ここから本文です
津軽弘前タワー
●十和田湖・奥入瀬・八戸遠征(2017年8月)
 NHK『ブラタモリ』十和田湖・奥入瀬編が放送される約1週間前、原付バイクによる遠征を行った。十和田ビジターセンターにある十和田湖の地形模型を眺めては感動し、湖北岸の御鼻部山や滝ノ沢峠、そして八戸市白山台地区でテレビ放送の簡易受信を試みた。テレビジョン遠距離受信ノ挑戦20周年記念行事第1弾。

●むつ釜臥山遠征(2017年8月)
 久しく訪れていない下北地方。原付バイクにまたがり、いざ出陣なり。未明に弘前を出立した筆者は、むつ市内の家々でテレビの遠距離受信アンテナを多数目にして大興奮する。二戸局向け、函館局向け、室蘭局向け。おっと、二戸局と室蘭局のどっちも受信している民家もあるべな。たげ強ェしちゃー! かつて軍港として栄えたむつ市大湊では、久しぶりに電器店でキキコミ、ではなく聞き取りを行った。また、下北半島を見下ろす釜臥山ではテレビ放送の簡易受信を試みたほか、地理好きにはたまらない地形「砂嘴」を眺めた。テレビジョン遠距離受信ノ挑戦20周年記念行事第2弾。

●八甲田大岳登山(2017年10月)
 前年の秋は岩木山の頂に立った。今年は八甲田山に参らねばなるまい――。津軽地方におけるテレビ移動受信が一区切りついた記念に、八甲田大岳の山頂で簡易受信を実施した。山頂周辺は雪が積もっており、冷たい風が骨身にしみる。参ったじゃ……。手がかじかんで、何度も筆記具を落とす。泣きが入る中、いつものように携帯電話機を取り出してテレビの受信をした。『こった思いまでして、やねばまねのが……。ジェンコ(お金)にもならねごとを』――自分で決めたことなのに、つい本音がもれる。

●二ツ森登山(2017年10月)
 寒くなる前に、冬が来る前に行きたい場所があった。春まで待てなかったのである。この年最後の原付バイク遠征では、西海岸ルートで秋田県八峰町を目指した。世界自然遺産白神山地の二ツ森から秀峰岩木山を眺めたい――。波しぶきを浴びながら、夜明け前の国道101号をひたすら走る。気合を入れるため、そりゃ歌の一曲でも口ずさみたくなるものさ。〽秋田名物八森ハタハタ〜っと。でも今はクリスタルキングの「大都会」やチューリップ「虹とスニーカーの頃」がいいのかな。考えるのめんどくせぇじゃ、どっちもだ! ローァッ! 岩崎に入る頃、空はやうやう白くなり、石原裕次郎「夜明けの街」を聴きたくなった。

●冬の大館盆地
 今年1月中旬、この時季にしては雪が少ないので、ふと思って秋田県大館市に向かった。いやさ、冬だから原付バイクは使えないので、やむを得ず自動車で向かったのさ。長根山展望台で田代岳を眺めたり、青森テレビなどを受信したり、御成町のいとく大館ショッピングセンターさ行ったり。長根山っていえば、前回来た時のことを思い出す。沿道に「もう、わんちか」と書かれた紙があって、津軽弁でいう「わんつか」のことだなと思ったことを。舌状にのびる大館台地、そして大館盆地などの美観に癒されながら。


●もっと禅林街
 
 防衛施設であったと考えられる禅林街(長勝寺構)は、津軽氏の権威を知らしめる景観地区でもあったのだろう――。弘前の地理歴史やザ・ビートルズの楽曲を好むがゆえに、筆者は禅林街の横断歩道を渡る。幼少の頃から訪れては、独特な雰囲気を感じてきた。もっとも、弘前固有の景観であると意識するのは、高校を卒業してからである。かような寺町は、都市であればどこにでもあると考えていたのである。中学校や高校の時分には、同級生にお寺さんのご子息が何人かいたが、改めて考えてみると珍しいことかもしれない。

 8月の盂蘭盆会の時、禅林街や新寺町(しんてらまち)寺院街(史跡弘前城跡のひとつで、新寺構という。)は大変な混雑になる。地元民には「当たり前」の光景であるが、これもまた郷土固有のものなのである。

 こうした地域性に着目し、特色を捉えるのが地理学である。研究者や教育者ではない私は、人文地理学(歴史地理学)の愛好者の立場から、旧弘前城下町地区である禅林街や下町におけるフィールドワークの事例を紹介したい。地形図、古地図(絵図)、空中写真、方位磁針などを携えての踏査と聞き取り、さらには図書館での文献調査は、例えば『特捜最前線』のような昭和刑事ドラマに通じる魅力が存在する。


この記事に

開くトラックバック(0)

土曜日

 エルトン・ジョンの楽曲に「Saturday Night's Alright for Fighting」があり、「土曜の夜は僕の生きがい」という邦題が付けられている。幾つになっても「土曜日」と聞くと胸が躍るのはなぜだろうか――。それは小学生の頃の思い出が影響しているからに違いない。


