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2018年10月28日沙流川歴史館講座  UFO研究家天宮清
「CBAによるハヨピラ建設をふりかえる」説明のあらまし
副題--CBAが空飛ぶ円盤研究からハヨピラ建設へと向かうまで--

❶1947年空飛ぶ円盤事件のはじまりから、全世界に円盤・宇宙人への関心が高まった
 空中を飛行する未知の物体を「空飛ぶ円盤」という名称と共に知られることになったアーノルド事件を簡単に解説します。この事件を契機として全米にUFO目撃があり、米空軍が調査を開始したこと、CIA(中央情報局)が、空飛ぶ円盤の目撃は原子力施設に集中していることを述べます。
 そして日本でも空飛ぶ円盤が報道され、民間に3つの研究グループが誕生するまでを述べます。
❷1957年「遊星間の友好を実現しよう」と宇宙友好協会(CBA)が設立された
 航空記者だった松村雄亮さんは、空飛ぶ円盤の記事を『航空情報』に発表し、1957年1月、28歳のとき日本最初の円盤写真を撮影します。この出来事は、1957年5月3日の大阪日日新聞に写真と共に報道されました。
 1958年8月、「おびただしい資料によって空飛ぶ円盤の実在は明らかであり、我々はできれば、宇宙人との友好関係に入りたい」とする6人の人々によって、宇宙友好協会が結成されます。機関誌『『空飛ぶ円盤ニュース』が活版印刷で発行されます。そして、「宇宙交信実験」や「円盤観測」などの活動が始まります。
❸1959年7月26日、世界から集められた40人余の青年たちに宇宙人が通告したのは--「大変動準備」と「核兵器対策」だった
1959年7月10日夜、松村さんは横浜で3人の女性とすれ違い、その時に1人の女性が微笑みかけた。気になって振り向くと3人の姿はなく、低空を円盤が飛行するのが見えた。「まさか宇宙人か?」と半信半疑の松村さんでした。しかし、一週間後の7月17日、微笑みかけたその女性と再会、彼女は松村さんを喫茶店に連れて行き「自分は日本に配属された宇宙人です」と松村さんに名乗りました。こうして松村さんは7月26日に東京近郊から円盤に搭乗することになります。
 松村さんと在日宇宙人を乗せた円盤は母船に到着。彼らは母船の中の大通りを歩いて大きな部屋に到着。そこには半円形に並んだテーブルに宇宙人、その手前のテーブルと椅子に世界から集められた40人余の若者がいました。
 宇宙人は英語で地球の青年たちに通告しました。その内容は「大変動が迫っているが正確な期日は不明。しかし、その準備として核兵器を処理してもらいたい」というものでした。
 松村さんが宇宙人から聞いた内容は、1961年3月「サンデー毎日特別号」の「宇宙人騒動記」に載りました。その副題は「地球人よ、地軸大変動に気をつけ核兵器を処分せよ」というものでした。
 在日核兵器処理活動とはどんなものだったか。私は実際にその活動を行った2人の人から2012〜2018年に話を聞き、その証言をもとにして「核兵器無効化装置」の模型を作りました。
 その当時の時代背景として「岩国に水爆あった」「1960年ころ日本は核攻撃基地」を暴露したエルズバーグ博士の報道も紹介します。
 松村さんは九州から円盤や母船に搭乗しました。円盤や母船が発着する九州の丘陵地帯とは、宇宙人にとって特別な地域なのでしょうか。その際に撮影した、母船や円盤の写真をいくつか紹介します。
❹CBAは宇宙人からの助言―「翼の謎が解ける日、過去はよみがえる」―によって、古代世界の宇宙人来訪の足跡を探求した
 松村さんは宇宙人との共同で核兵器対策を行うと共に、宇宙人から様々なことを学びます。宇宙人は「古代を研究することで、地球に訪れた宇宙人と人類の真の関係を知ることが出来る」ことを松村さんに伝えます。
 これによってCBAの研究方針は古代研究へと切り替わりました。そして、「古代オリエントの円盤―有翼太陽円盤の謎」という総力を挙げた分野に取り組みました。
❺CBAは装飾古墳に描かれた同心円を「太陽マーク」と名づけ、これを空飛ぶ円盤の平面投影図とした
 次にCBAは「古代日本学術調査隊」を組織して九州と福島の装飾古墳を探訪します。その調査で見出した彩色で描かれた同心円を「太陽マーク」と名づけます。CBAはこれらを古代日本人が描いた空飛ぶ円盤のシンボルと考えました。同様なシンボルは海外の遺跡や現代のUFO目撃にもみられます。
❻CBAは古代九州に宇宙との繋がりをもった、不知火と怪火の飛ぶ文化圏を見出し、これを「太陽王国」とよんだ
