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個人UFO研究誌「UFOリサーチャー」創刊までの物語−17
芦屋における「母船群」の掲示
 現金問屋「マサキ」の売り上げが伸びて、私は連日のように札束を銀行に運んだ。そして図らずも1985年3月号『トワイライトゾーン』誌に、エチオピア難民の移動中にUFOが物資を投下したという情報が掲載された。このニュースの情報源の信頼度は不確かではあったのだが、河合、根岸、正木の3名が、この事件を重視してアフリカ行きを決意した。それは「難民に投下された粉ミルク」が、かつてCBA別動隊がコンタクトマン松村氏の下で円盤に運び込んだ粉ミルクが使用されたのかも知れない、という期待感によるものであった。
 正木ファンドの全面負担により「アフリカ難民救援調査行」が立ち上がった。隊員9名は装備を整えてアフリカに赴いた。
 正木氏は癌の末期にあったが、エチオピアで雨により道路が寸断された際、俄か道路工事で仕上げた道路に向けて発進した車のバランスを取るべく、率先してバスの端に飛び乗った勇ましい姿は、今も瞼の裏に残る。
 スーダン砂漠地帯における熱砂の中の移動を乗り越えて、無事帰国した正木社長は、ある日、同業者間の事情により、突如芦屋のテナントビルを購入した。
 「天宮君、記録ノートを持って芦屋へ行ってくれ」と頼まれ、即日芦屋のテナントビルへ向った。そして会社の担当者から各種書類の引き渡し、さらに前任の管理者からややこしい開館の工程を引き継ぎ、各テナントの家賃・光熱費請求のシステムと管理人室内の計器盤など、頭の痛くなるような引継ぎ事項をメモし、それを文書化した。そして補助者を職安に赴いて募り、応募者への面接と、その人物評価をテナントに相談するなど、家に帰らないまま、単身赴任の生活が多忙な日々がしばらく続いた。3人の代行者が整った後は、天理から通勤した。
 やせ衰えた正木氏は「天宮君、もうお陀仏だよ」と私に言った。そんな
夏の日。1986年8月15日午後2時25分、テナントビル管理人室の窓からふと空に目をやったとき、純白凸レンズがたちまち一列に6個並んだ。「なんだなんだ、ここはハヨピラか?」するとその左に針のようにキラキラ光る紡錘が3個並び、合計9個となった。とみるや、左の3個と右の5個が瞬時に消失。中央の巨大な1個だけが残って、じっとこちらを見ている気がした。
 翌8月16日午前1時30分、正木栄一氏は入院中の病院で死去した。その後、いろいろあったが、翌年1997年2月より、妻の勤務する洗濯工場に勤務が移り、これより本格的なUFO研究と各種実践活動が開始されることになった。

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個人UFO研究誌「UFOリサーチャー」創刊までの物語−16
■大阪の職場でワープロを知る
 会社は我々一家が出たことにより、交代制で宿直が行われたが、約3ヵ月の入院生活を終えて自宅に戻った私は、退職を決意してそれを工場長に告げた。
 7年間の杉山繊維工業株式会社での勤務を「天理教的義務の完了」とみなして退職したあと、私はインド紀行の報告に赴いたかつてのCBA同志正木氏の経営する「現金問屋」へと向った。即日就職が決まり、私は経理を担当し、大量の現金を扱い、札束と格闘する日々となった。
 そんな中「天宮君、便利な器械がある」と見せられたのは「ワープロ」といって、白紙に綺麗な文字が印字される小さな器械だった。
 上質紙に印字された文字を見て「おお、まるで写植のように綺麗な活字だ」と私は驚嘆した。正木氏からそれを自分専用にもらい受けて、すぐさまUFO年表の作成に着手した。
 昼休みなど空白時間を活用して文献を見ながら文字を入力した。昔は紙を切ったり貼ったりした年表作りが、単に行を入れ替えるだけで、年号順に並ぶ。入力した文字は一行が液晶窓に表示された。UFO年表作成には十分な機能であった。
 この作業はのちに1991年「UFO RESEARCHER」B4判259ページの印刷物へと活用されることになる。

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個人UFO研究誌「UFOリサーチャー」創刊までの物語−15
インド巡礼紀行後の運命転換
 1983年2月、河合氏と彼の下に集まった若手メンバーと共に、私はインド紀行に参加した。宿直勤務者が会社を留守にして海外に出かけるなどという、前代未聞の暴挙に、工場長から反対されはしたが、妻が私の宿直を代行することでなんとか許可が下りた。
 インドから帰国し妻から話を聞くと、かなり身体が危険な状態に陥ったこともあったが、何とか持ちこたえたとのことであった。
 ところが、私はデカン高原近くのサトウキビ畑で売っていた「サトウキビジュース」をただ一人飲んだことによって、帰国後に急性肝炎を発症した。それが娘にも感染して2人とも天理市民病院に入院することになった。
 この事態を重くみた会社側は、急遽天宮一家の宿直勤務を解任する方向へと向った。万が一、生徒に感染したなら会社生命にかかわるからであった。
 私は絶対安静の病床にありつつも、転居先について思いを巡らし、1人の従業員婦人の顔が頭に浮び、病室を訪れた妻に「会社の向かいのUさんに、借家のことを相談してみてくれ」と頼んだ。後日、そのU婦人によって「鶴ケ丘住宅」が紹介され、天宮家は会社の従業員の協力によって瞬く間に引っ越しが完了した。
 不思議なことに、一家3人同じテーブルで同じ食事をしていたのに、感染したのは娘だけだった。妻が発病するのは時間の問題と思っていたが、結局のところまったく異常はなかった。
 こうして、天宮一家はインドから持ち帰った肝炎ウィルスによって、大きく運命が転換した。すなわち晴れて「自由の身」となったのであった。