■土曜日が登校日だった頃

 朝7時からの青森放送「おはようほっとスタジオ」を視聴しながら朝食をとる。その後は身支度を整えて、いざ登校である。当時は今と違って午前中のみ授業があった。途中から第2土曜日が休校となったが、土曜日といえば登校日の印象が強く残っている。3時間目を終えて掃除をした後、「帰りの会」でリンゴジュースを飲む。月曜日から金曜日は瓶詰めの牛乳だが、土曜日だけはパック詰めされたリンゴジュースが配られた。いずれも萩原乳業(弘前市大久保)の製品である。余談であるが、牛乳の蓋を乾かしてメンコ代わりにする者もいた。

 正午前に下校する。低学年の時分、犬に追いかけられながら帰ったのが懐かしい。家に帰ればテレビで『土曜サスペンス劇場』をやっている。平成3年10月に青森朝日放送が開局する以前、青森放送は日本テレビとテレビ朝日のクロスネット局であったため、編成上の都合により土曜日の正午から『火曜サスペンス劇場』を放送していた。これを見ながら昼食をとる。


■スイミングスクールの思い出

 スイミングスクールに通い始めてからは、土曜日だけ部活の練習を休んだ。午後2時半過ぎに迎えのバスがやって来る。車内ではいつも青森放送ラジオ「サタデー夢ラジオ」が流れていた。いつも乗るはずの姿がない日には、どこか寂しさを覚えたものである。それがめごい人であれば尚のこと……。45分程であろうか、市内各所で子供らを一人またひとりと乗せてスクールに到着する。

 準備体操が始まる前、それはワラハンドの社交場であった。他校の者との交流は良い刺激になった上、子供ながらに世の広さを実感した。また、面白いことに公立学校と国立大附属学校における児童間の交流は皆無に等しく、それぞれ独立したコロニーを形成していた。決して反目し合っていたわけではなく、自然の成り行きである。互いに無関心なのではなく、興味を寄せながらも表に出さなかったのであろう。

 スイミングスクールは階級社会である。まず、技量によって授業を受ける場所(コース)や属する組が明確に異なり、進級試験において基準を満たさぬ者は容赦なく不合格である。その人の水泳技術はスイムキャップの階級章により明らかで、上位のそれを付けることは憧れであった。試験終了後は水上騎馬戦などが行われ、これが楽しみだった。だが、不合格の時は心から楽しめず、気持ちがすっきりしない。元来は人に褒められて成長する性格でありながらも、さすがに畜生と悔しがり、次回に向けた糧とするのである。


■ゴールデンタイム

 スイミングの授業を終えて、夜6時過ぎに帰宅する。夕食をとりながら、青森テレビで『まんが日本昔ばなし』『クイズダービー』『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』と見ていると、あっという間に夜9時である。青森朝日放送の開局後は、夜7時半から9時までの1時間半は、自分だけ『おぼっちゃまくん』『暴れん坊将軍』と続き、その後は『土曜ワイド劇場』を見る流れであった。特に勧善懲悪の『暴れん坊将軍』は大好きだった。


■登校日から投稿日へ

 時は流れて、最近では新しい土曜日の楽しみを見つけた。青森放送ラジオ『十日市秀悦のサタデー横丁』(土曜日午後1時から放送)である。午後3時頃からのコーナー「夕焼け横丁の人びと」の話は先日来綴ってきたが、去る2月17日の放送では岸千恵子「津軽平野」が流れる中、弘前市北瓦ヶ町から携帯電話機で次のようなメッセージを送信した。

「今日も『夕焼け横丁の人びと』を楽しみにしていました。先週の放送では昨年末の伝説的音源が流れましたね。私は録音して何度も聴いています。『青森の歌』の完成が楽しみです! あと約半分ですね。ローァッ!!」(午後3時20分頃)


 十日市さんが「ローァッ!!」と2回繰り返してくれたのが印象的で、とても嬉しかった。土曜日の楽しい思い出がまたひとつできた。

この記事に

開くトラックバック(0)

タコの滑り台

 なおも「青森の歌オルタナティヴ2017年12月30日ヴァージョン14市町村」を聴いている。この曲は平成29年12月30日に青森放送ラジオ『十日市秀悦のサタデー横丁』で放送されたもので、十日市さんのギター弾き語りが心に響く。今年2月10日の放送回でも流れた。

 歌詞の中に「交通公園 蒸気機関車 タコの滑り台 初恋の日々」がある。交通公園とは弘前市田町三丁目にある公園のことで、市道を挟んだ北隣には弘前八幡宮(八幡様)や弘前B&G海洋センターがある。幼い頃に、よくこの公園を訪れたのが懐かしい。正式には「城北公園交通広場」というが、地区では「交通公園」とか「交通広場」と言った。『城北公園。えっ、どごだろう』と思い、地図で調べたことがある。正式名称を知ったのは20歳代半ばの時で、なんだか新鮮に聞こえた。

