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個人UFO研究誌「UFOリサーチャー」創刊までの物語−12
■さらなる天理高校2部生のUFO目撃
 妻の作業場である布団側に綿を入れる作業の「相棒」は、頭脳優秀で容姿端麗な女子高校生であった。彼女は妻の話すUFOと宇宙の話をどんどん吸収し、理解し、さらに空の観察を実践した。それによって、彼女は、教室の窓から、学生寮の窓から、下校時に同級と共に、様々なUFOを目撃した。
 彼女は次の学校内UFO展示を目指し、我々が渡した多数の資料を学び、逐一疑問点を提出し、それに応答するというUFO学習が続いた。
 我々が渡した資料を、彼女がまとめた文章はよく出来ていた。そのテーマはツングース事件から古代宇宙来訪者伝説にまで踏み込む内容となる筈であった。しかし…
 急速な理解と、それに見合った目撃体験の報告を受けて、妻の説明は次第にエスカレートしていった。そして、遂には「人類滅亡」のテーマに到達するに到った。
 その話に驚いた彼女は、天理教の信者である親にもそれをストレートに伝えた。これを聞いた親は、娘が変な思想に染まるのを危惧したと思われる。はるばる遠方から私の借家を訪れたのであった。
 このように親がUFOにのめり込む子供を心配して、私に会いに来た例は過去のCBA時代にもある。そのつど自分なりに説明するのだが、やはり「UFO目撃」によって確信を得た内容を、いくら自分の子供だからといって、頭から剥ぎ取ることはできない。またその興味から遠ざけるのも困難である。
 しかし、子供の親に対する立場もある。妻と私はそうした状況を考慮して、このたびは親の申し出を尊重してUFO学習を中止し、次期文化祭でのUFO展を断念した。このケースは多くの教訓を残した。
 2015年に印刷通販で制作したカラー冊子「現代日本のUFO目撃」10頁に、この優秀な女子高校生の目撃報告の1つを掲載してある。これは、地球文明の続く限り永久に保存したいと思う事例の1つである。

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個人UFO研究誌「UFOリサーチャー」創刊までの物語−11
■1982年秋、天理高校二部文化祭でFlying Saucer展  
 DPE設備と複写作業によって、スライド構成『イエスキリストは宇宙から来た』と『カムイカラシンタ』が1979年に完成した。
 私は「出荷場」という部署で毎日製品の梱包と発送作業に従事しつつ、CBA仲間から送られたUFO写真集を仲間に回覧して、大人のUFO目撃者から事情を聞いたり目撃図を描いてもらうなどを行い、自分がUFOを研究していることを社内に知らしめていた。
 私は宿直の立場をフル活用し、食堂を映写室にして高校生、娘の小学校の先生、そして私の生活状況を検分にきたCBAの某支部長や東京から来たCBA旧知に見せた。高校生に対しては卒業を前にした4年生に見せた。
 出荷場は作業が集中するときは多忙だが、それ以外は時間があったので、私は男子の新入社員や生徒たちに宇宙やUFOの話をする機会が増えた。
 ある時などは、モーゼの出エジプト物語を延々と一通り聞かせたこともあった。
 そんな話に耳を傾ける熱心な生徒がいた。そこで日曜日、その生徒に会社の食堂に来てもらい「イエスキリストは宇宙から来た」と「カムイカラ・シンタ」を上映して見せた。
 するとそれから間もなくして「UFOらしいものを見ました」と目撃レポートを何通か受け取った。
 その1件は3人の同級生と見たもので、土星ほどの肉眼でやっと見える光体がジグザグ運動で方物軌道を移動したものであった。そしてそれは2度繰り返された。
 もう1件は、突然光体が輝き現れ、10秒たつと動き始め、旋回して山に隠れると、また最初に現れた地点に別な光体が現れ、旋回して同一経路を移動。これが何度も繰り返された。
 そこで私は彼女に「もし文化祭にUFO展示をやるなら、全面的に協力する用意がある」旨を告げた。
 後日「友人たちが手伝うと言ってくれたので、出来そうです」との返事がきた。
 私は彼女とその仲間にもスライドを見せた。そして、当然のことながら彼女とその仲間の間にUFO目撃が発生した。それと併行してDPE設備をフル回転させて「展示物」に使用する写真の焼き付けを開始した。 
 生徒たちにはUFOの「特性」について教え、彼女たちは「編隊図」など各種の展示物を制作した。
 そして会社の車に展示物を満載して学校へ運搬、段ボールで作った「土偶」を含め、立体的なUFO展示となった。
 こうして1982年11月14日、天理高等学校2部文化祭に「Flying Saucer」と題した展示が実現した。
 展示物制作に携わった生徒は全部で7人いた。彼女たちは掲示物の一つににこう記している。
 「Step by Step…現代という“無限の可能性を秘めた今”私達は異星に関心を持つ必要があるのではないかと思うのです。UFOがどうして地球にやってくるのか、見直していく必要があるのではないでしょうか?!」「わかってほしい 宇宙人とは〜UFOには、それぞれ操縦する何かが乗っているはずだと考えられます。その何かが、私達の俗に言う“宇宙人”です。宇宙人といえぎ何か変なバケモノのように思う人が多いと思うのですが、決してそうではありません。宇宙人は私達よりもずっと優れたものを持っている想像を絶するものだと思いたいのです。皆さん、宇宙人への偏見の目をもう少し改めてほしいものです」