 CBAは、この同心円マークを生み出す原因となった、実際の空中現象が「怪火」とか「不知火」として日本の昔から継続してきたことを突き止めます。
 CBAは1962年と1963年に、怪火の一種、不知火の大規模な観測を行いました。CBAは不知火観測によって、不知火現象が古くから云われているように、空中を飛ぶ怪火(今でいうUFO)と密接な関係があること、不知火自体も空中に飛び上がることを確認します。その結果、現代人は「空飛ぶ皿」をもって「空飛ぶ円盤」としたように、昔は「怪火」として空飛ぶ円盤が表現されたのだ、と結論したのです。
 しかも古代人はその怪火、つまり円盤を迎えていた、これを熊本県のチブサン古墳や福島県の泉崎古墳の図柄などによって解明します。そうした宇宙の火を迎えていた地域を、CBAは「太陽王国」と名づけました。
 CBAはこの「太陽王国」を現代に復活させるという方向性を確立します。それと共に「正しい空飛ぶ円盤の姿」を広く日本人に知ってもらおうと「宇宙公報活動」を全国に展開します。
 公報活動を行うために、空飛ぶ円盤を解説した日英両文の「空飛ぶ円盤豆手帳」が何万部も印刷されました。日本各地のCBA会員は、地元周辺から山間僻地、養護施設、刑務所にまで赴いて空飛ぶ円盤を広める公報活動、スライド会や観測会を行いました。
 こうしてCBAの全国組織が全国各地に広がってゆき、同時に世界のネットワークもできてゆきました。
❼CBAはアイヌ文化にも「太陽マーク」を発見した
 1962年8月16日、CBA松村チーフ、桑田委員、土屋理事の3人は、北日本航空のコンベア240旅客機で千歳から女満別空港へと向かう途中、日高山脈上空から飛行機に向って来る大小3隻の母船と遭遇します。こうしてCBAの古代日本学術調査隊は、宇宙艦隊に見守られるようにして北海道へ入りました。
 調査隊最初の訪問地、網走郷土博物館では、アイヌ衣裳の中に装飾された渦巻き状の「太陽マーク」を発見します。この「渦動状太陽マーク」は、福島県の泉崎古墳壁画にもみられます。その図柄には、手をつないだ人物像の上に3つの大小の渦巻きが描かれています。
 調査行の最終日の8月20日に訪れた札幌博物館では、アイヌのクマ祭りの祭壇に、日神の象徴として楕円形の中に二重同心円を描いた印を発見します。
 こうして調査行は、北海道のアイヌ文化にも、九州の装飾古墳や福島県の装飾古墳にみられる「太陽マーク」を見出し、アイヌの伝承を参照します。
 すでにCBAでは、アイヌ民族の叙事詩のなかに「シンタ」という空中乗り物がうたわれていること、そしてアイヌの文化神「オキクルミカムイ」の活躍を伝える「アイヌ聖典」に「二重の明光、三重の明光」とうたわれた「神聖なかたち」を伝える言葉に着目していました。
❽こうしてCBAでは、松村最高顧問の指揮により「オキクルミ計画」が発動され全国のCBA会員が建設工事に参加することになった
 CBAはアイヌ文化神オキクルミカムイを、宇宙から訪れて人類を導いた聖なる教師の1人として認定し、その偉業を讃えるために、オキクルミの拠点としたハヨピラに記念の建造物をつくることになりました。
 そして全国のCBA会員が力を合わせて取り組み、その建設を「太陽王国の復活」と位置づけました。
 1963年12月20日に「オキクルミ計画」が発動され、地元との様々な交渉や下準備を経て、1964年4月5日に横浜で全国のCBA各地区代表者が集まって全国会議が行われました。
 計画の陣頭指揮をとる松村最高顧問は、計画の発動に当たって「このプランは当初から困難なのは充分承知している。次々と困難の壁が立ち塞がるだろう。しかし、CBAは色々な計算のすえ出来るからやる、無理だからやらないという事ではない。北陸豪雪救援の時も無理を承知でやった。あのときと同じ態勢で当たれば必ず完遂できる」と参加者を励ましました。
❾第1次オキクルミ計画「オキクルミ記念塔」「太陽マーク花壇」「空飛ぶ円盤モデル」1964年6月24日完成
 CBA会員のほとんどが酷寒の経験もなく、土木工事の経験も少ない素人でした。しかしCBAは単独ではありませんでした。工事の期間中、地元の人々から多大な援助がありました。
 たとえば、最初の頃、地盤に敷設する玉石を採取に沙流川の河原に出かけた隊員が、雨により車も入れないで困っていると、そこへ二風谷からアイヌの貝沢さんが訪れて、CBAの作業状態を見るに見かねて「自分の知り合いから無料で玉石を貰ってやる」と交渉してくれたこと。そして、砂利採取車のショベルで積んでくれたこと、そのほか食糧援助も含めてたくさんの支援を戴きました。
