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イエスの云う「ヨナのしるし」とは何か?
UFO本の最終校正を本日終えた。改めて編集者によるリライトの卓越した技と、構成の巧みさに感動した。
交響曲のように、「主題」は、舞台を変えて幾度となく繰り返され、徐々に「核心」へと読む者を導く。
比較するのは僭越極まりないが、聖書という書物を頭に浮かべた。聖書の言葉というものが、全世界で「運用」され、良くも悪くも、数千年を経ても影響力を持っている。このUFO本も、願わくばそのような世界の運命の道に敷かれる土壌となることを念願して止まない。
完成した聖書の言葉は、日本語であれヘブライ語であれ、単なる文学書として成立したのではなく、無数の歴代賢者の知恵と、それぞれの賢者の頭脳に向けて陰に陽に力を及ぼした地球外知性の意思が合流したものだと私は考える。
「ルカによる福音書」11章19節にイエスの言葉として「この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかは、なんのしるしも与えられないであろう」とある。
「イエスは大勢の病人を癒したではないか。それらがしるしではないのか」と我々は思うのだが、まさにイエスの言葉は「ニネベの人々に対してヨナがしるしとなったように、人の子もこの時代に対してしるしとなるであろう」と述べているから、イエスの行ったことも含めて「イエス」自身がこの時代のしるしとなったようた。
では「ヨナのしるし」とは何か?
聖書をひらくと、「ヨナ書」たったの3頁しかない。しかし文章は冒頭から簡潔にヨナについて記している。
ヨナは神から「ニネベに行け、彼らの悪が私の前に上ってきたからだ」との命令を受ける。しかし、ヨナはニネベには行かず神の命令から逃げるように港から船に乗る。
しかし、ヨナを乗せた船は嵐に遭い沈みかける。水夫たちは、この嵐の原因が船倉で寝ていたヨナにあることをつきとめる。ヨナもそれを承諾した。かくて「神の怒りによる嵐」の原因であるヨナは水夫たちによって海に投げ込まれ、海は静まった。
ところが投げ込まれたヨナを「大きな魚」が飲み込む。ヨナは魚の腹で三日三晩を生きるなか、神に祈り「わたしは感謝の声をもって、あなたに犠牲をささげ、わたしの誓いをはたす」との態度に至る。これを聞いた神は、大魚に命じ、ヨナは大魚から陸に吐き出される。
こうしてヨナは、アッシリアの巨大都市ニネベに向うのである。ヨナは神が命じたとおり「40日を経たらニネベは滅びる」と言った。これを聞いたニネベの人々は神を信じ、断食をし荒布を着て悔い改めた。ニネベ王も王座から降りて荒布をまとい灰の中に座し、ひたすら神を呼び、悪の道を離れた。
これを見た神は、彼らの上に下そうとしていた災いを思い返し、これを取りやめた。
この神の下した慈悲に不満なのがヨナであった。彼は神の命に従ってニネベに「滅びの予言」をしても、「あわれみ深い神のことだから、災いを思い返すだろう」と知っていたので神の命を逃れようとしたのであった。「こんな生き恥をかくのなら、死んだほうがマシだ」と言う。これに対して神は「あなたがそのように怒ることは良いことだろうか?」と疑問を呈する。
ヨナは町を出て小屋をつくり、そこで町の成り行きを見ていた。しかしヨナは暑苦しんだ。これを見た神は「とうごま」(唐胡麻と書くが、ひょうたんという解釈もある)を成長させてヨナの頭上に日陰をつくった。しかし、翌朝には神が送った虫のために「とうごま」の木は枯れてしまい、太陽の光がヨナの頭を照らしたので、ヨナは弱り果て「苦しんで生きるより死んだほうがマシだ」と言った。
これに対して神はこう言ったという。「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜にほろびたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは12万あまりの、左右をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」
では、この短い物語の中で、どこを「ヨナのしるし」とすべきなのか。『ティンデルTyndale聖書注解―オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書』101ページには、一般的に考えられている「ヨナのしるし」は、以下のどちらかであろうとしている。
(1)ヨナの宣教
(2)ヨナが大きな魚の腹から救い出された
同書150ページによると、この書の最後は「はっきりと神の滅ぼしたり救ったりする権利に焦点を合わせている」と説く。
「世はこんなにも乱れた、もう滅亡しかない。世界は滅びるだろう」と人間は簡単に言葉で世界を滅ぼすが、実際に世界の創造主の立場に立てば、「せっかく精密にでき上っている世界を、そう簡単に滅ぼすことは出来ない」という意識にもなる。
※絵は嵐に遭った船、大魚から吐き出されるヨナ、ニネベを見るヨナなど。
大きな町ニネベに赴き、その只中に立ち、神から預かった言葉を宣べなければ、と緊張の面持ちで町を見るヨナの姿を描いたものは最近の作品のようだ。
「神の力を受けて立ちあがり、神の示す目標地点に立つ」という個人の行動に「神の計画」上の意味を持たせるということになるだろうか。
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