コーヒーを挽きながら〜岸本静江のひとり言〜

ラテンアメリカのコーヒー農園村を舞台にした小説「コーヒーを挽きながら」の著者が描く『静江ワールド』

本郷和人先生の講演を聞いた


 
 NHKテレビのBS「偉人達の健康」にレギュラー出演しておられる歴史学者の本郷和人先生の講演を1111日(日)千葉県立中央博物館大多喜城分館に拝聴に行った。
 
 テーマは「中世の房総を地理から考える」。

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             (講演タイトル)

 テレビでは先生の名コメンテーターぶりにいつも魅了されているのに、実は先生のご専門がどの分野か、勉強不足で知らなかったので、今回の会場が千葉県南東部の大多喜、と聞いて、てっきり大多喜城を有名にした本多忠勝とその息子の忠朝、幕末最後まで新政府軍に抵抗した松平正質(まさただ)など家康以降から幕末までの歴史をナビゲートして下さる、とばかり早合点していた。

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                  (憧れの本郷先生)

 ところが配られたたった1枚のA4版レジュメには房総半島の地図も大多喜城も掲載されていなくて、先生のお話の中身も平安時代の関東地方の私営田領主と中央政府から派遣された官僚(守・介・掾・目)が政務を取る国衙との対立から平将門の乱が生まれた、その時代の源平両氏の地盤は関東以北と関西以南とが交互に入れ替わっていた、鎌倉時代の幕府の勢力拡大方向はもっぱら武蔵府中から上野・下野、さらには出羽、陸奥、など東北に向かって行った、など一向に房総半島が登場しない。ましてや大多喜も出てこない。
 
 要するに江戸幕府になり、それまで江戸と下総を分断する形で流れていた利根川を家康が現在のように茨城県と千葉県を分ける形で川回しさせる以前は、房総半島は一種の独立した島みたいなもので、開発する価値もない野蛮な地域としか思われていなかった。
 
 (ウ〜ム、野蛮な地域かぁ、と千葉県生まれ千葉県育ち千葉県在住、「ジモティ」を自認する私としては「何だかなぁ」だが、先生が現在同じ千葉県民、というのを知って、まぁ、許す!)
 
 だから在地勢力として千葉氏と上総氏が頼朝の支援勢力として台頭してきたり、また北条氏滅亡後足利氏と新田氏が争って新田氏が敗れた後の末裔が安房地方に流れてきて里見氏になっても、京都や鎌倉に中央政府がある限り、それらはあくまでも地方豪族間の勢力争いであり、中央に大きな影響を与えるものではなかった。
 
 ただ家康が江戸に幕府を開き、また利根川を北に迂回させると、房総は江戸の後方支援地として重要な地域になった。幕府初期には四天王の一人本多忠勝を大多喜10万石の城主に、土井利勝を佐倉11万石に、など房総半島の主要地を直参武士に与え、後北条氏(小田原を拠点にした北條氏5代)後に台頭してきた里見氏への警戒・防衛の要として支配させ、その他の土地は幕府直轄地として防衛、兵站、人員・資材供給地として重用した。
 
 ざっとこんなお話しだったような気がする。(先生のお話しはテンポよくドンドン進むし、ポ〜ンと飛ぶので、なかなか追いつけず、今、思い出して書いているので、間違っていたらごめんなさい)。
 
 現在大多喜町は町を挙げて本多忠勝・忠朝父子をNHK大河ドラマの主人公に、と大キャンペーンを展開中。でもテレビ界をよくご存知の先生はその実現に少々懐疑的。
「まぁ、この町の方々には申し訳ないけれど、もし実現して忠勝・忠朝は登場させるにしても、その背後の家康が実は主人公、という仕立てになるんじゃないでしょうかね」

 休憩時間に夫が、源頼朝が石橋山の合戦に敗れた後房総半島へ避難、再起したのは、頼朝の父義朝が千葉県の熊野神社分社との深い関係があったからでは?と問うと、
「熊野神社は各地にあり、特に千葉県の熊野神社だけが義朝とのつながりがあったわけではない。むしろそれ以前から関東一帯は源氏の勢力下にあり、頼朝の居た三浦半島からは海の向こうに陸地が見える房総半島は避難地として逃げ込みやすかったから、という理由からではないか」、と。

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                    (質問する夫)
 
 また私が「先生が、頼朝の援軍として上総介広常の方が大勢力で頼り甲斐があったのに、千葉常胤の方が先に援軍としてはせ参じた理由がわからない、と言われたが、私の友人は常胤の息子の一人、日胤が三井寺の僧として平家の動きを監視していて、源三位頼政の三井寺合戦の際、将来は源氏優勢、といち早く父の常胤に報告したからでは?」と言うと、「きちんとした文書がなければ、何ともいえない」と至極当然のお答え。
 
これは千葉県の歴史に詳しい友人の乾浩さんの受け売り質問だから、乾さんご本人ならもっと突っ込んだお話しができただろう。なにしろ今年出版した「坂東武者」(郁朋社)という彼の著作中にこの常胤・日胤父子譚(「圓城寺日胤」)や上総介広常譚(「上総介広常の誅殺」)があるのだから。

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                  (乾浩著「坂東武者」)

その他この大多喜の地には三浦氏の一統で鎌倉幕府の初代侍所別当だった和田義盛の館跡地もあるし、大多喜と御宿の間には「尾骨神社(おほねじんじゃ)」という、後の広常の不運を予知、そうした後難を避けるための神社もある。
 
 会場にはざっと100名近く?の歴男・歴女が詰めかけ、2時間の講演を熱心に聞き、メモを取る。それだけにもう少し房総半島や大多喜のお話しもして頂きたかった。
 
 また私としては、さらに千葉県と大航海時代のつながり、特に御宿に漂着したスペイン系メキシコ貴族ドン・ロドリゴと本田忠朝の友情や、家康の対外政策などについて、お話しして頂きたかった。
 
で、せめて講演終了後立ち話ででも、と追いかけたのだけれど、出口の混雑に紛れて先生の後ろ姿を見失い、目的を果たせなかった。残念!
 
 でも憧れの先生の謦咳(けいがい)に接することができて、またそれによって、ざっくばらんなお人柄に改めて親近の思いを抱くことが出来て、それはそれで幸せな2時間だった。
 
 最後に晩秋の夕陽に赤く染まる大多喜城の雄姿をカメラに収め、帰路に着いた。
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(夕陽に映える大多喜城)
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(大多喜城の石垣)



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