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個人UFO研究誌「UFOリサーチャー」創刊までの物語−10
■DPE道具の購入
DPEとは「 Development - Printing - Enlargement の略で「現像・焼きつけ・引き伸ばし」を指すが、デジタル技術全盛の現代では、過去の技術となった感がある。しかし、1980年代の私にとつて、写真を主体とするUFOLOGYの表現を行うためには唯一の手段であった。
 1980年9月、私は天理本通りの奥まった天理教本部近くにある「道場軒写真館」から、ハンザH-2000引伸器、四つ切、キャビネのバット、イーゼルマスクや大小の印画紙といったDPE一式を44800円で購入し、宿舎の2階に暗室を設置した。
 このきっかけとなったのは、1980年7月24日午後、津軽半島上空の機上から撮影した「母船」状の雲であった。そのモノクロネガを現像し、四つ切に焼いたのが作業の最初であった。
 残念なことに、我々の肉眼には明瞭に見えた「母船」であったのだが、印画紙上では驚くほどうっすらとしか現われなかった。
 図書館から考古学書籍を借りて、それを複写してスライドにする作業には慣れていた。UFO資料も少し増え、それらをスライドにして二つのスライド構成を作った。ナレーションは妻が担当した。

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個人UFO研究誌「UFOリサーチャー」創刊までの物語−9 
■スライド構成の制作
 われわれ天宮一家は、1978年5月より「宿直」として工場内敷地に建てられた宿舎に移っていた。前任者は北海道出身者で大変世話になった。
 宿直という任務は、会社の業務が終了して無人となった広い工場の見廻りや、外部からの連絡・訪問の受付、朝の出勤時における準備作業といった管理人的な仕事で、それが日常となった。また深夜外部から侵入した不審者と、通報を受けて駆けつけた警察官との不審者発見作業など、緊迫した出来事も何度かあった。
 近所に住む元社員の主婦から軽乗用車を譲ってもらい、娘が急病になっと時など医者探しに工場を留守にして3人で出かけたが「宿直が工場を空にして出かけるのはけしからん」と上司より叱責を受けた。
 それゆえ、常に私か妻が工場にいる義務があった。しかし一方、一日の業務が終了して無人となった工場内は、ある意味、自分の世界である。深夜、広い敷地内でのUFO観測や、大きな作業台に画用紙を並べて絵画の大量生産ができた。
 私の身辺にUFO資料は少なかったが、古本屋に売却もできないコピー書が残留物として東京の母から送られていた。その中に『アイヌ聖典』と『アイヌの神典』があった。私はこれを読み込んで、そこに書かれてある情景を解釈した絵で描くことを思いついた。
 すでに山川惣治氏により「オキクルミの冒険」という絵物語がつくられていた。それはCBAの「ジュニアえんばんニュース」に連載されていた。
 その幾つかの絵のコピーを、私は幸いなことにノートに貼っていた。その絵を参考にして、アイヌ文化神オキクルミの活躍を水彩で描いた。
 深夜、現場の作業台に画用紙を並べ、「今夜は人物の肌色」、「今夜は風景の緑」といった具合に、10数枚の絵の制作を一度に進めた。
 それと共に音声朗読の脚本となる簡潔な文章にも着手した。

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個人UFO研究誌「UFOリサーチャー」創刊までの物語−8 
■天理高校二部生のUFO目撃者との出逢い
 杉山繊維衣料部の廃部が決まったあとの1978年末に、就職のことで個人的に話を聞くため、卒業を前にした1人の女子高校生を宿直室に招いた。
 彼女は部屋の壁にかかっていた空飛ぶ円盤と地球を描いた絵を見るなり「私もUFOを見たことがあります!」と言った。
 そこで、その話を聞くと共に、画用紙と色鉛筆を渡して、その目撃したUFOを自由に描いてもらうことにした。
 驚くべきことに、彼女は「1」「2」「3」…と番号を書いて、複数のUFOの変化を紙一杯に描いた。こんな手馴れた目撃画に驚いた。
 さらに驚くべきことは、彼女のUFO目撃は町中の人々が目撃している最中であり、その事件は新聞にも報道されていたのであった。
 そして、当時の民間UFO調査機関「IUOC(国際UFO観測隊)」の調査員が町に派遣されて、彼女もその聴取に応じて証言したとのことであった。
 「そうすると、このUFO誌を見たことがあるか?」と、私はカラーのコンコルド撮影UFOの表紙がある「UFO NEWS」1974年春夏号を見せると「ああ、これです。私も見ました」と答えた。
 その事件は次のような内容で報道された。一部を紹介しよう。
「1975年2月14日、北海道中標津の町で午後6時半から7時ころまでの間、『明るく円盤状のものを見た』という人が次々と現れた。この謎の物体をカメラにとらえた人は、運転手のTさん(28)…よく見ると円盤状のものが5つ重ね合わせているようになっているのがわかった。この一団は、空中に静止していたが、その中の”1機”がすーっと横に移動してまたもとの位置に戻ると、こんどは別の”1機”が違う方向へやはり水平状に移動してまた戻って来るという動きをした」


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