 交通公園の思い出を振り返る。静態保存されているSL機関車に立ち入った後は、ミニチュア建造物群を眺めながらミニSLに乗ったり、タコの滑り台で遊んだり。ミニSLは国鉄OBのオジサンたちが運転していた。ミニチュア建造物群は、弘前市内の明治大正期の建物を10分の1スケールでこしらえたもので、弘前市公会堂やかくは宮川(東北地方で最初の百貨店)など現存しないものもある。現在、これらのミニチュアは追手門広場の芝地に展示されている。

イメージ 1

写真1 城北公園交通広場(通称交通公園)
(平成28年5月撮影)


イメージ 2

写真2 静態保存されているSL機関車
(平成28年5月撮影)


イメージ 3

写真3 タコの滑り台①
(平成28年5月撮影)


イメージ 4

写真4 タコの滑り台②
(平成28年5月撮影)


イメージ 5

写真5 ミニSLの津軽弘前駅
(平成28年5月撮影)

※「いのち」とは、昭和61年放送のNHK大河ドラマ『いのち』(弘前市が舞台)のこと。



 当時、日中は市街地域(旧城下町地区)で、夜は新市街地域で過ごしていた。交通公園の南に位置する長坂町や東長町、北横町、南横町界隈は、いわば庭のような感覚であった。まるみストアー、まつみや酒店、マルエス主婦の店和徳店(現在は歯科医院の建物)、銭湯「梅の湯」、「弘前納豆」の武田食品工業――。今はなき風景が地図を見なくとも甦ってくる。

イメージ 6

写真6 長坂町
(平成29年7月撮影)


 我が家では弘前郵便局の近くに駐車場を借りていたので、緑町や瓦ヶ町、坂本町、百石町などの旧景もよく覚えている。和徳交差点から弘前郵便局の東側を経て土手町、山道町とを結ぶ都市計画道路は建設開始の段階で、まだ住宅地だった。和徳交差点から神田高架橋方面にかけては現在に近い状況で、単に「バイパス」と呼んでいた。平成6年に都市計画道路の愛称を募集した結果、「北大通り」と称するようになった。この時に城西地区の「茜通り」も決まっている。

イメージ 11

写真7 北大通り
(平成22年10月撮影)


 夕方前になると、坂本町の緩やかな坂道を歩いて弘前中央食品市場(土手町)へ行った。申し訳ない言い方だが、市場は今と比較にならないほど賑やかで活気があった。この坂道は土手町の中三(なかさん)百貨店やカネ長、紅屋へ向かう時も通った。途中の道沿いに柿の木があって、通りがかる度に気になったものであるが、現在は駐車場になっている。この先を右折すると西川岸町の坂――砂礫台地と谷底平野の漸移地帯――で、中三百貨店の徒町側入口に至る。この頃は店内にいわゆるエレベーターガールがいた。同様に、イトーヨーカドー弘前店(駅前三丁目)にもいた。中三百貨店といえば、ワラハンドを中心に流行した「中三に行こうよ、なぁ母さん」がある。この秀逸なギャグを知るのは、小学校に入学してからだが……。

イメージ 10

写真8 坂本町
(平成29年7月撮影)


イメージ 7

写真9 西川岸町から坂本町方面を望む
(平成29年7月撮影)


イメージ 8

写真10 田代町の当て曲げ
(平成29年7月撮影)


 それから、こんなこともあった。百石町の土淵川沿いでブーメランで遊んでいたら、民家の庭に飛んでいってしまった。あんな所でやるのが間違っているのだけれども、だって、ワラハンドだもの。そのワラハンドにはちょっと大人向けの場所があった。かくは宮川に代わって建てられたハイローザ(Hi-Rosa)である。「ハイローザに入ろうざ!」というギャグもあった。地下には「いとく土手町店」があり、お菓子コーナーの記憶が今も残る。また、一番町の坂側にバス乗り場があり、近傍のスクランブル交差点とあいまって、どこか都会的な雰囲気さえ感じられた。坂に建つ川越黄金焼店を眺めながらバスを待った。当時1個30円の黄金焼(こがねやき)は、今日もなお「オヤキ」と呼ばれ愛される。


イメージ 9

写真11 ハイローザ跡(写真中央の空き地)
(平成22年11月撮影)

※現在はマンションが建っている。


 小学校入学以降も頻繁に市街地域を訪れた。したがって、市街と新市街両地域の差異、言い換えれば魅力を知っている。知っているつもりである。高学年にもなれば、子供の森自転車道(通称サイクリングロード)を利用して一人で出かけることもあった。土淵川沿いの谷底平野を走るので、弘前台地の坂を通るのに比べて随分と楽である。今では徒歩や原付バイク、自動車を利用して両地域を散策している。時に昔の風景を思い出し、景観の遷り変りを確認しながら。

この記事に

開くトラックバック(0)

[ すべて表示 ]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事