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宇宙組織の概観-3
人間において「信じる」とは、どのようなものか。「信じる」という人間の状態が適用されるのは、親子や友人など親密な関係にある人間同士における精神あるいは心の在り方といえようか。
「あなたを信じる」と申告する行為は、恋愛関係の男女に適用されようか。
新約聖書によると、イエスは故郷のナザレでは歓迎されなかった。それゆえ癒しの奇跡も行わなかったという。
青春新書・船本弘毅著『イエス』166ページにこうある。
「イエスはナザレで奇跡を起こさなかった。それはナザレの人々の心に潜んでいた先入観、傲慢という心が引き起こした不信心のせいである。この点において奇跡は魔術とは違う類のものだとわかる。信仰のある者のみが直面できるのである」「信仰のないところに軌跡は出現しない」
むかし、「空飛ぶ円盤は信じる者にしか見えない」とよく言われた。だから、信じる者の目にだけ見える幻覚なのだと論じられた。
それに対して「幻覚は写真に写るか?」という反論もあった。
「UFOは科学だ」という論は昔からある。確かに現象について述べるには、客観的な状況のなかで、それがどのように現れて、どのように振舞い、そして去ったか、消えたかを見たままの証言をしなければならない。それに用いる用語は、科学的に、観測的に、時間(出現・発見から見失い・消失・退去)、空域(方位・仰角)、見かけ上の面積(恒星・惑星との比較や月と野比較など)、明るさ、色彩、運動、これらも主観的でなく、客観的に述べるべきだろう。
問題は目撃者本人と現象との関りである。「友人から空飛ぶ円盤の話を聞いて、そんなものあるもんか、と笑って歩いていたらUFOを見てしまった」という場合は、サウロがキリスト教信者を迫害して死に至らしめ(ステファノ)るなどしていたが、思いがけなく天上からの光とイエスの声を聞いてしまった。それによってサウロはパウロとなってキリスト教の基礎をつくった、という話に似ている。
ここで重要と思われるのは「そんなものあるもんか」と強く思うこと、本気で否定することにあるだろうか。
サウロもキリスト信者を死に追いやる熱心さで迫害していた。つまり真剣にキリストを否定していた。
・・・とまあ、私(天宮)は考えた。そのへんは、律法学者の権威によりユダや教徒の人心を支配するという、あるいは科学や学問の権威として、その「座」の特権から、UFO目撃者を笑うのと、「友人から聞いたが、そんなもの信じられるか」と、我が身の問題として捉えるのとの「違い」が想定できるか。
このへんは微妙である。人間の「心」の質というか、形式的には同じに見えても、本質が、その心の素材が違う、というような語り方はむずかしい。
敵に四方を囲まれ、常に死と隣り合わせにある戦国時代の信長は、猜疑心の塊であったが、「信用できる者」と「裏切る者」の仕分けなど、人間を観る眼の的確さによって奇跡的に勢力を拡大して天下統一直前まで行ったようだ。そのあとはまあ、秀吉と家康が引き継ぐかたちだが、信長が戦乱日本を脱して天下泰平の基礎をつくったと私は思う。
この、いつ寝首をかかれるかも知れない時代の「人を信じる心」「信じる判断」
このへんが重要かと思う。
つまり世界を自分に引き寄せて、「考える」ことを止めない姿勢である。核兵器という存在に対する思いも、常に核の脅威は他人事でないという、「心掛け」が現代人には必要だと思う。
支離滅裂になった。「空飛ぶ円盤を信じる」というのは、見ないでもその実在を信じる、というのとかなり違う。
写真は「野外フリップ立て」と名づけた2010年に作ったもの。
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