 オキクルミ記念塔は、岩盤に基礎を喰い込ませるために深さ4mまで掘り進みました。私は最初にこの岩盤掘りに参加しました。鶴嘴で岩に溝を格子状に掘り、タガネとハンマーで横から岩を砕きました。その衝撃で食事のとき、茶わんや箸がうまく持てませんでした。
❿第3次オキクルミ計画「古代と現代をむすぶ立体的構図のモザイク大壁画」1965年6月24日完成
 この工事は難航しました。何度も失敗を重ねて、完成にこぎつけたものです。6月24日の完成式典には、私も参加し、儀式の前に白雲の中に黒い2つの「湾曲」を目撃しました。そして夜間は、沢山のUFOを目撃しました。
⓫PROJECT 66「太陽のピラミッド建設」「トレンチ伯爵特別講演会」の2本立ての大計画でした。
 私の記憶に残るのは、1965年の秋、「ウインチ」というトロッコを操作するジーゼルエンジンの巻き上げ機を操作して、夜も昼も土や砂利を上にあげて人工の山を少しずつ築いていった思い出です。
 また富良野という北海道の奥深くまでトラック2台で行き、コンクリートブロックを満載して平取に戻る輸送の思い出もあります。途中でパンクして車体が大きく傾き、大塚さんに助けられてタイヤ交換をしました。
 また、ハヨピラの斜面を一気に登ることが出来ずに途中停止してしまい、クラッチから煙と燃える匂いがたちこめました。そのあと、どうやって登ったのか、記憶にありません。
 1966年6月24日は、肝心の松村最高顧問が来られなくて、各国大使館からの賓客と英国のトレンチ伯爵の姿が目に焼き付いています。
 また、この日はなんと、私の母が観光バスから姿を見せました。CBAの代表だった渡辺さんが田端の天宮宅に来て「いついつ羽田空港に来て下さい。飛行機で北海道のハヨピラに案内します」と言われたので、羽田に行ったら、ここに来てしまったということでした。
 CBAは1970年6月24日に最後の式典を行います。私は参列しませんでしたが、その後私の妻となった蛯沢ユキと兄の蛯沢松雪が参列しました。そして、その日のことを詳しく聞きました。
 私はCBA会員の末端で、1964年当時は19才でした。当時の主だった方々は世を去りました。50年以上たって、平取の皆様にこのような説明が出来た事を宇宙に感謝する次第です。
2018年10月12日天宮清

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各位 様
いつも何かとお世話になります。現在の私の状況などを添付PDFと共にお知らせします。
 10月28日に沙流川歴史館で行う私の講座の「あらまし」を述べたPDFと、札幌の「ノーザンクロス」で企画された当日の平取行きバスツアーの案内も参考までに添付します。
 何度もやり直したり、多すぎる画像を削除したりして、ようやく10月28日未明に講座に使用する108枚の画像を整えましたが、その直後に、UFO本の最終校正が届きました。それでこれから10日ほど、校正作業に集中することになりました。
 しかし、平取行事の準備を済ませておこうと、ようやく完成にこぎつけた会場での配布チラシ用テキストのPDFを印刷して、A3紙4頁チラシに組み、両面コピーで50部を印刷しました。参加者数の予測ができませんもので、とりあえずです。沙流川歴史館からは「印刷できますから」とのことで、版下を持参して、集まりの様子を見ながら増刷できるかと考えています。
 10月27日の現地説明会では、A3紙にコピーした1枚の図を集まった方に配布し、口頭での説明とフリップを見せながらの説明をする予定です。
 今日の昼間、肝心な説明を忘れていたことにハッと気づき、今までその制作をしていました。
 また、当初はフリップを手に持って説明するつもりでしたが、2010年6月24日にハヨピラで使用した三脚に取り付けるパネル立てを捨てないでとっておいたのが役に立つと、さきほど思いつき、それを確認しました。大きな三脚をリュックに入れるとかなりの重さです。
 あとは床屋にゆくこと。そして天理駅からの5時40分発伊丹行きバスに乗るため自転車の有料置き場の仕組みを確認するだけとなりました。自転車はパンクしていたので、先日自転車屋でチューブを交換しました。
 

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