つ」ことが必要のない生活を送っています。何か困ったことがあると「携帯電話」ですぐに誰かに電話をかけて聞きます。また、何か知りたいことがあると、「インターネット」を使ってすぐに情報を入手します。こういうハイテクノロジーも、もちろん神様からの恵みです。インターネットがあることによって、アメリカにいても日本の家族と安く、簡単に通信することができます。しかし、だからといって、「待つ」ことを放棄してはいけません。神様が、せっかくコップに水を注ぎ続けてくれているのに、結果が見えないからと言って捨ててはいけません。忍耐強く待つことが必要なのです。
私たちの若い世代は、一般的に、他の国の方々と比べて本当に幸せな生活を送っています。もちろん、人生の意義について悩んだり、人間関係で傷ついたりすることは世界共通で誰にでもありますが、死と直面するような苦しみにあうようなことは少ないと思います。もちろん、本当にありがたいことですが、これが、「待つ」時間を長くしているということも知っておく必要があります。神様からの恵みの量は、私たちの「求め」に応じて変わってきます。もちろん、強く求めた方が、たくさんの恵みが与えられます。日本も含めて戦争直後に多くのクリスチャンが誕生するのは、彼らはものすごい「求め」があるからです。信じた瞬間にあっと言う間に恵みが注がれてコップがあふれてしまうのです。
今の私たちの世代にそういう強い「求め」を期待しても難しいです。その結果、強烈な経験をした人と比べて「待つ」時間が長くなるかもしれません。しかし、信じている限り神様は、恵みを注ぎ続けてくれます。そして、いったん、コップからあふれると、ずっとあふれ続けるのです。どうか、聖霊様の力を信じて神様とともにいつも歩き、体から恵みが常にあふれるように待ち続けましょう。そうすれば、「何をしても栄える」のですから。
お祈りします。

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