先週の日曜日に久しぶりに主人がオクラホマでメッセージをさせていただきましたので、掲載させていただきます。

こんにちは。お久ぶりです。今、私は、フォートワースのセミナリーに通っていますが、かなり記憶力が落ちていますので試験になると、ほとんど徹夜で勉強しなければなりません。若いころと違って試験ができなくてもいらいらしたり、腹がたったりすることが少なくなり、「これも経験」と諦めることができるようになりました。しかし、たまに腹がたって仕方がないことがあります。先日、ギリシア語の試験で大きなミスをしてしまいました。それは、正解を知っていたのにもかかわらず、問題を見落として何も書かなかったからです。自分ができるにもかかわらず、結果として失敗した場合、とてつもなくいらいらするものです。
そのとき、ふと神様のことを考えてしまいました。神様も毎日、いや、いらいらしているのではないかと思いました。神様は何でもできる方です。この世の人をみんな神様に従うようにすることも簡単にできます。でも、神様は、自分から主体的に私たちに働きかけることはありません。その結果、毎日、多くの人々が神様を信じることをせずに死んでいます。神様は、それを見て悲しく、いらいらしているのではないかと思います。
今年の大きなトピックの一つに、イラクの元大統領のサダムフセインが死刑になったこともあります。生まれつき、とてつもなく悪い人に出会ったとき、私たちは、なぜ、神様がこんな人をつくったのだろうと時々、考えてしまいます。彼は、生まれたときから死ぬまでイスラム教でした。まったく、改宗する機会はありませんでした。
我々は、時には、「神様は悪い人をもつくるのだ」と思ってしまいます。でも、それは違います。神様は、すべての人を愛しています。そして、すべての人が救われてほしいと願っています。だから、フセインだって神様は愛し、救われてほしいと願っていたはずです。でも、それでは、どうして彼には、本当の神様と出会う機会が与えられなかったのでしょうか。
これは、本当に難しい話で多くの人々が、この問題にぶち当たって悩み続けており、様々な解釈がなされています。例えば、「どんな宗教でも信じていれば救われるはずだ」と考える人もいたり、「機会が与えられない人には、死後に福音を聞く機会が与えられる」と考える人もあり、また、「家族の誰かが信じれば、過去にさかのぼって先祖までが救われる」とも考えたりします。こういう考えは、「神様は、万人に公平な機会を与えるはず」ということをベースにしているように思われます。
私も、この問題をどう解釈すればいいのかはっきりとした答えをもっていませんが、ひとつ思うことがあります。それは、「福音を聞く機会を与えるのは、神様ではなく人間である」ということです。神様は少しも不公平ではありません。神様は、人間が自ら神様を選ぶことを望んでいると同時に、人間自身で福音を伝えることも望んでいるのです。この世の中を神様がつくった時、この世を治める権利を人間に与えた以上、直接、自ら機会を与えることはしません(創世記1:27)。福音を聞かずに死んでいった我々の先祖が地獄に行くのは不公平だと考えるのではなく、福音を届けなかった人間全体の責任であるような気がします。
もちろん、神様は我々すべてを愛していますので、なんとか手助けしたいと考えています。すこしでも助けを求めれば、すぐに助けてくれます。今は信じることができない人がいても、神様に求めれば何かの助けはしてくれます。しかし、求めない人は助けようがありません。なぜなら、主体は人間でなければならなないからです。
そう考えると、いろいろなことに気づきます。ひとつは、クリスチャンの伝道に対する責任です。毎日、多くの人々が神を信じずに滅んでいくのは、神様がその人々を選んでいないのではなく、我々が伝道しなかったからです。もちろん、人間は生まれつき罪人であり、人間の力だけでは神を信じることは不可能です。神様からの働きかけがないと自分の罪を感じることさえできません。
しかし、その前に伝道が必要なのです。我々が主体的に伝道するからこそ、神様がその人の心に働きかけてくれるのです。しかし、伝道を嫌がる教会員がたまにいます。なぜなら、新しい人が来ると、新たに人間関係を構築する必要があり、教会がくつろぎの場ではなくなるからです。しかし、教会の第一の使命は伝道です。神様は、福音を伝えるために教会をつくりました。どうか伝道の使命を忘れないでください。
もうひとつは、人への感謝です。何回も言いますが、神様の導きだけではクリスチャンにはなれません。導いてくれた人がいるからです(ローマ10:15)。クリスチャンになってからも同じです。神様にゆだねれば悪いことが起こらない訳ではありません。この世にいる限り人間の力に頼る必要はあります。しかし、人に感謝しないクリスチャンが多いのに気づきます。「人間なんか信頼できない。うそつきばかりだ。神様しか信頼できない」というクリスチャンもいます。しかし、これは、正しい信仰ではありません。もちろん、人間は元々罪人なので、裏切りますし、だまします。しかし、神様の愛だけでなく人間の愛を通して私たちは成り立っているのです。自分の周りにいる人間にも感謝することを神様が望んでいることなのです。
しかし、人間に感謝することは、ある面、非常に難しいことです。なぜなら、人間は神様と違って完全ではないからです。どうしても、人間の不完全なところを見てしまうからです。
私ごとですが、私は、日本の米を毎朝食べないと元気がでません。パンが嫌いなわけではありまでんが、パンを食べると胸焼けがして気持ちが悪くなるのです。また、ご飯でも日本の米でないと下痢をおこしてしまいます。だから、妻は朝早く起きてご飯を炊いてくれます。本当に感謝です。でも、たまに、ごはんが硬かったり、やわらかすぎたりします。そして、妻に感謝する前に「今日のご飯は硬いな」といってしまいます。本当に情けない限りです。
神様の愛は、アガペと言い、全く分け隔てのない完璧な愛です。一方、人間に対する愛はフィリオと言って兄弟愛を意味します。日本語はひとつですが、意味が違うのです。神様の完全な愛と違って、人間に対する愛は不完全なところを共有しあって感謝することが大切なのです。むしろ、その不完全なところが人間同士を結びつけるために必要なもののような気がします。
私は、今日は人間の働きの大切さについて強調しましたが、それは、神様は直接私たちに働いてくれないという訳ではありません。物理的な世の中は人間に支配されていますが、霊的な世界は神様が完全に支配してくれています。簡単に言いますと、クリスチャンになったからと言って全く事故から守られ、怪我がなくなり、病気がしなくなる訳ではありません。しかし、その意味合いがちがうのです。物理的な世の中では、クリスチャンであろうとノンクリスチャンであろうと同じ災害にあうかもしれません。しかし、クリスチャンの場合は、同じ災害にも霊的な意味を与えてくれるのです。それを通して霊的な成長ができるのです。だから、常に神様に支配されているのは間違いではないのです。
私たちは、この世にいる限り、いくら信仰が強くても、人間の業から逃れることはできません。時には、傷つけられることもあります。しかし、その人間の働きがないと、神様とも出会えません。神様と人間の両方に感謝しましょう。

追記;いつもオクラホマ日本語教会にはすばらしい通訳の方がいらっしゃるんです。でもこの日はお休みだったので私がいたしました。まったく私の英語はだめなんですけど、こんな私でも神様は主人のメッセージを通訳するという恵みを与えてくださいました。
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