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2018年10月27日早朝出発に向けた旅支度
2018年7月24日夜、奄美大島に住むT氏から電話があり、「1954年のU=Z事件とバチカン十字事件の資料を送って欲しい」とのことだった。
私はついでに「いま、UFOの本を書いている。CBAのことも書いた」と伝えた。彼は感動した様子で「誰かがやらなくてはならないことだ」と言った。UFO本にはT氏からの情報も記載されている。UFO本が出版されたら、少なくとも、その部分のコピーくらいは、奄美に送ってやろうと思う。そういう相手はまだ何人かいる。
奄美の彼にはDVD「カムイカラシンタ」とカラー冊子3点セットも送った。T氏とは1962年の高校生のころは、子弟的な関係にあったが、今はそういう気分はなくなった。
私は1974年頃、松村氏の言葉として妻から聞いた。「CBAとはどんな団体で何をしたのか、それを世間一般に公開する」と。
しかし、その「公開」に関しては、その後発展的な情報は得ていない。UFO本の執筆過程で、何度も松村氏が夢に現れた。それらは手帳に記してある。
上空を飛行する未確認機にしても、松村氏が操縦しているのではないか、とふと思ったことがあった。具体的な根拠はないが、「戦略的ふるまい」にそれを感じた。
昨日は津本陽の『下天は夢か』三で浅井と朝倉攻めで苦悩する場面を読んだ。死臭に囲まれて刃を揮う「活動」は、われわれCBAの「前職」だと松村氏は私に二度も言った。その会合で、私は集まったCBA会員に向けて、松村氏の言葉を大声で伝えた。会合にいた妻によると、松村氏は私のしゃべる姿をじっと見ていたそうだ。
さて、今朝は平取行きの持ち物を点検し、やはり、カメラとファイルを収めるもう一つの手提げが必要と判断した。押し入れを二度も捜したが適当なものがなかった。まさか紙袋では頼りない。ふと娘の部屋を捜してみた。すると、数あるバッグ類から丁度良いものが見つかった。10年前に買ったノートパソコン用のケースとこれを重ねて持てることを確認した。
三脚とフリップを入れたリュック、そして手に持つ二つの手提げで用意は出来た。名刺代わりに名刺大にカットした紙にゴム印を押して10枚持った。UFO本のタイトルを入れた「お知らせ」と帯のコピーも持った。
昨夜、平取町のノーザンクロスからメールがあり、天候状態を知らせてくれた。老人になると、ちょっとしたはずみで怪我をする。USBに入れる画像の制作作業中もNTカッターで二度も指を切って血が出た。いまは二ヵ所とも治っているので、差し支えない。
とにかく最大の問題は「うまく言葉がしゃべれるか」である。老化と共に、活舌が衰える。声がかすれてくる。この点は、大阪UFOサークルでの発表で練習を積んできたが、寒さという環境の中では初めてとなる。まあ初めてであり最後でもあるわけだが。
「早く過ぎ去ってほしい」と妻には何度も言った。別に処刑されるわけではないが、「CBA」と「ハヨピラ」を釈明しつつ、願わくば「未来」につなげたい必死の思いはある。なぜそんな気持ちになるのかというと、100人に近いCBA同胞の数知れない「声」と「文」を読んできた結果である。この素晴らしい、おそらくは地球史に二度と登場することはないかも知れない、1人1人がキリストに匹敵するような方々の思いを感じるのである。
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