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個人UFO研究誌「UFOリサーチャー」創刊までの物語−14
再び不知火観測に挑み磐井の墓を訪れる
 集合地点からは集まった10数名が小型バスと乗用車に分乗し、観測地点へと向った。現地での記念撮影に写った人数を数えると、カメラマンを含めて総勢20名であることがわかった。南国ムード一杯の海辺の旅館での歓談や、素潜りで蛸を追いかけるなど元気一杯であった。
 八朔の観測時、私は大島を基準に海面上に向けた三脚に固定したカメラで、リバーサルとネガカラーにより、一定間隔の露出撮影を行ったが、他のメンバーがどのような撮影をしたのかは記憶にない。また、1962年と1963年に、実際の不知火を見たものは、私と河合氏のみであった。
 結果として、私の撮った写真(リバーサル・ネガカラー)には驚くべき光景が写り込んでいた。そのほとんどが「複数発光体の移動光跡」である。
 ネガカラーにはウェーブしながら海面へ向うかの光跡。リバーサルには至近距離で乱舞するかの様な光跡と、記念撮影における参加者の頭上空間で乱舞するかのような光跡であった。
 「参加者の頭上空間で乱舞するかのような光跡」の中に「500」と読める部分が4ヶ所みられた。その色彩はオレンジ系と青緑色で、両者の動きは異なっていた。これをどう解釈するか、という問題は、のちに米国の元NASA科学者リチャード・ヘインズ博士をも巻き込む学術的課題となったが、確実に私がこれを見ていえることは、複数の光源が、似たような航跡で空間を移動している、ということである。
 この特徴は、1981年9月29日に日本テレビ取材班による暗視カメラ映像における複数光体の動きと似ていた。
 さて、私は河合浩三氏との大阪における面談で、CBA活動の源流が戦国時代に遡ることを聞き、さらには赤穂浪士の話まで持ち出されたので多少面食らっていた。
 それでも岩戸山古墳、すなわち古代九州豪族の英雄磐井の墓とされる巨大古墳を表敬訪問することの意義については、河合氏に言われるまでもなく、あの「太陽王国」チブサン王の装飾古墳的思想命脈線上で理解していた。教科書的日本神話が世に流通し日本人必須の教養とみなされているが、あの古田武彦著『失われた九州王朝』298ページにある如く「(3)高麗・百済・新羅・任那等、朝鮮半島の国々は、磐井を日本列島代表の王者として、そこへ遣使していた」というような歴史観がわれわれには納得できる筋道である。
 現地に復元された石人石馬の残存を間近で見る感触は、あの長崎県福井洞穴で見た陰刻に等しく、我々の胸に直接語りかける「原日本人の歴史」を感じることが出来た。

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個人UFO研究誌「UFOリサーチャー」創刊までの物語−13
■CBA旧知との再会
時期は前後するが、1982年の夏ころ、CBA旧知の1人河合浩三氏から作業中の職場に思いがけなく電話が入った。彼は唯一知らせておいた旧知から、私の現在地を知ったのであった。彼の話によると…
「1982年3月3日から一ヶ月余り、マヤ、アステカ文明の地、メキシコ、ペルー、ボリビアと、『サンダーバード』伝説の北米に、古代宇宙来訪者の足跡を尋ねる報恩調査行を行った。東北の若手が多数参加してくれた」とのことで、「今度9月の八朔に不知火拝観を行う計画がある。参加は自由だ」と付け加えた。
 当分は天理で隠遁生活を続けるつもりであったが、やはりCBAの各種プロジェクトを多少なりとも共有した1人として、一度そのようなことを経験した「若手」にも会ってみたいという思いが生じた。
 それぞれが横浜近辺で大変な苦労を経験して、いまなお「志」を維持しており、河合氏の下で海外に雄飛する姿というのは頼もしく感じた。恐らくはツアーを引率する語学達者なメンバーも含まれているのだろう。また南北米での古代遺跡調査がどの程度成されたのか、にも関心があった。
 やがて彼らの発行した調査行成果を掲載した写真集『PROJECT "THUNDER BIRD"'82』が届いた。さっそく杉山繊維出荷場のメンバーにも回覧し説明した。その中には「ナスカの地上絵を背景に飛行するUFO」「アンデスの有翼太陽円盤の発見」という学術的に価値のある写真もあった。
 次に、不知火観望の現地集合場所の詳細を記した案内が届いた。私は大阪の旧知夫妻と共に関西汽船で九州に向った。1982年9月16日に出発し、不知火観測は9月17日未明となっていた。

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