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ちょっと日にちが過ぎてしまいましたが。今年もまた終戦記念日を迎えました。
私たちは8月、特にこの15日にわが国の為に命を散らした英霊たちを悼み、感謝し
二度と戦争をしないと不戦の誓いを新たにします。とても大切なことです。
しかし現在、特に近年とても純粋に慰霊ができているとは言えません。周囲は騒がしくなる
一方です。マスコミは何ヶ月も前から騒ぎ立て世論調査を繰り返し何度も特集をします。
静かに故人を悼むことが何故できないのか。
何故首相が靖国神社を参拝することに反対するのでしょうか。国家に殉じた人をその国の
トップが慰霊するのは当然のことでしょう。国をあげて手厚く葬らなくては国家の為に
命を懸ける意義が薄れてしまいます。靖国に祀ることは国家と英霊の約束でもあります。
生きていれば話し合って約束を破棄することもできますが、故人との約束は違えることはできません。
いわゆるA級戦犯が合祀されているから?既に言い尽くされたことですが、昭和受難者(いわゆる
A級戦犯・国事殉難者とも)は国民の多数の署名を受け国会で全会一致で免罪されました。
既に刑を受け死し、さらに免罪されている人の罪を問う法がどこにあるのでしょう。
戦場へ行けと言った指導者とその命令で命を落とした兵士を同じように祀るのはおかしいとの声も
ありますが、それには僕は京都産業大学教授の所功氏のお考えに同意します。↓
「私の父は赤紙招集され、43年に南方で戦死した。相当無理な作戦駆り出されたことは確かだが、
大事な点は、それが私的な死ではなく、公の死だということ。国家が危機に陥った時に、
国政レベルでそれに対処する人もいれば、前線に赴いて戦わざるをえない人もいる。立場や役割は
違っても、その死は等しく公のものであり、大将も一兵卒も変わりはない。指導者は加害者、一般人は
被害者と分断するような論法は、戦後の二十数年間は、ほとんどなかったのではないか。」
東京裁判が不当であっても指導者は罪に問われるべき?政治や政策の結果を罪に問う法的根拠は
何でしょう。そもそも何の罪を犯したことになるのか。罪刑法定主義に著しく反することでしょう。
それに現代に生きる我々がその行為の結果起こったことを知っている、いわばカンニングと同じ状態で
罪に問うなど卑怯なことでしょう。あれが悪かった、これが悪かったというのは歴史の研究で議論する
のは大いに結構ですが、それで改めて犯罪者扱いするなど傲慢な行為でしかありません。
中韓の馬鹿騒ぎなど無視しておけばいいことです。相手にするから付け上がるのです。日本の首相が
アーリントン墓地に行くことが問題になったことは一度もないでしょう。
中韓のしていることは靖国の政治利用であり内政・宗教干渉であることは明白です。
そこに神様がいると信じるから神棚を置きご飯とお水を供えるのであり、いないと思っているのでは
それらの行為に意味はありません。それが信心であり宗教です。特に神道は教義も教典もないので
それが成立しているのは形式と人々の信心からのみと言えると思います。そこにいると信じている
人たちが年間600万人も靖国神社に参拝しているのです。靖国神社には霊璽簿があるだけで位牌や
遺骨など無いのですから。その霊璽簿も靖国が独断で選んだのではなく国が戦没者と認定した方々の
名簿を提出しそれを神社が国事殉難者として祀っているのです。
無論、追悼・慰霊のあり方は様々あります。各人の思うように追悼・慰霊をすれば良いでしょう。
ただこうも騒がれては純粋に祈りを捧げる気持ちに少なからず雑音が入ります。
現在の平和を享受している我々が、その礎を築いた先人たちに静かに祈りを捧げる。
そんな当たり前のことができるようになれば良いのですが。
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